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教会からのお知らせ

年間第18主日 勧めのことば

2025年08月03日 - サイト管理者

年間第18主日 福音朗読 ルカ12章13~21節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の愚かな金持ちのたとえは、わたしたちすべてのものへの問いかけとなっていると思います。この金持ちにとっては、自分の望んだことが満たされていくことが幸せで、それが現世でのすべてだったのでしょう。当時のユダヤ教の考え方によると、この地上での繫栄や富、成功は、神さまがその人を嘉せられているしるしであると考えられていました。ですから地上の富や成功は、ユダヤ人にとっては神さまからの祝福そのものでした。しかし、それはただ自分の思いが満たされていく世界を、人間の幸福、あるいは救いと考えていたということに他なりません。さらに、ユダヤ人たちは、現世における義人の苦しみをどのように考えるかということが問題となり、ヨブ記などが書かれていきます。そして、この現世で幸せが叶えられないなら、来世での幸せを永遠のいのちとして理解するようになっていきます。イエスさまの時代のサドカイ派は、来世を認めませんでしたが、ファリサイ派は来世を認めるようになっていきます。彼らが望んだことは、現世であろうと来世であろうと、所詮自分の思いが満たされていく世界を望んでいたのに過ぎません。イエスさまはそのようなユダヤ人たちに、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならないものはこのとおりだ」といわれたのです。

しかし、このイエスさまのことばを、教会は、来世のために善行をして来世の天国のために宝を積むという誤った信仰理解をしていきました。結局のところ、わたしたちの願いが叶うこと、この世では家内安全、無病息災、立身出世、大願成就、来世では天国での救い、永遠のいのちが人間の幸せ、救いとして考えてしまったということなのです。イエスさまが問題にされたのは、この世の富の虚しさではないのです。まして、この世で無理なら天国でという話でもありません。そうではなく、人間が自分の願いが叶うことが幸せであり、自分の思いが叶わないことが不幸であると考えている、わたしたちのこころのあり方を問題にされているのです。

仏教では六道輪廻の中に、天というものがあるとされています。天というのは天人の世界で、自分のすべての願いが満たされていく世界を意味します。普通の人は自分の願い、健康、長寿、学業、成功、富などすべてが満たされたら幸せだと考えています。そして、そのすべてが満たされた世界が天であると考えられています。しかし、仏教の世界でははっきりと天も迷いの世界であるといいます。すべての願いが叶う天人の世界にも、天人五衰といって、その輝きに陰りが出て腐ってくるといわれます。その天人五衰には、5つのしるしがあるといわれています。先ず自分の衣服が汚れてくる、次に頭の冠が萎えてくる、体臭がするようになる、脇に汗が流れるようになる、じっとしていられなくなる。現代人の生活は、まさに天人五衰の生活ではないでしょうか。どれだけ豊かさを手に入れても、その豊かさを失うのではないかと不安になり、じっとしていられなくなる、まさに現代は天人の生活です。それは見え方が違うだけで、結局は人間の迷いの世界なのです。そして、わたしたちキリスト教が考えている救いとか天国というのも、所詮は迷いの世界なのではないでしょうか。

それでは、イエスさまが「神の前に豊かになる」といわれたのはどのようなことなのでしようか。そのヒントが今日の第2朗読にあるように思います。「新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。そこには、もはや、ギリシャ人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです(コロ3:11)」。わたしたちは、わたしを中心にしてこれが幸せだ、これが不幸だ、これが正しい、これは間違っている、この人は同胞で、この人は外国人というふうに、すべてを分別してこの世界を生きています。そして、自分を中心にして、自分がどちらに入るか、あの人はどちらに入るかで物事を見て判断しています。そして、その分別の世界から一歩も出ることができないのがわたしたちの現実です。イエスさまは、そのような迷いの世界から出ることのできないわたしたちを日々新たにし、真の知識を授けたいと思われたのです。そうすると、また真の知識をもっている人ともっていない人が出てきます。そして真の知識をもっている人は救われるが、もっていない人は救われないということになります。救われるとか救われないとかいって、人間は世界に境界線を作り出しているけれど、イエスさまはそのようなものは真の救いではないといわれたのです。

それでイエスさまはどうされたかというと、イエスさまは救いという境界線を破壊されたということなのです。どういうことかというと、イエスさまは“すべてのものとなって、すべてのもののうちにおられる”ようになられたのです。これが、実はイエスさまが復活されたということであり、時間と空間の壁をなくして、世界の境界、差別、区別をすべてなくされたということなのです。時間の境界も、空間の境界もすべてなくすということは、すべてがキリストであり、すべてのうちにキリストがおられるということです。この世界、宇宙がキリストであるということです。イエスさまは、永遠のいのち、永遠の光として、この世界、この宇宙をいのちと光で満たされました。ですからそこには、いわゆる天国、地獄、煉獄という境界がない。すべてがキリストであるということです。イエスさまがすべてで、すべてのもののうちにおられるのであれば、そこに如何なる差別も区別もないし、救われた救われないという境界さえもないはずです。それがイエスさまの復活ということなのです。

それにもかかわらず、自分の周りに境界を作り続けているのが人間であるということなのです。わたしたちは光の中にありながらも光に背を向け続け、自分のこころの殻に閉じこもり続けているのです。自分に光が届いていることを、いのちで満たされていることを見ようとしないのです。救いを求めていながら、救いを拒否しているのだといえるでしょう。このわたしの殻を破ってくださる方が、復活されたイエスさまなのです。教会の役割は、救いという境界をつくりだすことではなく、その境界を破壊していくことが本来の使命です。真の知恵によって、イエスさまの福音の本質に触れさせていただけるように祈りましょう。イエスさまの十字架と復活こそが、真の知恵、真のいのち、福音なのです。

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