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教会からのお知らせ

年間第32主日 勧めのことば

2024年11月10日 - サイト管理者

年間第32主日 福音朗読 マルコ12章38~44節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音の箇所は、エルサレムの神殿での出来事です。わたしたちも、たくさん献金しましようとかそういう話ではありません。先週、律法で最も大切な掟についてで、神への愛と隣人愛についての話が出てきました。今日の箇所はそれに続く箇所で、そこでは愛の特徴について話すことに意図があったのだと思われます。

エルサレムの神殿にはファリサイ派の人々や律法学者が集まっていました。彼らは律法の定めに従って、十分の一の献金をしていたと思われます。そこに貧しいやもめがやってきて、1クァドランス、自分の生活費のすべてを献金してしまいます。やもめの持ち金は1クァドランス100円ぐらいですから、律法に従えば10円献金すればよかったわけです。おそらく、1クァドランスは彼女のその日の生活費のすべてだったのでしょう。彼女はそれを献金します。そうすると、わたしたちは、それでは彼女はその日の生活はどうなるのだろうと心配しますが、そのようなことを考える必要はありません。これは、ある意味のたとえ話です。わたしたちが同じように、すべてを献金しましょうとか、すべてを捨ててイエスさまに従いましょうと理解する必要はありません。

先週の箇所で、神への愛と隣人愛ということが話されました。そこで、わたしたちはどこまでいっても、わたしというものを抜きにして愛することはできない、だから敵味方に関係なく等しく注がれる真実の神の愛について理解することがわたしたちには大変難しいのだということをお話ししました。それゆえ、まことの神の愛そのものに触れることが必要であることを申し上げました。この神の愛はすべてのものに平等に注がれる愛ですが、もうひとつの特徴は、自分のすべてを与え尽くす無償の愛であるということです。このことが、やもめが生活費のすべてを献金したことと繋がっています。確かに自分のすべてを与え尽くすのが神の愛なのですが、キリスト教のなかでひとつの極端な考え方があります。それは、キリスト教の愛を間違って捉えたもので、相手のために自分をまったく犠牲にする愛がキリスト教の愛であるという考え方です。純粋な愛は、自分のことは何も考えず、一切見返りを求めず、すべてを他人のために犠牲にしていくことであるといいます。もっともなわかりやすい解釈のようですが、それは一方通行の愛となり、極めて不健全な愛になってしまう可能性があります。わたしたちは、イエスさまの愛を自己犠牲として説明し、このやもめは自分のすべてを捧げた、だからわたしたちもすべてをイエスさまにお捧げしましょうと教えられがちです。わたしたちは自分のすべてを捧げるなどということはできもしないのに、もっともらしい綺麗ごとが平気でいわれてしまいます。

このやもめは、律法に従って自分の生活費の十分の一を献金すればそれでよかったはずです。それなのに、彼女はどうして自分の生活費のすべてを献金してしまったのでしょうか。それは、彼女がそうしたかったからでしょう。ファリサイ人のように、普通に律法や掟を守っていればそれでよかったのです。でも、彼女は生活費のすべてを献金したくなったということなのです。どうしてでしょうか。それは、彼女が一瞬であったとしても、神さまの真実の愛に触れたからではないでしょうか。何があったのかはわかりません。普通は、誰も生活費のすべてを献金したいなどと思いません。しかし、彼女がすべてを献金してしまいたくなるほど、彼女を内側から突き動かすものがあったということなのです。そのことを神の国というのです。それはまさしく「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して(Ⅰヨハネ4:10)」くださったことを体験したということでしょう。“愛は愛を呼ぶ”ということばがあるように、神さまの愛を体験した人は、たとえ何もできなくても何かしたくなります。もちろん、神さまはわたしたちに何も要求されるようなことはなさいません。しかし、愛の本質は一方通行ではなく、相互的なもの、愛するものと愛されるものがあってはじめて成立するものです。ですからこのような愛の体験は、神さまが人間を一方的に無償に愛してそれだけで終わるものではないのです。愛は、自分が愛した同じ愛で愛されることを要求します。神さまの限りない愛を受け取れば、わたしたちは少しなりともその愛に応えたくなるのは当然なことなのです。それが愛の本質なのです。わたしたちが神さまの愛をすべてそのまま受け取ることによって、それを別のことばでいえばその愛に応え、行動することによって、愛は完成し、愛の神さまは満たされるのです。それが神さまに喜びを与えるのです。愛は本質的に相互的なものであって、一方通行の愛だけでは、それがどんなに美しく崇高に見えても、ストーカー的な病んだ愛に他なりません。

キリスト教のなかには、ストーカー的な病んだ愛の理解が結構広まっており、一方的に自己犠牲的に愛し献身すること、そのような善行をすることが神を愛すること、また隣人を愛することだとし、ボランティアや慈善事業を美化して教えます。しかし、愛は、愛するものとその愛を受け取るものがあってはじめて成立するものであって、愛するだけの愛は一方通行で、上から目線の自分勝手な愛、歪んだ病的な愛となり、それは結局エゴイズムになってしまいます。また、その一方でそのような人間の活動を否定し、神の愛を受けることだけを強調するなら、静寂主義となる可能性もあります。これもエゴイズムです。

イエスさまのまことの愛に触れると、自分というものが破れ、突き抜けて、相互愛になっていくのだろうと思います。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分のいのちを捨てること、これ以上に大きな愛はない(ヨハネ15:12~13)」。友のためにいのちを捨てるというのは、一方的な自己犠牲の愛ではなく、友情というお互いの関わりのなかでの相互愛なのです。しかし、そこには、「わたしがあなたがたを愛したように」といわれるイエスさまの愛が先にあります。「友のために自分のいのちを捨てる」は、まさにイエスさまの愛し方であり、「わたしがあなたがたを愛したように」といわれることの内実です。そのようなすべてを与える神の愛に触れたものは、自分も何かしたくなるのです。それは、友人として当たり前のことなのです。

このような相互愛自体は、お互いに大切にし合うこと、支え合うこと、尊敬し合うことであり、実はわたしたちが教えられなくても、聖書を読まなくても、普段の生活ですでに生きている平凡なことなのです。しかし、それは平凡なことですが、同時にまったくの非凡さを要求するところまで深められていく可能性をもっています。相互愛は、「わたしがあなたがたを愛したように」、また「友のために自分のいのちを捨てる」といわれるところまでに深められていく可能性を秘めています。自分のために神を愛するとか、自分と同じように隣人を愛するというような律法の神への愛や隣人愛ではなく、相互愛は神さまのダイナミックな愛の動き、愛の交わりにまで深められていくことができるのです。

この貧しいやもめは、このイエスさまの愛、神さまの愛の本質を体験したのでしょう。だから、たとえ貧しくてもどんなに些細なものであったとしても、自分のすべてをもって神さまの愛に応えたいと思ったのでしょう。問題は量ではなく質です。一滴の水は、たとえ一滴であっても、大海の水と同じ水であることに変わりはありません。実は、わたしたちの魂のうちに、その一滴の水、神の愛、聖霊をすでにいただいているのです。わたしたちのうちにイエスさまと同じ愛が注がれ、同じ愛の川が流れているのです。しかし、わたしたち人間の側の愛の体験である限り、その体験は絶対的なものではなく、過ぎ去ってゆくものであり、あえなく崩れ去ってしまうものであることも確かです。ただイエスさまの愛が真実であり、そこにのみ信仰の確実さがあるのだということを知らなければなりません。わたしが愛したのではなく、イエスさまが愛されたのです。地金のわたしのなかには、イエスさまを、人々を愛することが出来るものは何もないのです。あるとしたら、恵みとして与えられたイエスさまの愛に他なりません。そして、その愛は愛し愛されるという愛の動きそのものなのです。

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