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教会からのお知らせ

待降節第4主日 勧めのことば

2024年12月22日 - サイト管理者

待降節第4主日 福音朗読 ルカ1章39~45節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は、マリアのエリザベットの訪問として祝われる箇所です。天使のお告げを受けたマリアは、従姉のエリザベットも妊娠していることも知らされます。そして、ナザレからはるばるユダヤの山地まで出かけていきます。この場面は、イエスさまを中心にしたマリア、エリザベット、ヨハネの絵画的な出会いとして描かれます。わたしたちは、この出来事をマリアさまの愛に溢れた物語として読んでしまいますが、現実はそんな簡単なものではありません。エリザベットは高齢で、もう子どもなど産めるような年齢ではありませんでした。マリアは、自分の予期せぬ妊娠を告げられて戸惑うばかりです。これは、問題を抱えた人たちが出会うという物語なのです。マリアとエリザベットは、問題を抱えた当事者同士であったということなのです。実はこれが、教会の本来の姿を現しているのだといえばよいと思います。

第2バチカン公会議を境に、教会は位階制度中心の教会から、交わりの教会へと自己理解が変わっていきました。それまでは、教皇を頂点とした制度としての教会、神秘体としての教会が強調されてきました。しかし、現実の教会は、位階制度を中心とした完全な美しい教会などではなく、かえってその制度ゆえに歪んだ、コンプライアンスを欠いた集まりとなってしまっていました。教会の現実は、生きたいのちの集まりであり、お互いに関わり合い、あるときはぶつかり合っていくのが当然のことであるといえるでしょう。教会はイエスさまを中心に集まっているとはいえ、人間の集まりである以上、選ばれた聖なる人たちの集まりではなく、罪人の集まりであり、お互いの弱さや限界を抱えた人間同士の集まりであることに変わりはありません。それを、変に理想化し幻想を抱かさえるような教会のイメージを教えることに問題があるのです。教会は、救いを求めている人たちの集まり、つまり問題を抱えた人間の集まりであるのです。そのことが、今日の福音で描かれているのです。それは、当事者の集まりであるといえるのではないかと思います。

多くの人たちは、キリスト教や教会に人生の救いや問題の解決を求めます。また、この宗教を信じれば問題がなくなり、人生に安らぎが得られるというふうに考え、またそのように期待している人が少なくありません。もちろん入り口としてそのようなこともあるとは思いますが、それが表面的なところだけに留まってしまえば、健全な宗教のあり方であるとはいえないと思います。宗ということばは、ものごとの中心、要となるものの意味であり、つまり真実、真理を意味しているといわれます。ですから、宗教本来の役割は、人々を楽にしていくのではなく、人々に真実を突き付けていくこと、真実を明らかにしていくことだといえます。マリアは3か月ほどエリザベットのところに滞在して帰っていったと書かれています。マリアとエリザベットは、当事者同士として、自分たちの抱えている状況や問題を毎日語り合ったでしょう。それで問題は解決したのでしょうか。答えは「いいえ」です。望まない妊娠をしたマリアの立場は何も改善されることもなく、エリザベットの状況も何も変わったわけではありません。解決は何もなかったのです。ここからいえることは、キリスト教や教会に問題解決や人間的な救いを求めてもダメなことがわかります。そういうと、もともこもないといわれるかもしれませんが、宗教自体にそのような解決を求めているのであれば、現世利益を求めているのと変わりません。

それでは、2人は3か月間、毎日生活をともにして語り合って、やっぱり自分たちはどうしようもないといって肩を落として帰っていったのかというとそうではないと思います。2人は、お互いの課題について腹を割って話していくことで、自分たちに突き付けられた現実を受け入れていったのではないでしょうか。マリアは望まない妊娠をしたという事実を受け入れ、エリザベットも超高齢妊娠という事実を受け入れて、明日に向かって歩き始めたのだと思います。宗教とはその人を救って楽にするのではなく、その人の身に起こっている現実とその人を直面させ、そこから立ち上がらせていくということではないでしょうか。わたしたちは苦しいとき、自分でどうすることもできないとき、その解決を求めて、またその答えを探して宗教に助けを求めます。しかし、宗教は必ずしもわたしたちの望むような答えを与えてくれることはありません。むしろ、わたしたちの望む答えを出してくれるとしたら、その宗教には注意しなければなりません。宗教は、わたしたちに真実を明らかにするものです。わたしたちの苦しみの多くは、病でもわたしが抱えている問題でもありません。その多くは、わたしが自分の身に起こっている現実を受け入れられないことからくる苦しみです。病人が、自分が病気であることを受け入れようとしないのであれば、病気の治療を始めることすらできないのと同じです。勿論解決できる問題であれば、できる限り解決していかなければなりません。そして、その状況は当事者同士で話し合い、語り合っていくことで大きく動いていくということがあります。

その一方で、当事者でない人間は、当事者のことを分かっているつもりになって同情するということが起こります。しかし、当事者でないわたしたちはどこまでいっても相手の身にはなれない、相手のことを理解することなど不可能なのだということを知っておく必要もあると思います。むしろ、相手のことを自分は理解できるとか、相手の身になれると安易に思うことが、相手を傷つけてしまいます。心理学者の河合隼雄は「人の心がいかにわからないかということを、確信している」ことが人間理解のための前提であるといっています。

ですから当事者同士が苦しみや問題を話し合うこと、そして、教えるとか援助するという立場ではなく、そこにただ同伴する人の存在が大切になってくるのだと思います。マリアとエリザベットの間には、神の子であるイエスさまがおられました。イエスさまは、わたしたちの人生の光です。イエスさまという光のもので、わたしたちは真実に直面し、置かれている現実と相対していくことができるのです。イエスさまなしの話し合い、分かち合いは、ただの愚痴のいい合い、傷のなめ合いに終わってしまうことがあります。現代の教会にもしできることがあるとしたら、このイエスさまを中心とした当事者の分かち合いの場になるということではないでしょうか。いろんな人がいろんな意見をもっていていいのです。正しい教えや正しい答えがあるのではありません。それぞれが自分の持論を戦い合わせるような議論では、所詮わたしの正義のぶつけ合いとなり、傷つけあうだけとなり、それは教会の姿ではないように思います。

宗教を信じるということで、わたしの苦しみが取り去られるというよりも、イエスさまの光を通してわたしの身に起こっている現実をわたしが受け入れていけるようになるということではないでしょうか。そして、そのことを通して、状況が動いていくのだといえるでしょう。わたしたちはイエスさまという光のもとに、自分というものを明らかに見させてくださるように祈りましょう。宗教というものは信じて聞けば、問題の解決が見つかるというものではありません。むしろ、聞けば聞くほど闇が濃くなる、しかし闇が濃くなれば濃くなるほど、そこに輝く真理の光は輝きを増し、わたしたちは真実に照らされるということだと思います。そして、その真実を通してわたしというものが、日々問い直されていきます。それが、わたしたちが生きていくということであり、日々歩みを進めていくことになるのです。わたしたちはいのちですから、歩みを止めるということは死を意味します。転んでも、つまずいてもいい、それが問題ではなくて、何があってもなくても歩みを一歩前に進めていくこと、そのことが大切なことなのです。その力と助けをイエスさまとの関わりを通していただきたいと思います。

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