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教会からのお知らせ

聖ペトロ 聖パウロ使徒 勧めのことば

2025年06月29日 - サイト管理者

聖ペトロ 聖パウロ使徒 福音朗読 マタイ16章13~20節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日はイエスさまと弟子たちがフィリポ・カイザリア地方に行かれた時の出来事が読まれます。フィリポ・カイザリア地方というのは、ヨルダン川の源流で、エルサレムらもガリラヤからも離れた異教徒の地です。フィリポ・カイザリア地方に行ったということには、ガリラヤ地方での宣教活動がうまくいかなくなったということがあるのです。人々は最初はイエスさまの力強いわざと話に熱狂しますが、自分たちの思うようなしるしをしてくれないイエスさまからだんだん離れていきました。人々が求めていたのは、自分の生活を楽にしてくれて、自分たちの病を治し、空腹を満たしてくれるイエスさまだったのです。こうしてイエスさまの宣教は、ガリラヤでの挫折、そしてユダヤ教の本山があるエルサレムへの旅へと続いていきます。

そのエルサレムへの旅の始まりが、今日のフィリポ・カイザリアでの出来事です。そこで、イエスさまは弟子たちに、まず「皆は、わたしのことを何といっているのか」と尋ねられます。弟子たちは、それぞれ答えます。そして最後に、では「あなたがたはわたしを何者だというのか」と尋ねられます。他人から聞いた受け売りの答えではなく、またどこかの図書館で調べたことや公教要理で学んだことではなく、あなたにとってわたしは何なのかと問われます。ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えます。ペトロの思いは、イエスさまはイスラエルをローマ帝国の支配から解放してくれるリーダーということだったのでしょう。ペトロなりの一生懸命な答えであったと思います。ちなみに、ペトロに対するイエスさまの答えの部分(17~19)はマタイの固有の加筆であって、イエスさまに由来しない箇所です。マタイ福音書が書かれたころは、初代教会はユダヤ教から排除されていく中で、自分たちこそ真のイスラエルの後継者であると主張することに主眼があったと思われます。後代、この個所は、教会の創立や教皇職、ゆるしの秘跡の根拠とされますが、イエスさまに由来する箇所ではなく、当時の教会当局の関心事によるものです。この個所については、わたしたちに関係ないので触れません。

話を戻しましょう。イエスさまが自分は誰であるかを問うということは、イエスさまについての問いのように思われますが、実はわたし自身を問うということでもあります。たとえイエスさまを救い主、メシアであると信仰告白しても、それがわたしたちの人生にとって何なのかということにつながっていなければ意味がありません。ペトロの答えは教科書的には正解です。しかし、ペトロにとってイエスさまがどのような意味で救い主であるのかは、聖書の文面からは何も分かりません。つまり、その答えが正解であるかどうかが問題ではなく、ペトロ自身のあり方が問われているのだということなのです。おそらくペトロにとってのイエスさまは、当時の人々がイエスさまに期待していたのと同じで、自分たちの生活を楽にしてくれて、自分らの願いや野心をかなえてくれるリーダーということだったと思います。

わたしたちがキリスト者であること、イエスさまと出会うということは、わたしがイエスさまを救い主として信仰宣言することや、教会に籍があることとか、なんとなく教えられたことを聞いてわかったつもりになることではありません。イエスさまと出会うということは、イエスさまとの出会いによって、わたしたちが自分のあり方や生活がどうなったかということにあります。わたしたちは自分の人生の中でさまざまな人々や出来事に遇っていきます。そして、わたしたちはその人々や出来事から少なからず影響を受けるものなのです。つまり、そのことを通してわたしが変えられていくものなのです。もし、わたしたちがイエスさまと出会っても、イエスさまがわたしの人生を豊かにし、わたしの望みをかなえてくださるということだけを期待するならば、これはイエスさまと真実に出会ったとはいえません。なぜなら、イエスさまがわたしの人生に豊かにしてくれるありがたい神さまというなら、そのような神さまはイエスさまである必要はないからです。それだけならば、ガリラヤの人たちがイエスさまに自分の生活をよくしてくれて、自分たちの願いをかなえてくれる都合のよい救い主を求めていたのと何ら変わりがないからです。もしわたしたちがそのような野心と願望を抱えながら、自分を利用しようとして近づいてくる人がいたら、その人を胡散臭い、計算高いものだとは思わないでしょうか。そのような人と友だちになりたいと思わないでしょう。

たいそう立派な信仰告白をしたペトロでしたが、ペトロ自身は何も変わりませんでした。本当の友情というものであれば相手を利用しようとか、自分が相手にとって都合がよいかなどということは考えもしないのではないでしょうか。ペトロは、イエスさまに自分が思っているメシア、救い主でいて欲しかったのです。イエスさまはそのような弟子たちの限界と愚かしさを知っておられました。だから、「メシアであることを誰にも話さないように」と命じられます。イエスさまの実際の姿と、弟子たちが思い描くメシア像の間に大きな隔たりがあったことがわかります。弟子たちはイエスさまに幻想を抱いていたのです。これが友だち関係であったり、夫婦であったりすればうまくいくはずがありません。

弟子たちはイエスさまとともに生活していましたが、自分の中に不満や嘘偽り、野心がうごめいていて、自分のことで一杯でした。彼らは自分たちのこころの中を見つめようとはせず、自分たちの欲望をかなえてくれる対象としてしかイエスさまを見ていなかったのでしょう。これはイエスさまにとってはどれほどつらかったことでしょう。しかし、イエスさまはありのままの自分を生きておられました。人々が自分のことを「偉い預言者だ」とか、「メシアだ」とか、「生ける神の子だ」といおうとも、イエスさまはイエスさまであることを生きておられました。弟子たちは、イエスさまのことをいろいろ知っていたかもしれません。でも、こうあってほしいというイエスさまを求めていただけで、弟子たちのこころの中にイエスさまが入っていく隙間がありません。だから、弟子たちは変えられていくこともなかったのです。

この弟子たちの姿はわたしたちです。確かにイエスさまを信じること、拝むことで、問題が解決したり、状況が変わったりすることがあるのかもしれません。それでは、わたしたちがイエスさまを信じるのは、わたしたちの望みをかなえてもらうためなのでしょうか。わたしたちがイエスさまと真に会わせていただくということは、自分自身のあり方が問われることなのです。ある意味で、自分自身のあり方を問うということがあるかないかが、イエスさまとの真の出会いとなっているかどうかといえるかもしれません。わたしはイエスさまを信じています、出会っています、しかし、わたしは変わりませんということはあり得ないのです。わたしたちがイエスさまと出会えば変わらざるを得ないのです。変わっていきたくなるのです。確かにわたしたちの愚かさ、無力さは変わらないかもしれませんが、にもかかわらず、イエスさまから憐れまれ、無限に愛されている自分に気づくのです。それは自分で気づくというのではなく、気づかされていくということでしょう。だから、出会いは恵みなのです。イエスさまの方からやってこられるのです。このようなイエスさまと会わせていただくと、わたしのこころが動き始めるのです。イエスさまに何かをしてほしいなどというような、わたしの姑息な思いは吹っ飛んでいきます。

わたしたちはこのイエスさまとの出会いを渇き求めなければならないのです。そして、そのイエスさまと会わせていただくことで、どのような状況の中でもイエスさまとともに生きられるようになるのです。これがイエスさまと真に出会うということ、イエスさまを救い主であると信仰告白するということにほかなりません。今日は、心を空にして、イエスさまとの真の出会いを乞い求めたいと思います。

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