待降節第3主日 勧めのことば
2024年12月15日 - サイト管理者待降節第3主日 福音朗読 ルカ3章10~18節
<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日は洗礼者ヨハネの活動の様子が朗読されます。ルカは、洗礼者ヨハネを旧約最後の預言者として描きます。ヨハネは「蝮の子らよ」といって群衆に改心を迫りますが、その教えたことはマルコやマタイと比べると随分穏やかな姿が描かれます。ヨハネが人々に教えたことは、厳しい修行や改心ではなく、日常生活に根ざした誠実な生き方です。「下着を二枚持っているものは、一枚も持っていないものに分けてやれ。食べ物を同じようにせよ」、「規定以上のものを取り立てるな…自分の給与で満足せよ。だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな」。これは、旧約聖書で教えられてきた2つの掟、神への愛と隣人への愛を実践するようにと説くものでした。神を愛すること、そして「自分を愛するように、隣人を愛すること」、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である(マタイ7:12)」といわれていることであり、分かりやすい人間レベルの教えです。日本人であれば、「己の欲せざる所は人に施すこと勿かれ」と孔子の論語として慣れ親しんだ教えであって、わざわざキリスト教として教えてもらうまでもなく、多くの人たちが大切にして実践してきた教えです。自分のことだけではなくて、相手のことも自分のことと同じように考えましょうとか、相手の立場になって考えましょうというような当たり前の教えです。
これ自体、旧約の律法の隣人愛の掟であり、隣人愛と神への愛はひとつで、隣人を愛することが神さまを愛することですよ、というような話です。もちろんその通りなのですが、それだけをもってキリスト教の教えですよというのはいささかお粗末ではないでしょうか。イエスさまがわざわざ人間となって来られたのは、その程度の道徳を教えるためだったのでしょうか。そのようなことであれば、多くの宗教や倫理が教えていることであり、わざわざイエスさまがいのちをかけて伝えなくても、良心ある人なら誰でも分かるようなことでと思います。もしこのような倫理的な教えがキリスト教の本質的なメッセージであるというのであれば、はたして現代人であるわたしたちのこころの深い闇に、またわたしたちのこころの深い渇きに応え得るでしょうか。ただ生まれ育った家の宗教がキリスト教であるということでもなければ、現代人がそのような道徳的な教えに関心をもち、キリスト教を求めるでしょうか。
洗礼者ヨハネは「その方は、聖霊と火であなたがたに洗礼をお授けになる」と宣言します。つまり、洗礼者ヨハネの到来によって旧約の時代は終わり、「その方」つまりイエス・キリストによってまったく新しいことがもたらされるのだということがいわれているのです。「聖霊と火」とは、イエスさまによってもたらされる新しさを意味しています。それでは、その方のもつ新しさ、今までとの違いは何なのでしょうか。そのことは具体的には述べられていませんが、わたしたちに告げられるイエス・キリストという出来事が新しさそのものであるといったらいいのかもしれません。その新しさは、イエスさまの生涯を通して、わたしたちに少しずつ明らかにされていくことになります。そして、このイエスさまという方と出会った人たちは、イエスという方自身に魅せられて、もはやイエスさまなしの人生など考えられなくなっていくのです。この生きたイエスさまとの出会い、これこそが新約の新しさそのものであるといえるかもしれません。
旧約での神さまのメッセージというものは、人間の理性で理解でき、人間の力で実行できるものであったということができるでしょう。神さまから与えられた掟と律法を理解して、それを守ってきちんと生活すれば神さまから恵みと祝福がありますよというような教えです。これならだれもが理解し納得できますが、わたしたちが通常現世利益とよんでいる信仰形態の域を出ないものでしかありません。しかし、新約のメッセージ、イエスさまご自身が人間の知性や判断を超えたものであるということは、人間には必ずしも分かるものではないということを意味しています。人間は、自分の理解できないもの、自分の分かりえないものを怖れますが、同時に自分の知性で理解できないもの、神秘に憧れを抱きます。旧約と新約との関係は、歴史的に見れば連続しているようにみえますが、別の視点から見るとまったくの不連続であるといえるでしょう。その違いは、表面的な量的な違いではなく、絶対的な質的な違いであるといえるでしょう。今までは何もかもが人間中心であったものが、神中心となるという視点の大転換があるということだともいえます。それが、イエス・キリストという出来事なのです。
今まで、わたしは神さまについて多くのことを知っていると思っていました。しかし、イエスさまの登場によって、神さまはわたしたちにとってまったくの見知らぬ方、わたしたちが知っていると思っていた神さまとはまったく違っていたということを知ることになります。わたしたちが知っていると思っていた神さまは、わたしたちが今までの人類の歴史の中で体験し、そこから演繹されたもの、わたしたちが自分の人生のなかで出会った人の親切や愛の延長線のなかで、神さまのイメージを投影して作り出したものに過ぎなかったということなのです。本当の神さまは、わたしたちが人間のレベルで考え得る方とは似ても似つかない方であるということなのです。よく神が愛である、慈しみであるといいますが、それは人間が考え、想像できるような愛とか慈しみとはまったく異なったものであるということです。それがイエスさまなのです。
これは、キリスト者であるわたしたちの信仰生活にもすべて当てはまります。わたしたちは洗礼を受けてイエスさまを信じているといっても、それはわたしたちが理解して、考え得るイエスさまを信じているだけであって、そのイエスさまはどこまでもわたしたちの必要を満たし、わたしたちを幸せにしてくれる方でしかないということではないでしょうか。しかし、それはあくまでもわたしたち人間の側から見た捉え方であって、人間の延長線上でのイエスさまに過ぎません。たとえ、わたしはイエスさまを知っていると主張しても、それはわたしの小さな頭の中でのことであって、イエスさまを本当の意味で知っているとはいえないのです。そうすると、わたしたちはイエスさまを自分の中に閉じ込めてしまい、イエスさまご自身がわたしのなかで自由に働かれるのを妨げてしまうのだといわざるを得ないのではないでしょうか。わたしたちは、信仰生活においても旧約時代を生きていることがほとんどです。つまり、わたしという人間の視点からしか見ていない、考えていない、祈っていない、信じていないというところに留まっているのです。新約の時代に入るということは、イエスさまがすべてにおいて中心となられるということです。そのためには、わたしたちの自己中心というあり方が転換されていくことによって、イエスさまはわたしたちのなかでご自身を現され、またお働きにもなっていくということです。わたしたちの自己中心が転換されるということは、わたしたち人間が何も思い通りにはできないのだという現実をしっかりと受け止め、そのことを自覚させていただくことに他なりません。事実、わたしたちは自分のことを含めて、何も自分の思うようにはなりません。
わたしたちの道は、イエスさまの歩まれた道を辿ることであり、イエスさまの道は愛の道ですから、この愛は常に自分自身を失い、愛する方のために自分から脱出していくことに他なりません。その歩みを進めるためには、わたしたちが存分にイエスさまご自身に、その愛に触れる必要があります。そのことなしに前進することは不可能だからです。そのようにして初めて、わたしたちは旧約から新約へと脱出していくことができるのです。これを、「あの方は、聖霊と火であなたがたに洗礼をお授けになる」といい、手に箕をもって、古い旧約の殻を焼き払われ、本来のわたしたちが生まれていくのです。わたしたちの古い旧約のもみ殻、つまり古い人間の基準に従って生きてきたわたしたちは焼き払われてなければならないのです。