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教会からのお知らせ

受難の主日 勧めのことば

2025年04月13日 - サイト管理者

受難の主日 福音朗読 ルカ23章1~49節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日から聖週間が始まります。聖週間は、イエスさまのエルサレム入城を記念することから始まります。今日の受難の主日は、イエスさまのエルサレム入城によって、イエスさまの受難が始まったことを思い起こすために受難の朗読が行われます。今年はC年ですから、ルカ福音書から朗読が行われます。

 今年のルカ福音書の受難の個所の特徴は、基本的にはマルコ福音書に従っていますが、ルカ固有のイエスさまのことばや状況説明をかなり挿入したことです。マルコ福音書では、ピラトの尋問に対するイエスさまの答え「それは、あなたがいっていることです」と、十字架上の最後の言葉「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」だけで、寡黙なイエスさまの姿を描いています。それに対して、ルカの福音では、ピラトへの答えを残して、ルカ固有のイエスさまのことばを新たに挿入しています。

ルカ福音書は、旧約聖書を知らない人々に宛てて書かれています。ですから、マルコやマタイのように、旧約聖書の知識がある人たちであれば、イエスさまの悲痛とも絶望とも取られかねない「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という十字架上のイエスさまのことばであっても、詩編22からの祈りであると理解することができました。しかし、まったく旧約聖書を知らない人たちにとっては、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉は、福音宣教をしていくときに、創始者の言葉として、ルカはふさわしくないと考えたのではないでしょうか。ですから、ルカはマタイ、マルコが描かなかったイエスさまの内面の描こうと思ったのではないかと思います。

しかし、あのような絶句に満ちた苦悩の中で、イエスさまが自分を十字架に釘付けにするものに対して、人間的に温かなゆるしの感情をもっておられたとか、十字架上でも隣の強盗のことを気遣うことができるぐらい平和であったと考えるのは、少々無理があるように思います。イエスさまは神さまでしたから、それが可能であるといってしまえばそれまでですが、イエスさまはわたしたちと何も変わらない普通の人間として生きられたのではないでしょうか。ですからイエスさまが悲痛とも絶望ともいえる状況のなかで、こころの内面は平和を保っておられたと説明することは、神学的には可能かもしれませんが、生きた現実としての人間を見たとき、それが可能であるいうことを強調する必要はないと思います。おそらく初代教会では、自分たちが信じるイエスという方が、絶望のうちに死んでいかれたということは受け入れ難かったのではないか思います。

 人間の心情として、自分たちが信じる救い主は、自分が苦しいなかでも女性や子どもたちのためにこころを砕き、自分を十字架に掛ける死刑執行人のためにゆるしを願い、隣の強盗に声を掛け、父である神への信頼のうちに息絶えていく、少々美化された、スーパーヒーロー的な姿を描きたいというのも分からないではありません。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子どもたちのために泣け」。「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか知らないのです」。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。「父よ、わたしの霊をあなたにゆだねます」。ルカ特有のいつくしみぶかいイエスさまの姿は、わたしたちの胸に迫る思いがあります。しかし、その一方で、マルコが描くように、イエスさまがわたしたちと同じように、悩み苦しみ、疑い、絶望のうちに死んでいかれたという姿に何かほっとするのはどうしてでしょうか。わたしたち自身が苦しみの最中で、また死に際して、イエスさまのように、自分を苦しめたものにゆるしを願い、周りの人々に配慮し、優しい言葉をかけ、神さまへの大きな信頼のうちに死んでいけるか、その保証はどこにもないのではないでしょうか。もちろん、そのような最期を迎えられたら、神に感謝でしょう。しかし、それはわたしの手柄ではなく、ただイエスさまの働きでしょう。死に際にあたふたとして、死にたくないといって怒鳴り散らし、どこまでも自分にしがみつくのがわたしの現実ではないでしょうか。そのようなときに、ああ~イエスさまも苦しんで絶望のうちに亡くなっていかれたのだといわれたら、何と慰めになるでしょうか。イエスさまも立派な聖人君主ではなくて、わたしたちと同じだと思えるのです。イエスさまはわたしたちとともに、地獄の苦しみの淵まで堕ちてくださったのだということを知ることこそ、わたしたちにとって救いではないでしょうか。

 ヘブライ人への手紙のなかで次のような言葉が残されています。「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となられたのです(5:7~9)」。今日の第2朗読でも「キリストは神の身分でありながら、神と等しいものであることに固守しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じものになられました(フィリピ2:6)」といわれています。

今日のルカの受難を読むとき、大切なのはどのように死ぬかではなくて、どのようなものであっても死そのものが尊いということだと思います。これは、死を擁護しているわけでも、それがよいといっているのでもありません。生命体は必ず個体としての終わりを迎えます。人間は自分の個体を維持させることについてはエゴイスティックに見えますが、すべての生物は必ず死を迎えるのです。それはやはり個体としては痛みであり、苦しみであるということです。しかし、そのようにして、いのちはいのちを他の個体にバトンタッチするという利他的な行為をしているということではないでしょうか。今日は、改めてそのようなことを少し味わってみたいと思いました。

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