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教会からのお知らせ

年間第6主日 勧めのことば

2025年02月16日 - サイト管理者

年間第6主日 福音朗読 ルカ6章17、20~26節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の箇所はマタイの山上の説教に対して、ルカの平地の説教といわれる箇所です。マタイ福音書は、ユダヤ教からキリスト者になった人々宛てに書かれたといわれており、イエスさまを新しいモーセとして描いていきます。ですから「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くによって来た(マタイ5:12)」という書き出しで始まります。その姿は旧約のモーセを思わせます。しかし、ルカでは「イエスは彼ら(弟子たち)と一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった」と始まります。その姿は、モーセのような偉大な預言者として上から教えるというのではなく、ルカ特有の低みに立つイエスさまの姿です。そのように書くと、イエスさまは神さまなのにわたしたちのところまで上から降りてこられたとか、イエスさまの謙遜の姿であるというふうに考えがちです。なぜかというと、わたしたちは、神さまは上におられるというふうに考えているからです。それは、わたしたちがこの世界の物事をすべて、上下、大小、多少で捉えることしかできないからです。ですから当然神さまは上におられて、人間界に人間となって天から降りてこられたと考えます。謙遜もそのように身を低くすることだと考えます。そもそも上下、大小、多い少ないを決めているのは人間であるわたしたちです。だから山上の説教とか、平地の説教とかいうふうないい方をしてしまうわけです。しかし、神さまには上も下も、大きい小さいもありません。

山上の説教では、「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄ってきた。そこで、イエスは口を開き、教えられた」とありますから、話される対象は弟子たちであることがわかります。それに対してルカでは、「イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子たちとおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、イエスの教えを聞くため、また病気を癒していただくために来ていた(6:17~18)」と書かれており、イエスさまが話しておられる対象は、様々な苦悩や病を抱えて毎日の生活に喘いでいる人たちでした。その人々に対して、「貧しい人々は幸いである…今飢えている人は幸いである…今泣いている人は幸いである…」といわれるわけです。マタイでは、「心の貧しい人は幸いである」といわれています。わたしたちは聖書の中の表現、いい方に慣れてしまっていますが、少しわが身を振り返って見ると、自分が苦しんでいるとき、病気のときにお見舞いにこられ、「これも神さまからのお恵みですよ」とか、「あなたは幸いな人ですよ」とかいわれたら、腹が立ってカチンとなるのではないでしょうか。

イエスさまは決して、貧しいことや病気、困苦欠乏がよいといわれたのでありません。また、「心の貧しい人は幸い」というときによく説明されるような精神論を説かれたわけでもないと思います。イエスさまの意図はどこにあるのでしょうか。イエスさまは何ができるとかできないとかではなく、ただルカで述べられているような病人や悪霊に取りつかれている人、罪人とみられている人々、様々な苦しみ痛みを抱えている人々、女性、子どもたちとともに、とにかくまず一緒にいたいと思われたのではないでしょうか。わたしたちは、直ぐに救いだとか、癒しだとかを考えます。もちろん、イエスさまは神さまですから、病人を癒したり、悪霊を追い出したりしておられました。しかし、イエスさまが先ずしておられたことは、自ら小さなものとして彼らとともにいることだったのではないでしょうか。わたしたちは自分が苦しんでいるとき、その苦しみはなくならなくても、誰かが一緒にいてほしいと思うのではないでしょうか。ただ手を握ってくれるだけでも、体をさすってくれるだけでもいいのです。大切な人が苦しんでいるとき、わたしが代わってあげたいと思っても、代わることはできない、何もできなくてもただ一緒にいたいと思うのではないでしょうか。イエスさまご自身も同じであったと思います。イエスさまご自身が小さい方、小さい神さまでいらっしゃって、天から降りてきて人間を救い上げるような力強いタイプの神さまではなかったのだと思います。

しかし、ただ小さい神さまといっても、大きいと比べて小さいという意味ではなく、大きい小さい、上下、多い少ないというような枠組みや基準ではなく、いつでもどこでも誰とでもともにおられる神さまであるというということなのです。特に弱く苦しんでいる人とともにおられる神さまであるということではないでしょうか。というのは、弱く貧しい人というのは、自分が望んでそうなったのではなくて、強いもの豊かなものから貧しく小さくされたということなのです。そして彼らは、どのようにしてもその貧しさ小ささから抜け出すことはできないのです。イエスさまは、決してその小ささ貧しさがよいといわれたのではなく、ただ彼らとともにいることしかできなかったということではないでしょうか。かといって、今日の福音のように、イエスさまは貧しい人々とともにおられるけれど、豊かな人を否定し、そのような人たちはダメだといわれるのでもないと思います。豊かなものは不幸だというような書き方をされているのは、イエスさまのことばが長い伝承の中で、人間にわかりやすく説明しようとすることの中で起こってきたものなのでしょう。イエスさまの思いは、すべての人とともに等しくあることです。しかし、それを妨げている人間のあり方、それが貧しさであれ豊かさであれ、飢えであれ満腹であれ、そのような囚われ、格差や区別を作り出している人間のありさまを疑問視されていかれたのです。それが人間の思い、人間の欲望、社会的な構造やシステムや制度、律法のような規則であれば、それらを意義申し立て、神さまの思い、イエスさまの願いを中心とする真実の世界を告げ知らせられました。それが神の国といわれ、今日の福音のなかで、小さく貧しい人たちは神の国を体験しているといわれたのです。そして、イエスさまは目をあげて、その人々をみておられたのです。そのまなざしは慈しみと憐れみのまなざしです。

イエスさまが貧しい人たちは幸いといわれたのは、誰のことでもなく、このわたしのことなのです。教会の中で貧しくならなければとか、謙遜にならなければならないといいますが、イエスさまは貧しくなりなさいとはいわれませんでした。人間としてのわたしという存在そのものが貧しいのです。わたしたちの貧しさとは、わたしたちは無であり、わたしたちのすべてはいただいたもの、受けたものであり、自分には何もないということなのです。わたしのいのち、わたしの力、わたしの能力、わたしのすべて、わたしたちはそれらを自分のものであるかのように錯覚し、それを自分の思いのままに利用しています。しかし、わたしたちの中に、わたしのものといえるものは何もないのです。わたしたちは、ただイエスさまから憐れと慈しみを受けるものでしかないのです。わたしたちは貧しいから、小さいから、神さまにすべてを期待し、神さまからいただくことができるのです。わたしたちは小さく貧しいものであるから、神さまからいただくことができる、神さまの憐れみと慈しみに出会うことができるのです。わたしたちが憐れまれ慈しまれなければならないものであるから、神さまの憐れみ慈しみと出会うことができるのです。

わたしたちの貧しさ、弱さ、欠如は、わたしたちにとってよいものでも、快いものでもありません。仕方ないといってあきらめるものでもないのです。しかし、わたしたちは受けることによって、神さまの慈しみ憐れみが知らされ、神さまが神さまであることがあきらかにされるのです。もしわたしたちが、受けるもの、与えられるものでなかったなら、人間はもっとひどいものになっていたでしょう。イエスさまは今日のみことばの中で、わたしたち人間の本質をあきらかにされます。それをわたしたちは人間の了見で勝手にしてきた。その人間の了見が、ものごとを混乱させてきました。わたしたちは、人間が作ったとか、こしらえたというふうにいい、すべてを自分の思いのままにしてきた、ここにわたしたちの罪があるのです。しかし、その人間の罪もお使いになって、神さまはご自身をあらわそうとされるのです。神さまは、わたしたちをゆるし、憐れまれることで、ご自身の本質を啓示されます。わたしたちの闇、罪と神の憐れと慈しみという一見相いれないと思われるものが、神の働きの場となっているという逆説を味わわせていただきたいと思います。

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