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教会からのお知らせ

復活節第3主日 勧めのことば

2025年05月04日 - サイト管理者

復活節第3主日 福音朗読 ヨハネ21章1~14節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

イエスさまの復活についての記述は、大きく2つの伝承があるとされています。ひとつは、エルサレムでの空の墓の伝承で、イエスさまに付き従った婦人たちが日曜日にイエスさまを葬った墓に行くと、墓は空であったというものです。もうひとつはガリラヤに逃げ帰った弟子たちが、復活されたイエスさまと出会ったという伝承です。いずれの物語も、イエスさまの復活そのものについては何も語っていません。いわれていることは、エルサレムでイエスさまを葬った墓が空であったということ、そして、弟子たちがガリラヤで、十字架で亡くなったナザレのイエスと同一人物と出会ったというものです。それは、単に個人的な幻視(マリアさまのご出現のようなもの)のようなものではなく、生きているイエスとの現実的な出会いであり、その出会いは弟子たちの生き方そのものを変えてしまうような体験であったということです。弱虫で自分勝手であった弟子たちは、今までとは打って変わって、ナザレのイエスは救い主であると宣言し、自分のいのちをかけるまでになったということです。一体何があったのでしょうか。

イエスさまに付き従った婦人たちは、十字架刑、十字架からの降下、埋葬までイエスさまを見届けました。それに対して弟子たちは、イエスさまが逮捕された時点で保身に走り、エルサレムの隠れ家に潜伏し、日を移さずにして彼らの活動拠点であったガリラヤに逃げ帰ってしまったということです。そこで、彼らはイエスさまに従う前の仕事に戻っていたようです。ペトロの「わたしは漁に行く」という言葉は、わたしは漁師に戻るといったニュアンスのようです。それに対して、他の弟子たちも「わたしたちも一緒に行こう」というのです。彼らは、失敗に終わってしまったエルサレムでの計画に対してこころの整理をして、元の仕事に戻るという感じだったのではないでしょうか。そして、彼らが戻ったガリラヤの日常生活の中で、彼らの生き方を根底から変革させるような体験したということ、それが弟子たちの復活体験といわれるものです。

イエスさまの復活については、いろいろと説明がされています。例えば、わたしたちが自分の親しい人が亡くなった後も、その人が自分の想い出の中に生きている、またこころの中で生きているというものです。しかし、このような想い出は、時間の経緯とともに薄れてゆきます。また、弟子たちがキリスト教という新興宗教を作るために、イエスの復活という教えを作り上げたのだという説明もあります。しかし、ひとつの宗教団体を作り上げるために、そのような教えを作り上げたとしても、自分のいのちまでかけたというのは少々無理があります。そもそも、イエスさまの十字架と死については、人間側の歴史的事実として証明することはできるのでしょうが、イエスさまの復活ということは、人間の側から証明できるようなものは何もないのです。

それでは何がいえるのかというと、イエスさまの弟子たちは、自分たちは復活したイエスさまと出会った、そしてそのことをいのちをかけて証ししたということ、それが多くの人々の共感を呼び起こし、ひとつのグループを形成していったということです。人々が何を体験したのかというと、復活されたイエスさまと出会ったという弟子たちの証しを聞いた人々は、その人たちも同じように復活されたイエスさまと出会う体験をしたということです。感染症がパンデミックといわれる爆発的な感染を引き起こすように、復活されたイエスさまと出会うという体験が爆発的に広がっていったということなのです。もちろん、イエスさまによって説かれた新しい神の国の生き方、愛と慈しみの教え、その愛といのちは暴力や死よりも強いという教えが広がっていくのですが、それは単なる素晴らしい、納得がいく教えが広まっていったということではないのです。

キリスト教の広がりというのは、単なる教えや教義、組織を宣伝していくことによって教勢を拡大していったということではないのです。確かにフランク王国時代とか、大航海時代には、宣教師による布教という手段で、キリスト教を知らない未開の人たちに唯一の救い主の教えを広め、洗礼を授けることでキリスト教を広めるということが強制的になされてきました。しかし、これはキリスト教の本来の広がり方ではありません。イエスさまご自身はキリスト教という宗教を創設する意図も、宗教を広めるという意図もありませんでした。また、カトリック教会という宗教教団を作る意図もありませんでした。イエスさまが人々に告げ知らようとされたのは、神の国の真実です。神の国はいろいろなことばで説明することができますが、イエスさまご自身が体験された神さまとのかかわり、そのかかわりに基づく世界の真理であるといえるでしょう。教会がどうとか、教団がどうとかに関心はありませんでした。ただ、イエスさまが体験された神の国の真実、またイエスさまによって体現された神の国の真理を告げ知らせること以外にはなかったのです。それは、わたしたちがその真理を体験するということによってのみ伝わっていくものでした。何か素晴らしい教えを教えるとか、隣人愛や奉仕の生き方を説くとか、制度や組織を伝達するとかによっては伝わらないものなのです。イエスさまという真実に出会うことによってのみ伝わっていくものです。その反面、教えや制度によって伝えられたことで、イエスさまの真実が正しく伝えられていないという状況が起こっているのも事実です。

イエスさまが大切にされたのは、イエスさまがわたしたちひとりひとりと出会うということでした。今日の聖書の箇所をみると、イエスさまがひとりひとりの弟子たちにかかわっていかれるのが目に浮かびます。これは生前のイエスさまの弟子たちひとりひとりへのかかわり方なのですが、イエスさまが十字架の上で亡くなってしまわれた、しかしイエスさまが復活されたということで、そのようなイエスさまのわたしたちひとりひとりへのかかわりが変わることなく同じように続いているということなのです。それがイエスさまの復活なのです。

いつの時代の人とも、世界中どこにいる人とも、このわたしに出会いに来てくださる、出会われていないものは誰もいない、これが復活のイエスさまなのです。ですから初代教会の人々の体験は、復活されたイエスさまに出会った弟子たちが、その出会いの体験を通して、イエスさまが今生きておられる、わたしとともにおられることを信じるようになり、そのことをもはや疑うことのできない真理として体験した弟子たちが、そのことを他の人たちに証ししていったのです。そうすると、その証しを聞いた人たちは、その弟子たちがしたようにイエスさまと出会うという体験をしていったということです。弟子たちがイエスさまの復活を教えとして教えるのでなく、キリスト教の教理として教えるのでもなく、いわゆる布教という方法によってではなく、ただ復活されたイエスさまとの出会いを証ししていっただけなのです。証しをする人がいたということだけで、他の人たちはイエスさまと直接に出会っていったのです。そこには何も仲介するものはありませんでした。ですから、これは弟子たちの力とか祈り、働きによるものではありません。そのことを弟子たちはよく分かっていました。「主は彼らとともに働き、彼らの語ることばが真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった(マルコ16:20)」と述べられています。弟子の教えでも、弟子の働きでもないのです。イエスさまの教え、イエスさまの働きなのです。誰かの教えなどないのです。ただイエスさまが働いていかれる、そのことが真理なのです。わたしたちはどれほどイエスさまの働きを信じ、謙虚でなければならないでしょうか。そこで働いておられるのは、イエスさまであり、真理の霊でしかないのです。そのイエスさまと出会うとき、わたしたちも自分が動きたくなるのです。

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