復活節第6主日 勧めのことば
2025年05月25日 - サイト管理者復活節第6主日 福音朗読 ヨハネ14章23~29節
<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日は、イエスさまが最後の晩さんの席で、聖霊の派遣について話される箇所が朗読されます。正直なところ、理解するのが難しい箇所でもあります。イエスさまについてはまだ理解できても、聖霊とか弁護者といわれると何のことかよく分からなくなります。そもそも、わたしたちが普通に使っている“神”と訳された言葉も、はたして現代人にとってどれほどの意味をもっているのでしょうか。
旧約聖書のなかで、神の霊、聖霊を表すために「風」、「息吹」という言葉が使われてきました。風というものは、空気の流れのことで、流れる空気自体のことを指しています。古来、日本でも風は、眼に見えないものを表すためにも使われてきた意味の深い言葉です。今でこそ、空気の実体が解明されていますが、空気自体は目には見えませんし、空気の流れ、動きによって風があることがわかかります。木々が揺れていると、空気が動いていることがわかります。つまり、風は空気そのものを指すのではなく、空気の流れ、動きであり、あるものを動かす働きのことをいっています。遠藤周作は小説「深い河」の中で、「神は存在というより、動きです。玉ねぎは愛の働く塊りなのです」といっています。従来のキリスト教の中では、神さまは存在そのものであるという説明がなされてきたと思います。しかし、現代人にとっては、神という言葉はもはや重みのない、実感のない言葉になっているのではないでしょうか。だから、遠藤は神という言葉を使わず“玉ねぎ”という言葉を使います。たまねぎは、皮をむいていくと最後にはその実体がなくなってしまう、しかし、人がそれを料理しようとすると勝手に涙が出てくる、そのように人を内側から突き動かしていく働きとして、神を捉えようとしたのだと思います。
今日読まれるヨハネの箇所の中でも、聖霊はわたしたち人間のうちに内住し、人間を弁護する「弁護者」であり、また弁護しながら「側にいるもの」、弟子たちに「すべてのことを教え」イエスさまの「話したことをことごとく思い起こさせて」くれる “働き”であると述べています。働きといっても、わたしたちはあんまりピンとこないかもしれませんが、わたしが今日ここに、このようにいることができるのは、いろいろな人の助けや関わり、いろんな出来事、またわたしが置かれた環境、それが宇宙であったり、地球であったり、地域であったり、家族であったり、いろんなこと、人の繋がりのおかげです。そのひとつでも欠ければ、わたしという人間は存在していないのです。つまり、わたしたちの意志や思いを超えた大きなものが、わたしを生かし働いているということではないでしょうか。それを、わたしたち日本人は「生かされている」とか、「おかげさま」という言葉でいい表してきました。遠藤は、そのように人を生かす働きのことを神といったのでしょう。神とか聖霊という言葉を使ってしまうと、あまりにも実感のない陳腐なものになってしまいます。
聖霊は、キリスト教の教義では三位一体の第三の位格であると説明されています。しかし、そのような説明がわたしたちの心を打つことはありません。普通、わたしたちが元気なときは、自分の力で何でもできて、動いて、働くことができます。そして、わたしたちは自分の人生を思う通りに設計し、それを実行し実現できることが人間としての能力、実力であり、幸福であると考えているのではないでしょうか。しかし、人は生きていくときに、必ず自分の思いが通らないことが起こってきます。それを人間は困難として体験します。そのことによって、わたしたちは、自分の力だけではどうすることも出来ないこと、自分のこころも体もいのちも思い通りにできないこと、まして他人や世界を思い通りにできないことに気づきます。
もし、人生がわたしのものであれば、わたしの人生はわたしの思い通りになるはずです。しかし、“わたしの人生は”、わたしの人生ではなく、わたしは生かされていたのだということに気づくことが聖霊を体験するということではないでしょうか。それは、わたしたちが実際に風に吹かれてみて、はじめて風の流れ、動き、力を感じるようなものではないでしょうか。無風のときには風を感じることはできません。風は、風を遮るものがあってはじめて風を感じることが出来ます。わたしたちの人生も同じではないでしょうか。人生が順風満帆のときには、よもやこの世に風が存在しているなどということを考えることはありません。しかし、順風満帆と思われた人生を妨げるような出来事や事件が起こってくると、風が吹いていることに気づき、それを人生の嵐として体験します。わたしたちが聖霊とか、神の恵みを感じるのは、聖霊や神の恵みを妨げるものがあって、それに風があたるとか、恵みが注がれることによって、それが聖霊とか神の恵みとして体験されるのです。ですからそのような体験が、救いであったり、ゆるしであったり、癒しとも呼ばれるのです。つまり、救い、ゆるし、癒しを体験するということは、わたしたちの中に救われなければならない現実、ゆるされなければならない罪、癒されなければならない傷や病があるからなのです。そこに聖霊の風が吹き、恵みが働くとき、それを聖霊の働き、神の恵みとして体験されるのです。何もないときには、何も感じませんが、それではそこには聖霊がおられず、神の恵みがないというのではなく、聖霊、神の恵みはいつも満ち溢れているのです。
聖霊は、わたしたち人類をいのちの根源において支え、生かし、働きかけておられる大きないのちの働きです。そして、その大きないのちが、わたしたち人間にも見える形で人間となった出来事がイエス・キリストです。そのイエスさまを通して、わたしたちは大きないのちの働きで動かされ、その大きないのちで生かされている、おかげさまであるということに気づかされます。それは往々にして、わたしたちには困難であったり、受け入れがたい体験であったりするのかもしれません。しかし、そのとき、わたしたちは、そのような状況の中においても、わたしたちを生かし、支え見守り、動かしている働きを聖霊の働きとして体験するのではないでしょうか。
(主の昇天(6月1日)の勧めのことばはお休みです。)
