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教会からのお知らせ

主の公現 勧めのことば

2025年01月05日 - サイト管理者

主の公現 福音朗読 マタイ2章1~12節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

主の公現は1月6日に祝われてきました。その起源は、冬至の太陽神の祭りをキリスト教化した降誕祭より古く、イエスさまの人類への現れ(エピファニア)を記念するものとして、4世紀にエジプトで祝われてきました。古代教会で主の降誕を祝うという習慣はなく、占星術の学者の訪問、主の洗礼、カナの婚礼での最初の奇跡を、イエスさまの人類への公(おおやけ)の現れとして祝ってきました。主の降誕もそうなのですが、イエスさまの誕生を祝うというよりも、人類を照らす光としてのイエスさまの訪れ、到来を祝うところに中心があります。主の降誕夜半のミサのイザヤ書でも「闇に住む民は、大いなる光を見、死の影の地に住む者の上に、光が輝いた」と述べられ、イエスさまは闇を照らす光であると説明していきます。そのように、光が光として意識されるのは、闇のなかにおいてなのです。イエスさまは全人類の救い主ですから、その光はいつの時代も、どの時間、どの場所にいる人にも等しく注がれているはずです。しかし、昼間に光というものは意識されません。イエスさまをわたしの救い主として意識できるのは、わたしが闇を体験しているとき、わたしが闇のなかにいるときです。光に気づかされるのは暗闇においてなのです。

それでは、今日の福音のなかでイエスさまはどのように光として意識されたのでしょうか。主の降誕では、イエスさまの誕生はまず羊飼いたちに告げ知らされますが、今日は占星術の学者が登場します。羊飼いたちというのは、当時は賤しい人々、堕落した罪人の代表でした。ある意味で闇を生きている人たちだったわけです。それでは、東からやってきたといわれる占星術の学者というのはどういう人たちでしょうか。日本では東の方角は日が昇るというよいイメージがありますが、ユダヤの世界では東によいイメージはありません。地形的にもエルサレムの東は、ヨルダン川が注ぐ死海があり、死海の東岸には砂漠が広がっていて、不毛、死の土地のイメージです。旧約聖書のなかでも、東風が吹くと植物が枯れるとか、東風に乗っていなごが押し寄せるという記述があり、東にいいイメージはありません。占星術の学者とありますが、原文は「マゴイ」であり、学者でも王でもなくて、星占いをする祈祷師です。祈祷師は、人の悩みを聞き、その人たちの心身のケアに携わる人たちでした。人生に疲れ悩み苦しむ人、その多くの人たちは病人や悪霊に憑かれた人たちで、マゴイはその彼らと関わったわけです。

当時、病人や悪霊に憑かれた人たちは、律法を守らず罪を犯して病気になったもの、汚れたもの、罪人と考えられていました。マゴイは、その彼らの病や苦しみに関わっていく、それを仕事としているわけですから、自分も汚れに触れることになります。善きサマリア人のたとえで、祭司やレビ人が半殺しになった血だらけの旅人に触れようとしなかったのは、彼らが無慈悲で血も涙もない冷血漢であったからではありません。その旅人は同胞でしたが、彼に触れることは血や傷に触れることになり、それによって自分が汚れて宗教上の務めを果たすのができなくなるのを恐れてのことでした。ユダヤ人にとって律法は神の掟であり、明らかな神のみ旨、神の意志ですから、これを守らないということはあり得ませんでした。律法というものは絶対であって、彼らは神の掟を守るために、同胞を見捨てざるを得なかったのです。このような宗教が果たしてまことの宗教か、イエスさまはそこを問題視していかれたのです。ここに出てくる占星術の学者も、東から来たいかがわしい祈祷師でしかなかったのです。ですから、ユダヤ人から見たら異邦人であり、罪深い仕事を生業としている人たちであったわけです。その事実に目を閉じて、東方から来た3人の王(カスパー、メルキオール、バルタザール)などといった美しい伝承を作り上げて、主の公現を神聖化してしまいます。ここに、真実を見ようとしない人間の愚かさがでてきます。

元々マタイ福音書は、ユダヤ人でキリスト教になった人たちのために書かれました。ですから、彼らがこの物語を読んだとき、占星術の学者がどのような人たちであるか、すぐにわかったわけです。そして、イエスさまはユダヤ人の救い主であるのだけでなく、全人類の救い主であり、それもユダヤ人が考える救いからもっとも遠いとされてきた人々、異邦人、堕落した罪人であるとされた人たちの救い主であることを理解できたのです。しかし、そもそもわたしたちが光を意識できるのは闇においてです。昼間にお日さまの光を、強烈な形で意識することはありません。わたしたち日本人は、日の光は暖かい穏やかな明るい日向、生きとし生けるものを育みいつくしむ光として捉えます。しかし、ユダヤの世界では、お日様は必ずしも良いイメージではなく、干ばつ、日照り、厳しい日差しなどを連想させる負のイメージもあるのです。しかし、日の光がない暗闇においてはすべてが闇に包まれ、何も見えないわけです。そこには希望も救いも何もないわけです。それこそ、どのように助けを求めればいいのかさえわからないほどの暗さであるということなのです。そのような、わたしたちの極度の惨めさ、弱さ、貧しさ、辛さの中では、光はわたしたちを優しくいつくしむ光というより、わたしたちの闇も罪も汚れもすべてを貫き通す光、何ものをも区別差別しない光、わたしたちのすべてを焼き尽くし、浄める激しい火のような光として体験されるのではないでしょうか。暖かい日向の光しか知らない人にとっては、その光は思いもおよばぬものかもしれません。闇のなかでその光を体験した人が、イエスさまがまことの光であることを証しすることができるのではないのではないでしょうか。ですから、イエスさまの誕生、この世界への現れは、誰からも期待されない、相手にもされない、見捨てられた羊飼いや異邦人の占星術者に告げ知らされたのです。わたしたちが、祝っているクリスマスの風景とはなんと異なっていることでしょうか。

わたしたち人間は自分より弱い、小さい、貧しい人々を作り出すことで、また相手をそのように見なすことで自己肯定しようとします。「自分よりもっと大変な人がいる」とか、「あなたよりもっと苦しんでいる人がいる」というようないい方は、一見するともっともらしく聞こえます。しかし、わたしの苦しみはわたしの苦しみであって、他の誰よりはましだとか、誰より大変だとかいえるようなものではないのです。ユダヤの社会だけではなく、現代社会も同じように、掟や道徳を守れる人と守れない人、弱い人と強い人、勝ち組と負け組というような上下優劣を作り出して、そこに自分を位置づけて自分を肯定しようとします。その価値観、その考え方こそが、まさにわたしたち人間の抱えているわたしの闇であり、わたしが堕落しているのだというところに思いが至りません。だから、人間はとかくすると援助することで、無意識に上位に立ちたがります。援助すること自体は大切なのですが、そこには大きな危険が潜んでいます。わたしたちがその危険から自由であるためには、わたし自身がイエスさまの助けをもっとも必要としている稀代の罪人であり、堕落しているものそのものであるという健全な自己認識が必要なのです。そして、そのような健全な自己認識は、イエスさまのあわれみの光に触れることによってしか得られません。イエスさまと出会えば、わたしはイエスさまにあわれんでいただくことしかない罪人であることがわかるのです。“ああ、ベトレヘムの羊飼いは、東方の星占いはわたしのことであったのだ”、ということに気づかされるのです。そのような気づきは、わたしたちを決して卑屈にはしません。むしろ、イエスさまが全人類の救い主、わたしの救い主であることを認め、人々と共生していけるようになるということだと思います。これが、本当の意味で、わたしたちが“ともに生きる”という意味なのです。

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