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教会からのお知らせ

キリストの聖体 勧めのことば

2025年06月22日 - サイト管理者

キリストの聖体 福音朗読 ルカ9章11~17節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日読まれる聖書箇所は、イエスさまの宣教活動の中での一コマが描かれています。イエスさまの神の国の宣教は、言葉と業によって行われました。イエスさまの活動によって神の国が始まっていますが、それは具体的な出来事によって人々に示されていきます。神の国は決して、抽象的な教えや理論、綺麗事ではありません。イエスさまは人々の具体的な要求にただ応えるのではなく、深みにおいてあきらかにしていかれました。ここでは、イエスさまは人間の食べるということに着目され、パンの増やしを行われました。実際にパンの増やしを行われたかどうかということよりも、人間にとって食べるということから教えていかれたということです。

人間にとって最も基本的なことは、当たり前ですが生きていくことです。生きていくということは、食べるということです。食べるということは、他の生き物を殺して食べていくことに他なりません。日本では古来、殺生ということが厳しく戒められていました。明治になるまでは日本人の多くは、穀物、野菜、魚を主食とし、肉を食べるということはありませんでした。ですから食べるための家畜というものは、ほとんどいませんでした。馬や牛は飼われていましたが、それは食べるためではなく、農耕や運搬、交通手段として使われていました。魚は食べていましたが、必ず放生会といって、捕獲したの一部を池に放し、殺生を戒め、いのちに感謝する儀式が行われていました。食事のときには「いただきます」といって、いのちへの敬意を表してきました。ですから、いのちを乱獲するという発想はありませんでした。日本では、いのちをわけてもらっているという感覚だったと思います。これは動物が自分が生きるために、必要なだけのいのちを狩るという感覚に近いのではないでしょうか。ですから、動物は無制限にいのちを狩るということはしません。

それに対して、ユダヤ教やヨーロッパ世界では古くから、動物を家畜化して、それを人間の食べ物として生活してきました。その根拠は、動物は神さまが人間に与えた食糧であって、それは人間の便宜のために自由にとってよいという教えでした。そこで神さまに感謝を表すことはあっても、食べられるいのちへの感謝はありません。動物を見ると、それは食糧として映ったということです。日本人は動物を見て、それが食糧に見えるということはありません。このように自然というものを見るときの生命観というものが当然異なってくるわけです。そのような狩猟民族の欧米文化の中で、近代になってやっと動物愛護、エコロジーということが起こってくるのです。しかし、その視点はどこまでも人間側からの視点で、人間の自分たちのいのち中心という視点から出ることはありません。そもそもいのちを見る目が異なっているのです。

今でこそスーパーに行くと、あらゆる肉や魚がトレイにはいって売られていますが、昔の人たちは、それらの生き物を殺して食べてきたのです。ですから、日本では食事のときに、必ず「いただきます」「ごちそうさま」といって、いのちをいただくことに感謝し、いのちへの礼を尽くしてきました。おそらく食前、食後の「いただきます」「ごちそうさま」をするのは日本だけでしょう。海外で、うつむいて食前の祈りをしていたら、ウェイターの人に「どうされましたか」と声を掛けられたという笑い話があるぐらいです。もちろん、キリスト教で食前食後の祈りはするのですが、それは神さまに向けられた感謝の祈りであって、自分が今いただくいのちに対する礼ではありません。しかし、日本人のいただきますは、いただくいのちへの礼です。このように生きてきたわたしたちには、イエスさまがわたしたちの食べ物、飲み物になってくださったことの意味がすぐにわかります。ですから、ミサが犠牲であって、感謝の祭儀であることを、抵抗なく受け入れていくことができるのです。わざわざ、ミサをイエスさまの十字架の生贄の再現であるといわなくてもよいのです。

それに対して、ユダヤ教やヨーロッパ文化の中にいる人たちにとっては、イエスさまがわたしたちのための食べ物、飲み物となってくださったことを、非常に具体的に、強烈に表現しなければ、その意味がわからなかったのだと思います。食べ物は、神さまが人間の便宜のために与えたという思想が根底にありますから、生きもの、動植物への感謝という発想はほぼありません。だから、食糧がたくさん手に入ればそれは神さまからの祝福、恵みで、たくさん獲物があればラッキーという感覚です。昔、ミサは無血祭といわれてきました。イエスさまはゴルゴダの丘で血祭りにあげられて、実際に血を流してわたしたちを贖い、わたしたちの身代わりとなっていのちの源となられた。それを十字架の生贄、犠牲、日本的にいうと人身御供となられたのだと教えたのです。それに対して、ミサは無血祭といわれ、今度はイエスさまは血を流すことなく捧げられる犠牲であると説明されてきました。そこまでいわなければ、ユダヤ人や狩猟民族の人たちには、食べるということのもっている深みが伝わらなかったのでしょう。イエスさまは、大切なこの人たちのために、わたしが彼らの食糧になるといわれたのです。あなたはわたしを食べて生き延びてほしいといわれたのです。

今日、いのちの源であるイエスさまが、わたしたちを生かし支え続けておられることを改めて味わいます。イエスさまは、物分かりの悪いわたしたちのために、具体的な食べ物、飲み物となってご自身を与えてくださったのです。そのことにわたしたちを気づかせ、目覚めさせていただくために、イエスさまは聖体の秘跡を定めてくださったのです。

イエスさまは聖体となって、わたしを生かし支え続けておられること自体はそうですが、目に見えないもっと大きな現実に目を向ける必要があります。つまり、イエスさまはわたしたちを聖体によってしか、ミサだけしか生かすことができないという意味ではなく、わたしたちはもっと大きないのちそのもので生かされ、支えられているということをきちんと押さえておくことが必要だと思います。過去の教会では、司祭=ミサをおこなう人という理解されて、信徒はミサにあずかることが救いに直結し、すべてであるかのように教えられてきました。今わたしたちはミサについて改めて考え直すことが必要であると思います。教会の中でミサを行うことは大切なことに変わりはありませんが、イエスさまがその生涯を通して、ご自分を与え尽くすという生き方がいのちそのもののあり方であり、その大きないのちでわたしたち人間も生かされているということに気づかせていただくことが本質的なことではないでしょうか。ただ、わたしが聖体をいただきたい、永遠のいのちが欲しい、それがお恵みだというのなら、こんな自分勝手な生き方はありません。それなら獲物を狩っている動物と何ら変わりがありません。

わたしたちが食べるイエスさまは、ご自分をわたしたちのために食べ物飲み物として差し出されたいのちであるということです。そのことを知って、イエスさまをいただくわたしたちは、今度はわたしたちが自らを食べ物として差し出すところまでいかなければならないのです。わたしたちは食べるものですが、食べられるものでもある、これがすべてのいのちのありさまなのです。食べ続けるだけのいのちというものはありません。わたしたちが食べるのは、わたしたちが誰かに食べられるようになるためなのです。これを愛するというのです。イエスさまを通して示されたこのいのちの生きざま、ありさまをきちんと見つめていくこと、これがわたしたちが生きるということなのです。ミサをすること、ミサにあずかることだけがわたしたちの目的ではありません。

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