主の降誕(夜半のミサ) 勧めのことば
2024年12月25日 - サイト管理者主の降誕(夜半のミサ) 福音朗読 ルカ2章1~14節
<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今は復活祭と並んで大きく祝われる降誕祭ですが、その起源は、ローマ帝国で行われていた冬至の祭りをキリスト教化したのが由来です。元来、古代教父たちはイエスの誕生ということに重きを置いていませんでした。むしろ降誕祭は、キリスト教が広まっていくなかで、人々の慣れ親しんだ冬至の太陽神の祭りをキリスト教化することで、民衆の支持を得るという政治的な意図で始まったものです。それが今では、キリスト教の2大祭日となっています。しかし主の降誕は、主の復活の視点から見なければ意味のないものになってしまいます。そもそも、初代教会はイエスさまの誕生について関心をもっていませんでした。マルコ福音書には、マリアの息子という記述以外、イエスさまの誕生についての一切の記述はありません。初代教会ではイエスさまの出自について、関心がなかったことが分かります。しかし、復活されたイエスさまとの出会いのなかで、人間イエスへの関心がその誕生、出自へと向かわせたというのはわかる気がします。しかし、教会が祝ってきたのは、イエスさまの誕生というより、人間の救いのために神が人類に関わってきた、受肉の神秘であるということです。ですから、降誕祭はイエスさまの誕生日ではなく、神さまの人類への関わりを祝うことが中心です。神が人間となることにより、人間が神の子とされる不可思議な“聖なる交換”を記念します。それでは、その中身がどのようなものであるかを見ていきましょう。
わたしたちは毎年祝うクリスマスのなかで、マリアとヨゼフに見守られた幼子イエス、ベトレヘムの貧しい馬小屋、羊飼いたち、天使たちの歌声など、その温かい心安らぐイメージに親しんでいます。しかし、主の降誕に登場するヨゼフとマリア、ベトレヘムの馬小屋、羊飼いたちは、当時のユダヤの社会のなかでもっとも弱い立場におかれ、貧しく堕落しているものの象徴でした。そもそも、イエスさまがベトレヘムで生まれたということ自体、後代の教会の伝承です。ヨゼフとマリアは人口調査のために本家の村に帰ったわけですが、マリアは出産間際であったのにかかわらず「泊まる場所がなかった」と書かれています。実家の村ですから、親戚や知り合いの家はいくらでもあったはずです。それにもかかわらず、宿屋さえみつけることができませんでした。これはどういうことでしょうか。これは、マリアの妊娠がヨゼフと関係のないものであるということを皆が知っていたということです。ユダヤの伝統では、家族や一族をとっても大切にします。ですから、妻が妊娠しておめでたで、実家に帰るといるというのであれば、一族上げて歓迎するわけです。しかし、ヨゼフたちを受け入れてくれる親族は誰もおらず、宿屋からも断られてしまいます。わたしたちは、マリアの妊娠は天使のお告げであることを知っていますが、当時の人々はマリアの子はヨゼフの子でない不義の子、罪の子であることを知っていたのでしょう。だから、律法に背いた堕落した罪人を受け入れれば、自分たちも汚れるとして、人々はヨゼフたちを受け入れようとしなかったのでしょう。そして、どこにも身を寄せるところがなく、イエスさまは家畜小屋で、“罪の子”として生まれてくるのです。このことを、先ずきちんと押さえておきましょう。
そして、わたしたちが慣れ親しんだ馬小屋も、決して暖かなものではありません。藁だらけの、糞だらけの家畜小屋です。そこでイエスさまは生まれるのです。生まれたばかりのイエスさまを寝かせるための暖かなベッドも布団もありません。家畜が餌を食べる、飼い葉桶に寝かされたと書かれています。家畜の餌皿に寝かされたということです。イエスさまの誕生は、誰からも祝福されない、望まれない、喜ばれない誕生であったということなのです。ヨゼフとマリアにしても、血の繋がりがない子どもの誕生を心から喜べたかどうかわかりません。聖書は淡々と描いていきますから、わたしたちはあまりにも綺麗なベトレヘムの馬小屋の風景に慣れてしまっています。しかしベトレヘムは、いくら金箔をはっても、所詮糞まみれなのです。それなのに、ベトレヘムを美化し、神話化し、崇高な物語のような話を作り上げてきました。糞に金箔をはっても、所詮糞なのです。でも、その糞まみれの現実のなかに来られたのがイエスさまだということなのです。だからこそ、イエスさまはすべての人の救い主であるのです。
そして、イエスさまの誕生をはじめに知らされた羊飼いも、堕落した人間の代表でした。アブラハムの時代、羊飼いは、ユダヤ民族にとっては誇り高い仕事でした。しかし、カナンに定住していくと農耕牧畜生活に移行していき、そのなかで羊飼いをしている人たちは、本当に貧しい人々か、罪人と呼ばれる人たちでした。そもそも、羊飼いたちは移動して仕事をしていきますから、律法を守るということができません。羊飼いたちは、安息日を守れないのです。ですから、常習的に律法を破らざるを得ません。当時、そのような仕事をする人たちは罪人とみなされていました。生きていくためにどうしてもそのような仕事をしなければならない理由や貧しさを抱えているか、エルサレムなどの都市で犯罪に手を染め、堕ちるところまで堕ちた人たちがつく仕事が羊飼いであったわけです。彼らは生きていくために罪を犯さざるを得なかった人たちだったのです。そのような人たちとは、誰も交際しません。教会は正義と平和については取り上げます。そして、不正義や被害者のことについては考えますが、加害者となった人たちや生きるために罪を犯さざるを得ない人たちのことまで考えようとはしません。それは、自分は加害者にはならない、いわゆる罪人にならないと思っているからでしょう。しかし、イエスさまの誕生を最初に知らされた人たちというのは、社会からも宗教の世界からも堕落していると思われている人たちであったということなのです。わたしたちは、自分の境遇を選んで生まれてきたわけではありません。わたしたちが、今、キリスト者で教会に来ているとしたらそれは偶然であり、たまたまのことなのです。わたしの手柄でも努力の結果などでもありません。イエスさまは、そうしたすべての人の救い主なのです。
浄土真宗の創始者の親鸞が、阿弥陀如来の本願は「りょうし(猟師、漁師)、商人、さまざまのもの(農民、武士など)は、みな、石、かわら、つぶてのごとくなるわれらなり」といわれました。当時、「りょうし(猟師、漁師)、商人、農民」は、仏教の殺生戒を守れない罪人とみなされていました。しかし、「りょうし(猟師、漁師)、商人、農民」の働きなくして、わたしたちは生きていくことはできません。わたしたち人間は皆、お互いさまで繋がっています。全人類はわたしなのです。ですから、そこでいわれる「われら」は他の誰かのことではなくて、この“わたし”のことなのです。神の子であるイエスさまは、まさに堕落し罪人であるこのわたしのために、不義の子、罪の子、怒りの子(エペソ2:3)としてこの世界に来られたのです。それはわたしたちをその暗闇から解放するためでした。それが、クリスマスの本当の意味なのです。自分だけ清くなってイエスさまを迎えようと思っている人のところにイエスさまは来ることはできません。わたしたちはいくら金箔をはっても、所詮は糞でしかないのです。イエスさまは、そのすべての人間の救いのために、この罪人であるわたしひとりのために、わたしのなかにお生まれになるのです。それが、真のクリスマスの意味であり、イエスさまの復活の意味でもあるのです。