年間第8主日 勧めのことば
2025年03月02日 - サイト管理者年間第8主日 福音朗読 ルカ6章39~45節
<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日の福音では、自己認識という難しい問題を取り上げています。「善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す」といわれています。また「悪い実を結ぶよい木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない」ともいわれます。人の行動の結果から、原因が分かるということがいわれているのでしょう。しかし、この一連の並行箇所はマルコにはなく、解釈の難しい箇所です。
わたしたちは感謝の祭儀のなかで、「思い、ことば、行い、怠りによってたびたび罪を犯しました」と告白します。それは、思い、ことば、行いという夫々の罪があるということだけではなく、思い、ことば、行いは繋がっているということをいっているのだと思います。わたしたちの心のなかに先ず思いがあって、それがことばとして結集し、それが行動となって表れてくるということなのでしょう。例えば、わたしのなかにある人への怒り、憎しみの感情があって、それがことばとなり、それが行動となって表れるということでしょう。このことは良い実を結ぶたとえから考えると、わりと簡単に理解することができると思います。しかし、ことはそんなに単純ではないように思われます。
わたしたちは「どうしてあんなことをしてしまったのだろう」、「どうしてあんなことをいってしまったのだろう」ということも体験します。つまり、こころのなかで考えていることとまったく違うことをやってしまったり、思ってもいないことばが口から出てきたりします。そもそも、わたしたちはこころというものが何なのかよくわかっていないのです。ですから、必ずしも良いものを入れたこころの倉から良いものが出てくる、悪いものを入れたこころの倉から悪いものが出てくるんだという単純な話、単純な教えではすべてを説明することができないのです。どういうことでしょうか。わたしたちは自分のこころというものがあると考えて、わたしのこころを自分でコントロールできると考えていますが、果たしてそうでしょうか。
「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の丸太に気づかないのか」といわれます。これは、相手のことはよくわかっても、自分を正しく知るということは難しいということでしょう。わたしたちは、相手のことをわかったつもりになりますが、自分のことはわかっていないということではないでしょうか。わたしたちは、怒ってはいけないと思っていても腹が立ってきますし、憎んではいけないと思っていても憎しみのこころが湧き上がってきます。わたしのこころがわたしのものであれば、わたしは100%、自分のこころをコントロールできるはずです。しかし、わたしたちは自分のこころを自分の思うようにすることはできません。わたしたちは自分のことばも行動もコントロールできないように、こころもコントロールできないのではないでしょうか。キリスト教では人間の感覚とこころを区別して、理性でコントロールしないさいといわれます。しかし、わたしたちが感じることとわたしたちのこころをそんなに簡単に区別することはできないのです。そもそも、わたしが自分のことさえよくわからないのに、どうして自分の目から丸太を取り除くことができるのでしょうか。修行を積んだら、自分の目のなかの丸太に気づいて取り除いて、先生のようになれるとでもいうのでしょうか。
パウロは「わたしの内には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうとする意志はありますが、それが実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っているからです(ロマ7:18~19)」といい、わたしたちの内なる罪、悪ということを問題にしています。ですからわたしたちは、「善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す」と決めつけることはできないのではないかと思います。わたしたちのこころは、刻一刻と変化していきます。外ずらや体裁では、怒ってはいけないとわかっていても怒りの心がわいてくる、憎んではいけないと教えられても憎しみの心がわいてくる、信じなければいけないといわれて信じているような顔をしていても、内側は疑いと不信の嵐が吹きまくっています。わたしたちは、自分でどんなに努めても、自分のこころを常に正しく保つことなどできないのです。わたしたちは、自分の意志では、自分のこころをどうすることも出来ないのです。パウロは「わたしは、なんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰がわたしを救ってくれるのでしょう(7:24)」と、うめきの叫びをあげます。わたしたちは、どんなに努力しても頑張っても、自分の目のなかの丸太、第2朗読でいわわれる「死の棘」を自分で取り除くことなどできないのです。しかし、パウロは「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします(7:25)」と感嘆の叫びをあげます。イエスさまだけが、わたしたちを救ってくださる、イエスさまだけがわたしの目から丸太を、死の棘を取り除いてくださる、イエスさまだけがわたしを信じるものにしてくださるということでしょう。「十分に修行を積めば」と訳されていることばは、「神があなたを完全にする」という意味であり、人間が修行をするのではなく、神が人間に働きかけてくださることを表しているのです。人間ではなく、神の働きなのです。
先週の日曜日の福音で、神さまは「恩を知らない者にも悪人にも、情け深い」あわれみ深い方であることが知らされました。わたしたちはそのような神さまの完全性、無条件のあわれみに触れるとき、自分ではどうすることもできない惨めな自分の姿が見えてきます。しかし、神さまはそのわたしを否定したり咎めたりするのではなく、大きな憐れみと慈しみの光でわたしたちを包んでくださいます。ですから、わたしたちはそのイエスさまの光に触れるとき、神さまの慈しみと憐れみを発見します。同時に、自分の姿が浮き彫りにされていきます。その姿はわたしたちが思っていたような自分ではなく、むしろ惨めすぎるわたしです。イエスさまという光に照らされて、わたしたちは自分の影、自分の闇、自分の汚れを発見します。わたしたちは自分の欠点や罪を正面から指摘されたら腹が立つでしょう。しかしそのことを一切咎めず、裁くこともなく、わたしを包み込んでくださる慈しみと憐れみの神さまが知らされてくるのです。わたしを優しく包み込んでくれるものの前では、ただ涙するしかない惨めなわたしを素直に認めることができるのではないでしょうか。イエスさまの眼差し、イエスさまの光だけが真実のわたしを知らせてくれます。その真実のわたしは、惨めすぎるわたしかもしれません。しかし、イエスさまのわたしたちに注がれるいつくしみの眼差しのもとでは、もはや罪の大小も欠点も問題になりません。わたしを貫き、あたたかく包み込むイエスさまの眼差しは、わたしたちに己の泥を見せつけます。しかし、わたしたちが自分を知る、自己認識はそれ自体が目的なのではありません。あくまでも神さまに向かっていくために、わたしたちが一体何もので、自分がどのようなものであるかが知らされ、どのように神さまと関わっていかなければならないかを知らせていただくためなのです。
洗礼を受けて漠然とイエスさまと関わっている人たちが、イエスさまの光によって最初に知らされるのは、わたしたちの罪、惨めさ、貧しさです。そして、わたしたちは人のおが屑を取ることができるようなものではなく、先ずは自分の丸太を取り除かなければならないもの、しかし、自分で取り除くことはできず、取り除いていただかなければならないものであることが知らされていきます。そのような自己認識は、正しい神認識によって起こってきたものであり、神さまは慈しみと憐れみの神として、ゆるしと癒しの神として体験されます。そして、その神さまは、おが屑や丸太の区別なく、すべてを焼き尽くして、ひとつの炎と化してしまう愛の生ける炎そのものであることが知らされていくのです。