四旬節第5主日 勧めのことば
2025年04月06日 - サイト管理者四旬節第5主日 福音朗読 ヨハネ8章1~11節
<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日の聖書の箇所は、姦通の罪を犯した女の話です。朝早くから神殿の境内でイエスさまが教えておられると、律法学者とファリサイ人が姦通の現場で捕まえた女性をイエスさまのもとに引き立てて、真ん中に立たせます。姦通は悪いことに違いありませんし、申命記によれば男女ともに死罪となっています(22章)。この場合、男性はどうなったのかという疑問が残りますが、今日は罪というものをどのように捉えていくかということを考えてみたいと思います。
今日の場面に出てくる、律法学者やファリサイ人は、「この女は姦通をしているときに捕まりました。このような女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」としつこく問い続けます。彼らの目的は、イエスさまを訴える口実を見つけることでした。その彼らの前提は、無意識に自分たちは罪を犯さない、犯さないつもりという立場に立っているということです。その彼らに対してイエスさまは、「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」といい、罪を自分の問題として考えなさいといって問いを投げ返されました。多くの場合、わたしたちは自分のことを棚上げにして物事を考えます。また、わたしたちが罪を犯さないこと、罪を犯さなくなることが信仰生活での成長であるとも考えています。いずれにしても罪という問題は、どこまでいってもわたしたちに付きまといます。自分のことを棚上げにしているファリサイ人や律法学者は、一生懸命に律法を学び、罪を避け、どのようにすれば律法を正しく守れるか研究し、実践してきたユダヤ人たちです。いわゆる熱心なユダヤ教の信者さんたちです。
それでは、そもそも何のために律法を守る必要があるのでしょうか。律法を守って、正しい生活をし、罪を犯さないようにし、神さまに義と認められるためでした。それでは、神さまに義とされたいと思っているのはどうしてでしょうか。それはわたしの救いのためです。救われたいと思っているのは誰でしょうか。わたしです。どこまでいっても、義とされたいとか、救われたいとか思っているのはわたしなのです。神さまに義とされて、わたしが救われて、天国にいくことが目的なのです。考えてみると、こんな浅ましい、自分勝手な宗教があるでしょうか。それなら、自分の欲を満たしているのとあんまり変わりません。このようなわたしが、神さまから義とされることなどあるのでしょうか。どこまでいっても、自分のことしか考えていない愚かなわたしです。このような天国行きをまじめに教えている宗教があるなら、こんな自己中な宗教はありません。実はこれが人間の現実なのではないでしょうか。
今日の第2朗読の「わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります(フィリピ3:9)」と訳されている箇所は、新しい共同訳聖書では「わたしには、律法による自分の義ではなく、キリストの真実(信仰)による義、その真実(信仰)に基づいて神から与えられる義があります」と訳されています。以前は、「わたしがイエスさまを信じる信仰によって、わたしの信仰に基づいて」義とされるのだと訳してきました。信じる主語はわたしなのです。つまり、わたしが律法をおこなうことによって義とされる旧約の時代は終わったけれど、今はわたしがキリストを信じるというわたしの義によって、イエスさまから義とされるのだと教えてきたのです。もしそうだとしたら、ユダヤ人が自分の力で律法をおこなうことによって自分の義を手に入れてきたように、今度はわたしがキリストを信じるというわたしの義によって義とされるとなっただけであって、いずれも人間のおこないによって義とされるのであって、わたしたちが義とされるのは、人間の自力の業によることになってしまいます。しかし、新しい訳では「イエスさまの真実(信仰)によって」義とされると正確に訳しました。
わたしたちは、イエスさまを信じるというわたしの信仰心が、わたしを義とするのだと考えてしまいます。人間が頑張って信じれば、人間はそれで義とされると教えてきたのです。ニュアンスは少し違いますが、カトリックもプロテスタントも同じです。カトリックは信仰に基づく愛の業によっても義とされると教えたのに対して、プロテスタントは信仰によってのみ義とされると教えました。いずれも人間の行為、人間の業や人間の信じるという業によって義とされると教えてきました。これなら、最終的には神さまが人間を義とされるといいながらも、あたかも人間の業が神さまの前に義とされる権利があるかのような発想になっていく危険性があります。これは、自分たちは律法を守って、自分に罪がないといって、姦淫の女に裁きを要求したファリサイ人、律法学者と変わりません。わたしたちは、わたしが頑張って信じたら、犠牲をして、善行をして、頑張って掟を守って、祈って、反省して、告解して、教会にいったら、そのような自分は正義であるので、義とされると思っているのです。これなら、まったくの勘違いです。わたしたちが義とされるのは、イエスさまの真実、つまりイエスさまの十字架上の贖い、死によるのであって、わたしのいかなる業によるのではないのです。わたしたちは、イエスさまの十字架上の贖い、死によって義とされるという真実を信じるだけなのです。わたしのなかには、自力で義とされるようなものは何もないのです。
そもそもわたしたちが罪を犯さないとしたら、それはたまたま偶然であって、わたしたちの努力の結果でも信仰深さゆえでもないのです。わたしたちは状況が変わってしまえば、どのようなことでもしてしまうような不安定なものでしかないのです。わたしは人を殺めることなどありませんといっても、一度戦争が起こってしまえば、殺す側にも殺される側にもなってしまいます。状況が変われば、盗む側にでも盗まれる側にでもなるのです。わたしたちはたまたま日本に生まれただけであって、ロシアやウクライナに生まれていたらどうなっていたかわからないのです。親鸞は、「わがこころのよくて、殺さぬにはあらず。また害せじと思うとも、百人千人を殺すこともあるべし」といい、人間の不安定な現実を指摘しています。もしわたしたちが罪を犯さないとしたら、それはわたしが善人であるからでも、熱心な信者であるからではなく、まして司祭であるからでもないのです。たまたま、犯さないでいただけに過ぎないのです。状況が変われば、何をしてしまうかわからないのがこのわたしです。イエスさまは、この人間の不安定さを他の誰よりもご存じでした。だから、イエスさまはこの女を罪に定めようとはされません。「わたしもあなたを罪に定めない。いきなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」といわれます。人を断罪し、罪に定めることは簡単です。でも、誰がそれをできるというのでしょうか。問題は罪があるか、ないかではありません。わたしたちが何であっても何でなくても、わたしたちはイエスさまの真実(信仰)によって義とされているのです。その救いの真実は、すべての人に及んでいます。わたしたちはイエスさまの十字架の贖いによって、すでに贖われたものなのです。今日は、わたしの罪という現実を通して、わたしたちに呼びかけておられるイエスさまの真実を味わっていきたいと思います。