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教会からのお知らせ

十字架称賛 勧めのことば

2025年09月14日 - サイト管理者

十字架称賛 福音朗読 ヨハネ3:13~17

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の十字架称賛のお祝い日の起源は古く、コンスタンチヌスの母ヘレナがエルサエムでイエスさまがかかられた真の十字架を9月13日に発見したという出来事に由来しています。そして、335年の9月13日にエルサレムの復活聖堂が献堂され、その翌日にイエスさまがかかられた十字架の木を礼拝する習慣が広がり、それが十字架称賛のお祝い日になりました。

以前にもお話ししましたが、小学生のとき、お寺の日曜学校で聞いた話です。ある国の慈悲深い王子は、森で飢えて動けなくなっている母虎と子虎に会いました。王子は慈悲のこころを動かされ、母虎に自分の体を食べさせて、母虎が子虎たちにお乳をやれるようにと決心します。しかし、王子が目の前に体を差し出しても母虎は食べる元気もないほど衰弱しています。そこで、王子は崖から飛び降りて血を流し、その血を母虎に飲ませようとします。そうすると、母虎はやっとその血を飲んで気力を取り戻して、王子の傷ついた体を食べて元気になって、子虎にお乳をやることができ、母子ともに生きながらえたという話です。この王子は生まれ変わってお釈迦さまとなって、衆生を救うために悟りをひらくという話です。それが法隆寺の宝物の玉虫厨子の側面に描かれている「捨身飼虎(しゃしんしこ)」というお釈迦さまの前世譚の物語です。小学生のわたしは、その話にこころを動かされないではいられませんでした。わたしはこの王子の生き方にあこがれるというか、このいのちの真実を語る話に小学生ながらすべてを聞いたような気がしました。現代であれば、そんなことをすれば、血の味を覚えた虎がまた人を襲うのではないかとか、いろいろな反論があると思いますが、これはいわゆるたとえ話であって、それこそいのちの真実を明らかにするための話であったのです。

そして、今日、わたしたちが祝うイエスさまの十字架は、この話そのものです。これ以上、何かを説明する必要があるでしょうか。イエスさまが十字架の死によって、わたしたちの罪を贖い、罪人として売られているわたしたちを買い戻してくださったのだなどという贖罪論を持ち出すまでもない話です。虎を養うために崖から身を投げるという行為は、イエスさまの十字架そのものです。宇宙開微以来、すべてのいのちはお互いのいのちをわかちあうことによって生きながらえてきました。わたしたちは、いのちを誰かから分けてもらうことなしには生きていくことができないのです。動植物はその食物連鎖によって、お互いのいのちをわかちあいながら生きている、これがいのちの真実の姿なのです。そして、このいのちは消えていくもの、はかないものなのです。この地上には終わりのないいのちなどあり得ないのです。だから、いのちは美しいのです。

このいのちの循環は、食物連鎖というふうにいわれています。そして、その食物連鎖の頂点にいるのだと錯覚しているのが愚かなわたしたち人間なのです。人間は頂点などにいないのです。だれがそのようなことを教えたのでしょうか。いのちの絶妙なバランス、調和をたもってきた食物連鎖という循環の中に、人間が「弱肉強食」という概念を持ち込んでしまったのです。弱肉強食は食うか食われるかの世界、競争世界です。他の誰かの何かを奪わないと生きていけないと錯覚している人間の観念の世界なのです。これは観念であって、本来は存在しないものなのです。このような観念に支配されていることが、わたしたち人間か抱えている罪であり、社会が抱えている根本的な問題で、それが競争、差別、貧困、飢餓、戦争等という姿をとってあらわれているのです。競争、差別、貧困、飢餓、戦争自体をなくすために働くことも大切ですが、大切なことはその観念から解放されていくことなのです。

この捨身飼虎の物語は、この弱肉強食という人間の観念を出離したところにいのちの真理があることを描いているのです。しかしながら、人間である限りこの弱肉強食の観念の世界から出離することは非常に難しいというのが現実です。だからこそ、イエスさまは人間となり、人間の食糧となって、わたしたちのために十字架にかかり、いのちの真実をわたしたちに啓示してくださったのです。

イエスさまの十字架は、「捨身飼虎」の行、イエスさまの決して終わることがない永遠の修行です。イエスさまご自身が迷いの衆生の身となって、衆生とともに迷い、衆生にその身を分かち合いながら、衆生がひとり残らず皆救われるときまで、その行を続けられておられる、これこそがイエスさまの十字架なのです。わたしたちはこの大いなるいのちによって生かされていながらも、わたしたちはいつまでもいのちの外にあり、わたしたちは「弱肉強食」という観念に縛られたままなのです。イエスさまはこの観念が幻想であり錯覚であることを、ご自分がいのちを捨てて、自分が死んでみせて、いのちはこういうものだということをわたしたちに示してくださったのです。わたしはわたしのいのちを自分でどうすることもできないとしても、この大いなるいのちの中にあり、そのいのちの働きに気づかされ、その大いなるいのちの循環に己の身を委ねていくとき、わたしたちもいのちそのものとなって、ありのまま、自然のままに生き、死んでいくことができるのです。わたしたちもこの大いなるいのちそのものなのですから。このいのちの自分を与えていこうとする愛の働きにわたしたちが目覚めることが救いであり、わたしたちの死からの解放、復活のいのち、永遠のいのちなのです。

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