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教会からのお知らせ

年間第16主日 勧めのことば

2025年07月20日 - サイト管理者

年間第16主日 福音朗読 ルカ10章38~42節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日のマリアとマルタの話は、ルカ福音書にだけある箇所です。この箇所は、過去の教会では、活動の生活に対して祈りの生活の優位を説くためによく引用されてきた箇所です。つまり、祈りに専念することが尊いことで、それに対して活動や生活にまつわることは二次的なことと捉えられてきました。ですから、キリスト者としても、司祭・修道者になることが本来の生き方で、信徒はそうなれなかった人たちだと考えられてきました。信徒は、司祭・修道者が唱える教会の祈り(聖務日課)が出来ないので、その代わりにロザリオの祈りを唱えるよう勧めた時代がありました。また、教会の中に、信徒・助祭・司祭・司教という位階制度を設け、また、祈りや教育に従事すること、労働に従事することの間に上下をつける時代が続きました。少し考えたらこれはイエスさまの思いでないことはすぐにわかるのですが、そのような誤った考え方が教会の中で長い間続いてきました。そして、そのような考え方を擁護するために、今日の福音は利用されてきました。公会議後はその反動から、祈りの生活を否定する活動主義に傾いた時代もありました。

先週に続いて今日の箇所も、イエスさまがよきサマリア人のたとえを話すきっかけとなった神への愛と隣人愛をどのように理解していくかということで説明されてきたように思います。先週は、ユダヤ人たちが隣人愛について取り上げながら、どこまでが隣人かといって、境界を設けていることが問題になりました。つまり、隣人という境界をわたしがどこに引くかということが関心事となっていたということです。ですから、隣人を敵・味方という概念で区別しているわたしのこころのあり方そのものが問題であることが指摘されました。そして、今日の箇所では、神への愛と隣人愛を対立するものとして捉えている人間のあり方が問題にされているといえばいいでしょう。

そもそも、神への愛と人々への愛、祈りの生活と奉仕、活動生活をわけて考えていることに問題があります。それらを区別していると、愛の奉仕に献身している人たちは、祈りだけで何も活動をしない人を批判し、祈りの生活が大切だと主張する人たちは、愛の奉仕という名目のうちになされている活動主義を批判することとなり、話は平行線になります。しかし、人間が生きていくときに祈るということも、また活動するということも、それは生きている人間の姿であって、どちらが尊いとかどちらが優れているという区別はありません。たとえば、わたしたちが生きていくために食事をすることと、食べたものを消化し排泄することと、どちらが尊くてどちらが賤しいなどと考えないでしょう。人間として生きるうえで、いずれも当たり前のことなのです。人間は生き物で、他のいのちをいただくことでしか生きていけまから、そのようないのちへの感謝から、祈りや宗教が生まれてきたのでしょう。ですから、人間として祈りを捧げることも、いのちをいただくことも、いのちを狩ってくることも、等しく人間の生きていくための生業なのです。そのどちらが尊くて、どちらが賤しいとか、どちらが高等で、どちらが下等だというようなことはあり得ないのです。それなのに、そこに区別を持ち込んできた人間のあり方が問題なのです。先週と同じ問題が底辺に流れているように思います。

しかし、かといって、皆が同じことをすることはできません。夫々に夫々の役割があり、働きがあります。パウロは「体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか(Ⅰコリ12:17)」といいます。ひとりひとりが皆違っているように、夫々のあり方も働き方も違っています。この世界に同じものは何ひとつありません。この世界は多様性に満ちています。決して一括りにすることはできません。わたしたちは、とかくすると、すべて違ったものが同じになること、同じ扱いを受けることを平等であると考えがちです。それが人間社会での教育であったり、宗教だったりするわけです。現代、個性や人権を尊重するなどといいますが、もともとすべて異なっているのにそれを認めず、平等であるべきだと錯覚しているので、そのようなことがでてきます。そこに多様性と平等のはき違えが起こっています。

わたしたちは夫々が皆違っており、夫々が当事者です。わたしたちは各自が祈る人、奉仕する人、働く人なのです。しかし、そのあり方、働き方はすべて違っています。それでいいのです。ですから、神への愛と隣人愛、祈りと活動を対立させて、役割とか働き、身分を固定してしまう必要はないのです。わたしたちは夫々が当事者であり、生活者なのです。生活を離れて、祈りも活動も奉仕もありません。イエスさまはマルタのあり方を否定して、マリアのあり方を肯定されたのではないのです。マリアとマルタの働きをわけることはできないのです。祈るときは祈り、働くときは働く、それでいいのです。そこに優劣をつけているわたしのあり方が問われているということでしょう。わたしたちが、そのときその場にあったあり方、働きに徹すればいいのです。それができないこと、そこにこころの迷いがあるのです。

さらに、もうひとつの大きな問題が隠れています。それはわたしたちの祈り、信仰について幻想というか勘違いをしているという問題です。イエスさまは「必要なことはただひとつである」といわれました。そのひとつは何かということです。ここで多くの人たちは、奉仕の生活より、祈りの生活の方が大切だといわれたと考えてしまうというのはお話しした通りです。しかし、イエスさまはマルタの奉仕を否定されたのではありません。イエスさまは、「あなたは多くのことに思い悩み、こころを乱している」といわれたのです。奉仕というのは、相手があってのことで、相手に沿うこと、先週の福音のことばでいえば隣人となること、わたしたちが相手の身になることの大切さがいわれました。しかし、ここでマルタがしていたことは、自分の段取り、自分のやり方、自分の仕事です。つまり、マルタは自分のしたいことをしていたのに過ぎないということなのです。相手を見て、憐れに思い、近寄って介抱したサマリア人ではなかったということなのです。見た目は奉仕をしていたかもしれませんが、それはただ彼女のやり方、計画を推し進めているだけだったのです。それを「多くのことに思い悩み、こころを乱している」とイエスさまは指摘されたのです。奉仕の本質からずれていて、自分に中心がなってしまっていました。

それは祈りについても同じことがいえます。イエスさまはマリアのことをほめ、祈りの生活を強調されたという単純な話ではありません。たまたまかもしれませんが、マリアは祈りの本質を抑えていました。祈りは神さまに聞くことです。祈りは、自分の願いをイエスさまに聞かそうとすることではなく、イエスさまの願いを聞くことだからです。多くの場合、わたしたちの祈りはイエスさまに何かを願うことになりがちです。イエスさまにわたしたちの願いを聞かそうとしているのです。確かに祈りの中に、わたしたちが願うという要素も含まれてはいます。しかし、わたしたちが人間関係の中で、自分の願いだけをいつも要求してくる人とよい関係を築くことができるでしょうか。それとも、イエスさまは神さまなので、なんでもかなえてくださるとでもいうのでしょうか。祈りは、自分の願いをイエスさまに聞かせることではなくて、イエスさまの願いをわたしが聞かせていただくことなのです。共同祈願はわたしたちの願いではなく、イエスさまの願いをささげることに他なりません。

福音についても同じことがいえます、福音とは、人間が神さまのために何をすべきかについての知らせではなくて、神さまが人間に何をしてくださったかについての知らせです。祈りはこの福音を聞くこと、信仰とは福音を聞くことに他なりません。わたしがこういうふうに隣人愛をしたいとか、わたしの願いはこれで、これを神さまに祈るというのであれば、これはわたしの思いを神さまに押し付けているだけなのです。宗教は神さまとのわたしたちとのかかわりですが、人間が自分の願望を神さまに投影しているような宗教は、真実の宗教とはいえません。宗教の中心はわたしではなく、神さまです。キリスト教はわたし中心の宗教ではなく、神さまがわたしたちにしてくださってことを観想し、イエスさまを通して示された神さまの願いを聞かせていただく宗教なのです。まずは、聞かせていただくことの大切さを味わっていきたいと思います。

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