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教会からのお知らせ

年間第28主日 勧めのことば

2024年10月13日 - サイト管理者

年間第28主日 福音朗読 マルコ10章17~27節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

イエスさまはエルサレムへと向かう旅、すなわち十字架に向かう旅の途上で、ひとりの人と出会います。その人は真面目にモーセの律法を守り、誠実に生きてきた人のようです。「善い先生、永遠のいのちを受け継ぐには、何をしたらいいでしょうか」と真剣にイエスさまに問いかけます。彼は一生懸命にモーセの律法を守ってきましたが、それでも心の平和が得られなかったのかもしれません。それで、必死の思いで、イエスさまに問いかけます。子どものときから、律法は守ってきました。まだ何か足りないものがあるでしょうかと。イエスさまは、彼に「あなたに欠けているものがひとつある。行ってもっているものを売り払い、貧しい人に施しなさい。それから、わたしに従いなさい」といわれます。おそらく、彼はたくさんの財産をもっていたのでしょう。

当時のユダヤ教の理解では、財産は神さまからの祝福のしるしで、財産をもつことは悪い事ではなく、むしろ、律法を忠実に守ってきたことへの報い、祝福と考えられていました。それなのに、イエスさまは、永遠のいのちを得るためには、財産をすべて売り払わなければならないといわれます。この人は、気を落とし、悲しみながら去っていきます。それからイエスさまは、弟子たちに財産のあるものが神の国に入ることの難しさについて話されます。それでは、誰が救われるのだろうと弟子たちは驚きます。それに対して、イエスさまは、「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」といわれます。しかし、人間にはできないことだといわれているのに、ペトロは相変わらず、ずれた発言をします。「わたしたちは何もかも捨ててあなたに従ってまいりました」と。

今日の箇所は、ペトロのようにイエスさまのために進んで何もかも捨てて従いましょう、というような説教がされがちです。それでは、もしその人がもっているものをすべて売り払って、イエスさまに従えば、永遠のいのちを受け継ぐことができたのでしょうか。答えは、いいえです。もっているものをすべて売り払って、イエスさまに従ったとしても、永遠のいのちを得ることはできません。なぜでしょうか。そもそも、彼が永遠のいのちを得たかったのはどうしてでしょうか。それは、自分の救いのためなのです。自分の救いが目的なのです。問題は、財産をたくさん蓄えていたことでも、財産を売り払うことができなかったことでも、またペトロが豪語するように、何もかも捨ててイエスさまに従うことでもないのです。ペトロも含めて、彼らは人間の物差しで神の国を捉え、自分が永遠のいのちを得、救いを得ようとしていることに問題があるのです。つまり、自分の何かが目的になっており、しかもそれを自分の力で得ようとしているところに問題があります。ですから、自分の力で何もかも捨ててイエスさまに従って来たと主張するペトロも同じです。ペトロは、捨てたという行為だけを取り上げて、自分たちは永遠のいのちを受ける資格がある、救われる資格があるように主張しますが、救いは神の恵みであるとイエスさまはいわれます。イエスさまが、捨てたものは来世では永遠のいのちを受けるというようなことをいわれますから、余計にわかりにくくなります。

わたしたちがイエスさまに従うというとき、始めは自分の救いや永遠のいのちが目的であっても構わないでしょう。しかし、自分の救いとは何でしょうか。それは大抵の場合、物事が自分の思い通りになることではないでしょうか。そこには、思い通りにならない自分と思い通りになった自分があり、今すでに得ている自分では満足できないので、思い通りになる自分を探し求めます。しかし、その思い通りになることを求めている自分のこころ、それを救いと勘違いしている、それが執心(執着心)といわれるものなのです。執心は一般的な世界では、社会の中での成功体験であったり、地位や名誉であったり、愛情、健康や長寿を願うこころとなって現れます。これが宗教の世界になると、名声や名誉、人助け、霊性や聖性、自分の救い、永遠のいのちとなり、その執心のとどまるところはありません。宗教で永遠のいのちや自分の救いを願うことはよいことだと思われるかもしれませんが、名前こそ永遠のいのちや救いといっていますが、これこそ執着のもっとも深いもので法執といわれ、ファリサイ人や弟子たちが陥ったもっとも深い執着心なのです。別のいい方をすれば、宗教、信仰という名のもとに、自分の幸福や安寧、自分の生きがい、自己実現、来世のいのちを求めているのであって、どこまでいっても自分の幸せを求めてやまない執着の塊であり、我執そのもののわたしであるということなのです。利他業である人助けであってさえもそうなのです。人間では自利が入らない利他などないのです。先ずは、そこに光が当たらなければならないのです。わたしたち人間は、根底に自分の思い通りにしたいという性根が息づいています。そして、思い通りにならなければ、腹も立ち、妬む心が湧いてきますし、がっかりしたりします。しかし、どこまでいっても思い通りになる自分など、どこにもないのです。

今日の福音に登場する人は、一生懸命に律法を守ってやってきた、財産という神さまからの祝福もいただいた、でも何か足らないものを感じていたのでしょう。それは、そうだと思います。なぜなら、彼が求めていたものは、自分の思い描く永遠のいのちであって、イエスさまがいわれる永遠のいのちとは根本的に異なっています。わたしたちが、本当に魂の深みで求めているものは、我執から出たようなものでは満たされるものではないからです。先ずもってわたし自身がずれており、イエスさまはそのことに気づかせるために、彼のこころが囚われているところに切り込んでいき「もっているものを、すべて売り払いなさい」とチャレンジされました。大切なことは、財産をもっているかどうかではなくて、また財産を捨てられるかどうかでもありません。わたしたちのこころが囚われていることに気づくことなのです。実際、ザアカイはイエスさまを家に迎え入れましたが、財産を売り払うことは要求されませんでした(ルカ19:8)。

イエスさまに従うとき、イエスさまと出会っていくとき、自分の救いや永遠のいのちなど、もはや目的にはなり得ないのです。始めはいいかもしれませんが、イエスさまに従っていくプロセスのなかで、イエスさまとの関わりが深まっていけば、自分の救いというような自己中心的な目的は浄められていき、問題ではなくなっていきます。そして、イエスさまに従うために、全財産を放棄することや人助けをすることが目的や条件でないこともわかってきます。むしろ大切なことは、イエスさまとの関わりを通して、ありのままの自分に出会っていくことだといえます。そうすると、わたしたちは、自分がどれほど自己中心で、我執の塊であるかということが見えてきます。わたしたちがありのままの自分と出会うことは、イエスさまとの出会いを通してのみ可能なのです。いろいろな自己分析や識別によってではなく、イエスさまとの出会い、イエスさまの光のもとでしか真実の自分を知ることはできません。イエスさまなしに自分を見つめれば、そこには暗闇と絶望しかありません。あるいは、ありのままの自分を見つめることから、どこまでも逃げ続けるかです。でも、逃げても逃げても、自分はどこまでも追いかけてきます。

誰がそのようなわたしを解放し、救ってくれるのでしょうか。それは、「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」といわれるイエスさまのいつくしみの眼差しに出会うことしかないのです。パウロも、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょうか。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」とうめき声をあげます。しかし、直ちに「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします(ロマ7:24~25)」と感嘆の叫びをあげます。イエスさまのいつくしみの光を通してのみ、わたしたちは真実の己というものを知らされ、わたしたちの救いであるイエスさまの姿がはっきりと見えてきます。イエスさまの姿がはっきりすれば、わたしたちがどうしなければならないか自然に知らされてきます。わたしの救いやわたしが永遠のいのちを得ることなど、どうでもよくなるのです。真理であるイエスさまと出会うとき、わたしたちはわたしの救いから解放されるのです。

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