四旬節第4主日 勧めのことば
2025年03月30日 - サイト管理者四旬節第4主日 福音朗読 ルカ15章1~3節、11節~32節
<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日は「放蕩息子」のたとえ話です。ルカの15章は、「見失った羊」のたとえ、「なくした銀貨」のたとえ、そして「放蕩息子」のたとえの3つで構成されています。聖書のなかに出てくる多くのたとえ話は、すべて神の国のたとえです。つまり、神さまがどのような方であるかを、たとえでわたしたちに伝えようとしています。ですから、たとえ話の主語はいつも神さま、イエスさまです。人間、わたしたちではありません。ですから、「見失った羊」の主語は羊飼い、「なくした銀貨」の主語は女となります。「放蕩息子」のたとえというタイトルは誰がつけたのか分かりませんが、観点が息子の方に偏っています。正しくは、「見失った息子のたとえ」となるのが正しいといえます。より主語を補って正確にいうなら、「見失った息子を探し求めるいつくしみ深い父親のたとえ」となります。いつも、わたしたちは間違います。迷子になった羊、どこかにいった銀貨、見失った息子を主語にして考えてしまいます。確かに、羊が迷子になっていること、銀貨がなくなったこと、息子が放蕩のかぎりを尽くしていることが問題といえば、問題かもしれません。しかし、そこに焦点があるのではありません。
羊が勝手に出て行ったのか、迷子になったのかもしれません。しかし、羊飼いは自分が見失ったといいます。銀貨が勝手に出て行くわけはありませんから、女は自分が銀貨をなくしたといいます。放蕩のかぎりを尽くしたのは息子ですが、お父さんは息子を咎めたり、怒ったりしません。息子は自分のせいで、こうなってしまったとお父さんは自分の責任を感じているのです。わたしたちはいつも間違って、勝手に出て行った羊が悪い、なくなった銀貨が悪い、出て行った息子が悪いと考えます。そして、放蕩のかぎりを尽くして、我に立ち帰った息子が反省して帰ってきたから、お父さんは寛大に息子を受け入れたと考えます。そして、その弟を受け入れようとしなかった兄と自分を比べて、自分は兄だ、いや弟だと議論します。何という愚かな、何という勘違いでしょう。これでは、イエスさまの福音のメッセージが伝わりません。話を人間のレベルにまで引き下げて、「過ちては則ち改むるに憚ることなかれ」と教えた論語と同じ話にしてしまいます。これなら儒教であって、キリスト教ではないのです。どこからこのような勘違いが生まれたのでしょうか。
わたしたちは、神の国のたとえで誰が主語であるかを、いつも見誤ります。主語はいつも神さま、イエスさまなのです。わたしたち人間ではないのです。実は、なくした銀貨のたとえが一番よく、そのことを伝えてくれているのかもしれません。羊や人間は動物ですから、動き回ります。しかし、銀貨は動けませんから、なくしたのは銀貨のせいではなく、女の責任です。だから、女は家中をくまなく掃いて、念を入れて探し回ります。ですから、探し回るのは神さま、イエスさまなのです。放蕩息子の話は気をつけて読まないと、放蕩のかぎりを尽くした息子が、あるときに我に帰って自分の意志で帰ってきた。それを、お父さんは寛大なこころで受け入れたのだと説明して、神さまのゆるしのために人間の悔い改めの必要性を説く誤った教えとして解釈してしまいます。しかし、放蕩息子の話は、ゆるしの条件として罪人の悔い改めの大切さを説く話ではないのです。イエスさまは、そんなことを伝えたいのではないのです。教会もそんなことは教えていません。ゆるしは、いつも一方的な神さまの恵みです。聖年の免償も正しく理解しないとそのような話になってしまいます。
銀貨のたとえを思い出しましょう。銀貨は自分では動けません。だから、女は家中を掃いて銀貨を探し回ります。銀貨は自分を探し回って、見つけてもらうのを待つしかないのです。わたしたち人間は、まさに泥沼に足を取られて沈んでいくしかない銀貨なのです。迷子になって帰って来られない羊なのです。放蕩のかぎりを尽くしていることに、自分の力で気づいて帰って来られるなら、問題はないでしょう。しかし、わたしたちはそれ程、まともではないのです。もしそうなら、これほど世界は大変なことにはなっていないでしょう。
そうではなく、如何なるわたしであろうとも、見捨てたまわず救い取ってやまないイエスさまがすでにおられるということが大切なのです。もし、わたしたちがお父さんの家に立ち帰ろうと思えるとしたら、悔い改めることができるとしたら、それは、わたしたちにお父さんの子であるという関わりがすでに与えられているからです。子であるということは、お父さんあっての存在です。ですから、子は本能的にお父さんから出ますが、本来的にお父さんのもとに帰ろうとします。それは、お父さんが親として、先ず子に関わっているからです。もし、わたしたちが悔い改められるとしたら、それはわたしたちが悔い改めるという前に、父と子という関わりが与えられているからに他なりません。お父さんがお兄さんに「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる」といったように、お父さんは、弟にも兄にもずっと親として関わっておられたのです。わたしたちがお父さんのもとを迷い出ているときも、子であるイエスさまはわたしたちとともにおられ、わたしたちとともに彷徨っておられたのです。
お兄さんは、外見上お父さんの家に留まっていました。放蕩生活をするでもなく、お父さんの家で真面目に仕えて働いていました。しかし、こころはお父さんのところにはなかったのです。勝手なことをしている弟に対する怒りや嫉妬、またそれをそのままにしているお父さんへの不満で、こころはお父さんのもとにはありませんでした。ですから、お父さんの近くにはいましたが、こころはお父さんのところから迷い出ていたのです。お父さんのところから彷徨いでているのは、弟だけではなく、兄もそうだったのです。ですから、お父さんは息子たちをこのようにしてしまったのは、自分のせいだといって自分を責めておられるのです。責任を感じておられるのです。そして、そのような息子たちを探し求めておられるのです。
わたしたちはそのようなお父さんがおられることに気づかされるとき、つまりそのような神さまがともにおられることに気づくとき、わたしたちは子として我に返り、子としての本来の姿に立ち返り、子として父のもとに帰ろうとするのです。それを悔い改めと呼んでいるだけであって、悔い改めることができるのはわたしたちの力とか努力によるものではないのです。ただ父と子という関わりがすでに与えられており、子が父のもとに帰ろうとするのは子としての本来のあり方、動きに他ならないのです。その子としての我に返る働きを与えているのは、父と子との関わりであり、根源的には父の働きなのです。自分の力で帰るのだとか、熱心であるから悔い改められるのではないのです。そんなこころを起こさせるようなものは、わたしのなかに微塵もないのです。もし、悔い改められるということがあるとすれば、それは先ず神さまがわたしたちを探し求めておられるからであって、わたしの努力や糾明によるのではありません。そこには父である神が働いておら、イエスさまがわたしとともに彷徨っておられるからなのです。