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教会からのお知らせ

復活の主日 勧めのことば

2025年04月20日 - サイト管理者

復活の主日 福音朗読 ヨハネ20章1~9節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

毎年、復活の主日の福音朗読はヨハネの個所が読まれます。2000年前のイエスさまの復活もきっと誰も祝うことがない、ひそやかな復活だったのではないかと思います。コロナ禍が収束して、わたしたちはまた盛大に復活祭をお祝いすることができるようになりました。しかし、あのときのイエスさまの復活は誰も知らない、静かな出来事だったのではないでしょうか。イエスさまが十字架の上で亡くなり、墓に葬られた後も、同じように日が昇り、同じように人々の営みが続き、人々の苦しみが続いていました。そして、いつもと何も変わらない日曜日の朝が来ました。それがイエスさまの復活の日曜日でした。

イエスさまの復活は、皆が見て確かめられることのできるような出来事ではなかったのです。今日読まれた福音は、日曜日の朝早くに、マグダラのマリア、ペトロともうひとりの弟子がイエスさまの葬られた墓に行きましたが、イエスさまのご遺体がなくなっていた、それだけのことしか書かれていません。彼らの中には、イエスさまが復活されるという考えは一切見られません。彼らはイエスさまが死んでしまったとの絶望の淵に突き落とされたままでした。彼らにとってイエスさまの十字架の死は、自分たちが尊敬していた先生の活動の失敗、挫折でしかなかったからです。「神と民全体の前で、行いにも、言葉にも力ある預言者(ルカ24章19節)」であったイエスさまが、死を前にして全く無力になってしまわれた。そのイエスさまの屈辱、苦しみ、死は、弟子たちを闇の淵に突き落としてしまいました。イエスさまの遺体がなかったこと、墓が空になっていたという事実は、彼らに何も光を与えることはありません。「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、理解していなかったのである」と記され、彼らはこの闇の中にとどまったままなのです。

イエスさまは復活され生きておられます。しかし、弟子たちの目は遮られていて、その光を見ることができません。イエスさまは復活され、すでに弟子たちはイエスさまの光の中に納め取られているのにもかかわらず、その光が見えません。イエスさまが復活されたということは、歴史的事実として証明できるようなものではありません。むしろ、イエスさまの十字架の意味を理解することによってのみ、わたしたちの中にイエスさまの復活の意味が現れてくるといえるでしょう。イエスさまは十字架にかかられることによって、人間として堕ちることのできる最も底の底まで堕ち、闇の中でもがいているすべてのものとひとつとなられました。イエスさまは全人類のひとりとなられました。イエスさまはわたしとなられたのです。だからこれから先は、「イエスさまはわたしのところには来てくださらない」とか、「わたしと出会うために、わたしのどん底まで降りてきてくださらない」、「わたしの苦しみ、罪はわからない、わたしを救うことはできない」と誰もいうことはできないのです。なぜなら、誰もイエスさまが堕ちられたほどどん底まで堕ちることはできないからです。これがイエスさまの十字架なのです。十字架はイエスさまの愛の完全な啓示であり、イエスさまはわたしたちにご自分のすべてを明け渡し、イエスさまはわたしとひとつになられたなのです。イエスさまの復活とは、このイエスさまの完全な愛が、わたしたちに大接近し、光となってわたしたちをすっぽりと覆いつくしたということなのです。わたしたちはイエスさまの光とひとつになりました。わたしたちは、その光にこころの目を開かなければならないのです。

しかし、イエスさまが十字架の上で体験された、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」としかいうことしかできないのがわたしたちの現実です。イエスさまの光の中に納め取られているといっても、わたしたちのこころの目が遮られていて、そのことを知ることができないのです。わたしたちが体験する苦しみや痛みが、ますますイエスさまの光を見えなくさせているのです。その光を見ることができなくさせているものが、わたしたちの囚われ、弱さ、業(ごう)、罪、闇といっていいでしょう。しかし、にもかかわらず、そのようなわたしたちをイエスさまは復活の光で倦むことなく、絶えることなく、優しく、暖かく照らし続けておられるのです。そこに大きながギャップがあることも事実です。わたしたちがその真理を知っても知らなくても、信じても信じなくても、そのことを実感できても実感できなくても、一切関係なく、その永遠の光は遍く世界を照らし、わたしたちのこころから疑いと不信の闇を打ち払い、隅々にまで照らし、わたしたちの闇を浄める働きとして働いておられます。その働きはただ慈悲であって、わたしたちをその慈愛でもって養い育て、育んでおられます。

そのイエスさまの光は、遍く世界におよび、イエスさまのおられないとこはどこもなく、イエスさまともっとも遠いと思われているところに、イエスさまはもっとも近くにおられます。イエスさまがあまりにも近いので、わたしたちはイエスさまがともにあることを忘れてしまうほどに近くにおられるのです。イエスさまはわたしのそばを片時も離れることはない、これがイエスさまの復活なのです。わたしたちはイエスさまの永遠の光で照らされ、その光はわたしを覆いつくし、わたしは光となっているのです。だから、わたしたちは、あわれなみじめな自分をそのままにして、その真理に感嘆し、感謝することしかできないのです。わたしたちの弱さ、罪、みじめさはなくなりませんが、そのわたしを横においても、わたしたちはそのままでイエスさまの愛する子とされていることを味わうこと、これが復活祭でしょう。ですから、わたしたちは、「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています(Ⅰヨハネ4:16)」と申し上げるしかないのです。

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