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教会からのお知らせ

年間第14主日 勧めのことば

2025年07月06日 - サイト管理者

年間第14主日 福音朗読 ルカ10:1―9

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音はイエスさまの後に従おうとするもの、キリストの弟子であるわたしたちすべてものの信仰の歩み、またキリスト者の集いである教会共同体のあり方を考えるうえで大切な箇所であるといえるでしょう。大切な点が3つあります。第1はイエスが弟子たちを町や村へ遣わすにあたって、2人ずつチームとして遣わされたということ、第2はその弟子たちに貧しい状態で宣教に従事するように指示されたこと、第3は信頼を要求されたということです。このことを今日はお話してみたいと思います。

第1に、イエスさまは弟子たちを宣教に派遣するにあたって、2人以上のチームとして任命されました。その理由はユダヤの習慣によると、何かをしたときに2人以上の証言が必要であったから、2人で派遣したのだといわれています。しかしもっと大切な理由は、おそらく人間というものを深く見つめたイエスの知恵であろうと思われます。イエスさまは、人間がひとりですべてをするということの限界と危険というものをよく知っておられました。人間としてひとりでできることは限られています。もしひとりですべてうまくやれたとしても、その人は変な自信をつけ、絶対君主になってしまう危険が多々あります。政治家などにしても、始めは人々のことを考えてよい政治をおこなっていても、やがてそれに権力、名声、富がくっ付いてくるとおかしくなります。教区でおこなわれている共同宣教司牧では、必ず司牧者は複数で任命されますが、それはそうした弊害を避けるためです。昔のようにひとりの主任司祭、ひとりの信徒会長が力を振るって何かをやるということ自体、根本的にイエスの意図から逸脱しているのです。

しかし、チームで派遣されることのもっと根本的な理由は、神の三位一体性からくるといえるでしょう。つまり神ご自身が父と子と聖霊というチームであり、そこで愛を生きておられるから、わたしたち教会共同体もチームで働くということを通して、その愛を実現していくように召されているということだと思います。ですから、父と子と聖霊がそれぞれの役割に応じて働いておられるように、教会では皆がそれぞれ意見を出し合い、一緒に考え祈って識別し、それぞれが役割に応じて責任をとっていくということで、わたしたちがこの地上で神の愛の証し人になっていくための訓練、修練の場でもあるともいえるでしょう。これは教会のことに限らず、すべての人間、すべてのいのちの根本的なあり方でもあるのです。ただし、わたしたちは神の愛から、はるかにかけ離れているということを肝に銘じておかなければならないと思います。でないと、自分たちは愛を実践しているという錯覚をもってしまいます。特に教会では、愛の奉仕をおこなっているとか、何かよいことをしていると錯覚するとで、偽善的な集まりになってしまいます。わたしたちは神さまの愛を証しするように呼ばれていますが、それは神さまの愛であって、わたしたちの愛ではないのです。わたしたちの中には愛のかけらもないのです。

第2にイエスは、弟子たちに全く貧しい状態で、宣教に出かけるように指示されました。「財布も袋も履物ももつな」。このイエスさまの命令は、この世の欲からの離脱とこころの自由を得るための教育です。イエスさまに近づき、イエスさまの従うものには、何ものにもとらわれないこころの自由をもつことが要求されます。人間は何かをもつことや何か手に入れることで、自分は偉くなったとか、人間として成長したとたやすく錯覚し、自信をもつ人がいます。しかし、それは人間としての成長ではなく、単なる自分の中での子どものときの「欲しい、欲しい」という欲を、大人になることで手に入れることができるようになったということに過ぎません。これは真の意味で大人になったのではなく、幼児化しているのに過ぎません。イエスの弟子になるということは、何かを手に入れることではなく、自分の何かを手放すことなのです。自由になることなのです。イエスは別のところで、「あなたの宝のあるところに、あなたのこころもある」といわれました。その意味はあなた方が何に捕らわれているかを知りたければ、自分が何を宝としているか見なさいということです。その宝がどんなによいものであっても、それに捕らわれているのであれば、それはわたしたちの信仰の歩みを妨げるということなのです。エックハルトという神秘家は、神さまからも自由にならなければならないといっています。それほどこころの自由ということは、キリストの弟子として大切なことということなのです。というか、こころの自由は成長した人間のありさまであるといえるでしょう。

 第3は信頼です。イエスさまに従ったという以上、自分の持ち物すべて、生命もすべては神さまのみ手の中にあることに信頼し、神さまに委ねることを学んでいくことが必要です。わたしたちが貧しい状態に留まるようにとの勧告も、ひとつの家に留まりそこで世話になれという当時のやり方も(これは現代的ではありませんが)、ひとえにすべての日々の思い煩い、労苦を委ねることを学んでゆくために訓練なのです。この世界への信頼、委託を学ぶということで、すべての宣教の主体は神さま、聖霊であり、わたしたちは協力して働くものでしかないことを学ぶのです。

これらすべてはわたしたちキリスト者の信仰の歩み、また教会共同体の歩みを考えるうえで基本となることです。いやキリスト者である以前に人間として成熟したものになるために大切なことであるともいえるでしょう。わたしたちはキリスト者である前にひとりの成熟した大人、人間になることが必要なのです。上下関係や支配被支配ではなくて、同等の関係を結ぶことができること、自分自身のさまざまな欲から自由であること、大きなものへの開きと信頼があることです。これは通常は成熟した人間の姿なのですが、実はこの究極的モデルは三位一体であるということなのです。父と子と聖霊である神さまは、いわゆる世間でいわれる父と子という主従関係ではありません。父と子といわれると父の方が先に生まれて、あとから子が生まれて、そこに上下関係、主従関係があるように思ってしまいますが、実は父と子の間に主従関係はないのです。父と子は同時に生まれ、同時に存在します。父あっての子であり、子あっての父です。子のない父はいない、父のない子はいません。お互いあっての存在です。ですから父と子という人間の世界のことばで、神さまのありさまを説明することには無理があるのです。このともにあるというありさまが、本来の生きとし生けるもののありさまなのです。それぞれの存在が尊くかけがえのないものであって、そこに上下優劣はなく、それでもってお互いに緊密に関係しあっているのです。そこに上下関係を作り出したのが人間の欲なのです。ですから、わたしたちがその欲から解放されていくことが、わたしたちが人間となる道、本来の存在となる道なのです。

ただ、人間は直立歩行を始めたころから大脳が発達し、本来すべての存在がもっている安らかさというものを失っていきました。ですから、自分を守ってくれるものの中で、自分を保護してくれるものの中でしか、安らぎを得ることができなくなっています。貧しく何もない、安全が保障されない状態では安らぐことができなくなっているのです。そのようなわたしたちに、イエスさまはちょっと勇気を出して自分というものを手放してみなさいといわれるのです。自分をいうものを手放しても、あなたは何も変わりませんよ、何も失いませんよといわれるのです。「空の鳥を見よ、野の花を見よ」といわれることです。大きな存在に自分というものを明け渡してみなさいといわれるのです。三位一体の神さまは、絶え間のない自己脱出、自己放棄であり、自分をすべて手放して、貧しさそのものでおらます。しかし、自分のすべてを与えつくしてなお、平和そのもの、喜びそのものでおられるのです。これが三位一体の神さまの姿、貧しさそのものでありながら、豊さそのものである三位一体の姿なのです。そして、これこそが成熟した人間の姿でもあるのです。わたしたちは皆、三位一体の神さまの写し、似姿なのです。

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