三位一体の主日 勧めのことば
2025年06月15日 - サイト管理者三位一体の主日 福音朗読 ヨハネ16章12~15節
<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗
わたしたちは、主の復活、主の昇天、聖霊降臨を通して、わたしたちを生かし、動かしている大きな働きを黙想してきました。そして、わたしたちは三位一体の主日を迎えました。今日の集会祈願では「聖なる父よ、あなたは、みことばと聖霊を世に遣わし、神のいのちの神秘を示してくださいました」と祈ります。わたしたちを生かし、動かしている大きな働きは、実は三位一体のいのちであったというのが、このお祝い日の意味です。それで、今日は「神のいのちの神秘」を祝うのだということが分かります。そのことをご一緒に見ていきましょう。
三位一体のお祝い日は、御父による神のみことばと聖霊の派遣によって、神のいのちの神秘を示してくださったということがいわれています。そのようないのちの本質は、自分自身を出ていく、自分自身を与えていく、溢れ出ていく、自分自身を超えていくところにあるといえます。つまり、このいのちは、わたしという個体のいのちが個体以上のものになっていく、個体の外へあふれ出ていくところに現象の特徴があるということなのです。そのもっともわかりやすい例は、すべていのちは自分のいのちというものを超えて、次の世代にいのちを受け渡していこうとすることです。いのちは、自分という枠組みを壊して、自己という輪郭の外へと溢れ出ていこうとするのです。それを多くの生命体は、わが子を愛すること、また自分の死として体験しています。
わたしたちは自分の個体だけがいのちであると思っている限り、自分のいのちがなくなったらすべては終わりだと思ってしまいます。どれだけ永遠のいのちがあるといっても、それを自分のいのちの延長線上のことだと考えているだけであれば、それはいのちを物質的に考えているのにすぎません。それはあくまでをいのちをわたしのいのちとして握りしめているということなのです。しかしながら、わたしたちはいのちがわたしという個体の中にあるときに“いのち”というものを知ることができるのです。すべての生きとし生けるものはいのちを生きていますが、そのいのちは意識されるということがありません。自然はその有様によって、いのちの本質を当たり前のこととして生きています。しかし、その中で人間だけがいのちの本質を知ることができる目を与えられているのです。それはわたしたちがいのちの本質を知って、いのちを生きるようになっているからです。これが人間であるということでもあるのです。そして、人間はどのようにいのちを体験するかといえば、わたしという個別のいのちをもつことで死にたくない、永遠に生きたいと願うということでいのちを体験しているのです。死にたくない、永遠に生きたいというのは、個人の欲望でしかありませんが、その欲望の中に真のいのちの願いを見つけていく手掛かりがあるといえるでしょう。しかし、わたしたちはこのいのちをわたしのいのちであると勘違いしていますから、そのいのちを長らえようと健康管理をしたり、健康診断に行ったり、薬を飲んだりしています。そのようなことで、個体の中にあるいのちを少し留めおくことはできるかもしれませんが、そのいのちはやがて個体の中を出ていかざるを得ません。死ぬということです。
わたしたちがいのちが何であるかを知るために、確かにいのちはわたしという個体の枠組みの中に入っていかなければなりませんが、その個体の枠組みの中にだけ留まっているだけであれば、それは本当のいのちを知ることにはなりません。いのちの本質は、いのちは個体という形はとりますが、その個体という枠組みを脱出して、いのちそのものの中に還るところに本来の動きがあるからです。個体性をとったものが、その個体性を脱ぎ捨てていくということが、いのちのもっている本来の動きなのです。神ご自身はいのちそのものでおられるということですから、当然御父による御子のこの世界への派遣、御子の御父への帰還、そして聖霊の派遣という動きとなっていくのです。これは神のいのちのダイナミズムで、神がいのちである、愛であるという以外の何ものでもありません。いのち、愛はひとつのところにとどまっていることはできず、絶え間なく自分から出ていこう、自分を他に与えていこうとします。これがいのち、愛の本来の動き、いのちの本質です。父と子と聖霊である神さまは愛の神さまですから、自分のところに留まっていることができず、絶え間なく御父は御子を生み、聖霊を発出し、また御子は御父に帰還しようとします。神さまはこの絶え間のない愛の流れ、動きを人間に知らせ、このいのちの本来の実相を生きるように招いているのです。
イエスさまを信じるということは、単にイエスさまを礼拝の対象として拝むという意味ではなく、このイエスさまのいのちの動きにわたしたちが乗ることを意味しているのです。それは、わたしたちが自分のエゴイズムの外に出るということなのです。自分のエゴイズムを優先している限り、それは自分を信じているだけであって、その信仰がどれだけ熱心であったとしても、それは自分のエゴを強化しているだけにすぎません。自分のエゴの外に出るということは、大きないのちの中に自分を解放することなのです。イエスさまはそのことをご自分を十字架に釘付けにすることによって、それがイエスさまの本来の姿、いのちの本来の姿であることをあきらかにされたのです。
これは神の救いの経綸であるといわれ、この流れの中に入ることが救いであると説明されますが、これは人間側の恣意的なものではなく、いのちの本質にもとづく運動であるといえます。これはいのちの本来の動きであり、わたしたちの中にその動きがあるというか、わたしたちはその動きの只中に飲み込まれているのです。これが人間の本来の姿なのです。わたしたちが個体性から脱出していくこと、愛するということは大切で必要なことなのですが、それ自体が目的でさえないのです。いのちの本来の目的はこの自己脱出であるといってしまえば、それはプラトンのイデア論になってしまい、わたしたちの本当の国籍は天国にありそれを切望していくという厭世主義の霊性になってしまいます。そうではなく、いのちの本質は、この全体の動きにあるのです。いのちはいったん個体性を取らなければならない、しかしその個体の輪郭に留まるのではなく、個体性を取ったいのちがもう一度その個体性の輪郭から脱出し、大きないのちのうちに自分を解放して、この大きないのちのうちに帰還していくという一連のいのちの循環にわたしたちが自分をゆだねることが信仰なのです。
この三位一体のいのちは、先ずはイエス・キリストの派遣としてあらわされました。いのちはまず個体にならなければならないのです。いのちは個体になることによって、人類にイエスさまをあきらかにし、イエスさまを通してわたしたちにいのちをあきらかにし、聖霊の派遣としてわたしたちにもたらされました。その流れはわたしたちを巻き込んで大きな渦となり、神のいのちへ生まれていこうとします。この流れは生きとし生けるもの、あらゆるものを巻き込んでいく大きないのちの流れであり、神へ帰還する動きとして理解されます。そして、神に帰還したいのちはまたこの大きないのちの流れとなってわたしたちへと流れてきます。これは別々の流れではなく、大きないのちの環流であって、愛し愛され、与え与えられていく相互の働きとして認識さ、これは分かつことのできないいのちの流れ、ダイナミズムなのです。これを抑えて三位一体のいのち、永遠のいのちというのです。わたしたちは、この永遠のいのちの循環の只中に、三位一体のいのちのうちに、父と子と聖霊の交わりの中に生きているのです。
