年間第3主日 勧めのことば
2025年01月26日 - サイト管理者年間第3主日 福音朗読 ルカ1章1~4節、4章14~21節
<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日の福音の箇所は、イエスさまが40日間の荒野での誘惑を終えて、初めてご自分の生まれ故郷であるガリラヤに戻り、ナザレの会堂での出来事が朗読されます。そのときイエスさまは、すでに「霊の力に満ち」、人々に「教え」、「尊敬を受け」ておられました。人々の称賛を呼び起こしたのは、イエスさまの上に霊の力が働いていたからで、イエスはこの霊に導かれた宣教活動に乗り出されます。その始まりがナザレの会堂での出来事です。会堂でイザヤの預言が読まれ、イエスさまはご自分の使命をイザヤのことばを用いて宣言されました。
「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」 ここでイエスさまは、ご自分の使命は、貧しい人に福音を告げ知らせることであるといわれます。そして、よい便りといわれる福音の内容は、「捕らわれている人に解放を」、「目の見えない人に視力の回復を」、「圧迫されている人を自由に」することであるといわれました。解放、回復(癒し)、自由です。自由と訳されていることばも、解放と同じことばであり、イエスさまの福音の中心的なメッセージは解放であるといえるでしょう。それでは解放とは一体何なのでしょうか。
イエスさまが生きておられた当時、ユダヤはローマ帝国によって支配されて、人々は重税と苦役、貧しい生活、飢え、病気に苦しんでいました。だから、人々が先ず望んだことは、ローマ帝国の圧政からの解放、そして貧しい生活、病苦からの解放でしょう。わたしたちは皆、神の似姿として、神の子として神と人々に向き合い、神を賛美するために創られています。しかし、様々な病や苦しみ、特に社会的圧迫による貧困などは、わたしたちの身もこころも不自由にしてしまいます。病気であれば、自分の体のことで頭は一杯になってしまいます。極端な貧しさの中にあると、とにかく飢えているので食べることだけがすべての関心事となってしまい、他人のことや他のことなど何も考えることができなくなってしまいます。今も全世界の中に、わたしたちが考えることもできないような貧しさが蔓延しています。貧しさのただ中にいると、生きることがすべてとなってしまい、生物的な欲求、飢えや安心を満たすことを求める生活になってしまいます。このように社会的な圧政や貧困はわたしたちのこころを捕らえてしまい、わたしたちを不自由にし、わたしたちは奴隷となってしまうのです。だからイエスさまは、先ず人間が基本的に人間として生きることを妨げているようなものを取り除いていこうとされるのです。それがイエスさまの癒しの業、パンの増やしなどのしるしとなって現れます。
それでは基本的に人間の生活が満たされれば、人間は自由であるかというとそうでありません。今度は、自分が満たされたこと、満たされたものを必死に守ろうとする欲が出てきます。そして、わたしたちは物、お金、権力、名誉の奴隷から始まって、この救われた状況、この平安な状況にしがみつきます。また、人間関係の奴隷にもなっていきます。わたしたちは人間関係において、自分と相手の立場がどうであるか、どちらが上で下であるとか、無視されたとかどうとか、派閥だとか、異様なほどに人の目、評価を気にします。教会の中にあっても上下などないはずなのに、異様に気にします。どうしてそのようなことが起こるのでしょうか。それはわたしたちのこころの根底に、今の自分の状況を守りたい、この安定を確保したい、自分が正当に評価されたい、よく思われたいという思い、つまり根底に「自分がかわいい」というこころがあって、その自分の状況にしがみつくようになります。こうして人間は自分の思い、自分のこころの奴隷になってしまうのです。
わたしたち人間は、神さまと人々と物との関わりにおいて、また自分との関わりにおいて、本質的に病んでいるのです。すべての人間は何かの奴隷となり、自由に神さまと人々と物と、また自分自身と正しい関わりをもつことができない状態に閉じ込められているのです。この状況をパウロは「罪の奴隷」と呼んでいます。イエスさまは、このようなわたしたちを罪の奴隷から解放するために、自由にするためにこられました。しかし、イエスさまがわたしたちを解放し、自由にするといわれるとき、それはわたしたちを病から解放して病気のない状態に、貧しさから解放して豊かな状況に、奴隷として捕らわれている状況から自由人にするというところから始まりますが、その次元に留まりません。先ずそのようなところから始まるかもしれません。しかし、それはわたしたちをまことの解放へと招き入れるための方便なのです。確かに生活そのものがわたしたちを圧迫しているとき、わたしたちは生活の奴隷であって、先ずそこからは解放されなければならないでしょう。しかし、困っている状況がよくなったとか、苦しみがなくなったということは、それ自体としてはそれでよいとしても、わたしの問題解決の次元に留まっているわけです。それは自分が好むものは受けるが、好まないものは拒絶していくという、どこまでもわたしの自己中心的なあり方そのものに光があたっているわけではないのです。それだけなら、イエスさまのいわれる解放というのは、わたしの欲望が満たされるだけで終わってしまいます。
イエスさまが宣べ伝えた解放というのは、わたしたちの外的な状況、病や貧しさからの解放とか、わたしの罪のゆるしとか、わたしが罪を犯さなくなるとか、わたしが救われるというような個人的、表面的なことではなく、わたしたちの物的次元、社会的次元から始まって、わたしたちの魂の深みに至るまで、全人間的、全人類的、全宇宙的な次元にまで及ぶ解放、回心なのだということなのです。イエスさまが望まれたのは、わたしたちをあらゆる次元において解放し、神と人と自然、物、そして自分自身との正しい関係、調和へとわたしたちを招き入れることなのです。お互いがお互いを搾取し、排除し、利用し、所有化しようとする動きからわたしたちを解放し、わたしたちを内的に高めるところにまで及ぶのです。神さまとの関わりにおいては「奴隷の子」、「怒りの子」から「神の子」へと、人との関わりにおいては支配被支配の混乱から「兄弟姉妹」へと、自然、物との関わりにおいては利用し利用される関わりから共存、調和へと新しく造りかえられていくのです。いきつくところ、イエスさまによる解放というのは、わたしが「わたし」という捕らわれから解放されること、わたしが「わたしの救い」から解放されることにあるといえばいいでしょう。わたしが救われたい、楽になりたいというのが、人間の一番の捕らわれなのです。
わたしたちは、わたしが救われることがもはや目的にならない、先ずすべての人の救いがあって、わたしも人々とともに救われていくというところまで解放されていかなければならないのです。頭でわかっていても、わたしの救いをまず考えてしまう、ここにわたしへの最大の捕らわれがあるのではないでしょうか。イエスさまは自分のすべてを放棄することで、全人類の救いを成し遂げられました。自らが十字架にかかられたということは、自分のすべてを後回しにされた、つまり自分の救いを放棄することによって全人類の救いとなられたのです。このことはわたしにとっても同じことです。わたしたちは自分という捕らわれ、自分の救いから解放されることによってのみ、わたしは真に解放されるのです。そのためには、「聖書のことばは、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」といわれるように、この解放のことばが今日わたしたちに届けられていることに気づかせていただくことが必要です。この神のことばは、わたしがわざわざどこかに探しにいかなくてもいいのです。勉強する必要も、本を読む必要も、黙想会にいく必要も、教会にいく必要さえありません。神のことばは、わたしたちが謙虚に「聞く耳」をもつとき、わたしのあらゆる生活のただなかに今届けられており、そこで神の国はわたしたちのうちに実現しているのです。神の国は遠くにあるのではなく、わたしたちのただ中にあるのです。