復活節第5主日 勧めのことば
2025年05月18日 - サイト管理者復活節第5主日 福音朗読 ヨハネ13章31~35節
<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日は、最後の晩さんの食卓で、イエスさまからユダが「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」といわれて、パン切れを受け取り、出て行った直後の場面が描かれています。「夜であった」と書かれています。ユダが最後の晩さんの家を出て行ったとき、すでに夜になっていたのでしょう。辺りは、夜の闇に包まれていたのだと思います。しかし、この闇は単なる夜の闇を指すだけではないと思います。それは、ユダ自身が入っていった自分ではどうすることも出来ないこころの闇を表していたのではないでしょうか。それはまた、わたしたちが入っていくこころの闇を表しています。
ユダは、ペトロたちのように単純な人間ではなかったのでしょう。ある意味で、イエスさまのしようとしておられたことを、誰よりも理解していた人間だったかもしれません。だからこそ、イエスさまのしょうとされることに一体何の意味があるのか、人々の苦しみを引き受けようとしておられるけれど、それで人々の苦しみがなくなるわけではないのにと、ユダ自身は問い続けていたのかもしれません。ユダは、イエスさまを愛していました。しかし、理解しようとしても入っていけないイエスさまの崇高さが、イエスさまを銀30枚で裏切らせ、ユダも自分自身を裏切って、こころの闇へと降りていったのかもしれません。そして、イエスさまもこの闇にユダとともに入っていかれたのではないでしょうか。イエスさまが、自分の愛する弟子をお見捨てになることがありません。イエスさまが一度、その人の人生を横切られたなら、その人はイエスさまのことをどれほど否定しても、忘れられなくなると遠藤周作はいっています。その理由は、イエスさまがその人の中で、その人を愛し続けるからだといっています。わたしたちは皆、イエスさまによって人生を横切られたものです。わたしが誰であるか、何をしたか、何であるかは問題ではないのです。イエスさまが、わたしを愛しておられるということだけが真実なのです。裏切ったものが、裏切ったものを一番理解している、また裏切られたものが、裏切らざるを得なかったものの本当の痛みを知っている、そして愛しているということではないでしょうか。
今日の箇所では、ユダがイエスさまを裏切って晩さんの広間から出て行ったとき、イエスさまは栄光を受けたといわれています。そのとき、イエスさまはもっともイエスさまらしくなったといわれるのです。そして、そのような状況のなかで、イエスさまは弟子たちに新しい掟をお与えになるのです。最後の食事が始まるとき、イエスさまは「ご自分のときが来たことを悟り、世にいる弟子を愛して、この上なく愛し抜かれた(13:1)」といわれます。その愛はもはや、「自分自身を愛するように、隣人を愛する」愛ではなく、「わたしがあなたがたを愛したように」といわれるイエスさまの愛であり、その愛にもとづいて、「あなたがたも互いに愛し合いなさい」とイエスさまはいわれるのです。このような壮絶な愛があるでしょうか。
不思議なことですが、このユダの裏切りということがなければ、イエスさまはご自分の栄光、つまり神の愛を人類に完全に示すことは出来なかったのです。十字架も復活もなかったわけで、キリスト教というものも成立していなかったわけです。もちろん裏切りということを弁護しているのではなく、それがよくないことであることに変わりはありません。河合隼雄がどこかで、「裏切りによってしか、距離がとれないときがある」といっています。多くの場合は、裏切ったものも裏切られたものも、大きな傷を負って夫々破滅してしまいかねません。しかし、キリスト教は、このような深い痛みと後悔、深い傷口から血を流しながら成立してきたものであるということなのです。弟子たちは皆、大なり小なりユダであったわけです。イエスさまが亡くなってしまわれたのですから、弟子たちの側からイエスさまとの関わりを修復することは不可能です。その修復不可能かと思われる関わりを、イエスさまがご自分の側から一方的に回復してくださったということ、それがイエスさまの復活なのです。そのイエスさまであるからこそ、恵みとして新しい掟、新しい関わり、愛の絆をわたしたちにお与えになることがお出来になるのです。わたしたちの惨めさの淵は、神のいつくしみの淵を呼び寄せるのだということなのでしょう。実に、ユダはわたしだったのです。このような人間のこころの闇の深みに入っていくことが、救いの意味を知ることなのです。わたしたちは、裏切りは罪で、悪であるとして、救い、恵みと対立したものとして捉えがちです。だから、罪や悪を取り除くこと、またそれらをなくしていくことが神に近づくことだと教えられてきました。しかしながら、わたしたちは生きることの中から、罪や悪、闇というものを取り除くことはできません。わたしたちは、闇から離れることはできないのです。それでは、わたしたちは何処で神さまの憐れみと、いつくしみ深いイエスさまのゆるしと出会うことが出来るのでしょうか。カトリック教会の素晴らしい教義、荘重な書物の中ででしょうか。
わたしたちは闇というものがなければ、光というものを認識することはできません。わたしたちはイエスさまのいつくしみぶかい憐れみ、イエスさまのゆるしを素晴らしい教えとして知ることはできても、実際にイエスさまがわたしの罪をゆるし、わたしの弱さ、傷に触れ、憐れみ深いあたたかな光を注がれることなしに、わたしたちはイエスさまの慈しみ、ゆるしと出会うことはできません。わたしたちのどうすることもできないみじめさ、傷、わたしたちが浸っている弱さ、聖なるものではないこと、わたしたちの罪は、イエスさまの救いと対立するものではなく、そのようなわたしたちの闇は救いのための場、手段、土壌となるのです。ですから、イエスさまがわたしたちを愛したといわれたとき、イエスさまはわたしのすべて、一切をゆるしておられるのです。わたしたちが誰であるかなかったか、何をしたかしなかったか、何であったかなかったかは問題ではなく、ただ一切を何であろうとゆるしておられたのです。このことに気づかされるのは、わたしたちのみじめさ、貧しさ、弱さ、傷、罪を通してです。わたしたちのみじめさの闇の淵は、いつくしみの淵を呼び起こすのです。このいつくしみの光は、わたしたちの闇に注がれるときもっとも憐れみ深くいつくしみ深いのです。そして、みじめなわたしたちは、神のいつくしみの使徒となるのです。これが恵みの世界で起こることなのです。
