年間第28主日 勧めのことば
2025年10月12日 - サイト管理者年間第28主日 福音朗読 ルカ17章11~19節
<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日は先週に引き続いて、信仰という問題を取り上げます。神さまから与えられた恵みである信仰が、どのようにわたしのこととなるのかというテーマです。イエスさまは、重い皮膚病を患っていて、癒された人に、「あなたの信仰があなたを救った」といわれました。それは、10人の病人が癒されて、イエスさまに感謝するために引き返してきた、ひとりのサマリア人だけが救われたという意味ではありません。また、このサマリア人だけが深い信仰心をもっていて、それでその人が救われたという意味でもありません。それでは、イエスさまがいわれたのはどういうことでしょうか。
当時、レビ記で規定されていた重い皮膚病は、不治の病で一度罹れば治るということがない病として恐れられていました。ですから、この病人たちは、この病は人間の力ではどうすることもできないことを心底分かっていました。そうすると、人間はどうするでしょうか。おそらく、人間の力を超えた特別なものにすがろうとします。それが当時、不思議な癒しの力をもっていると噂されていたイエスさまだったのです。ですから、彼らはイエスさまがお通りの際に、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と叫び声をあげます。彼らは、自分たちは憐れんでもらうことしかできない存在であることを心底分かっていたのです。自分で頑張ってとか、一生懸命お祈りしてとか、信仰深くなってとか、そんな自分の力ではどうすることもできないことを知っていました。彼らは自分たちの病気を治してもらいたいただその一心で、イエスさまにすがります。それ自体は信仰でもなんでもなく、自分の病気を治してほしい必死な願い、生きたい、治りたいという欲でした。多くの説教で、彼らが癒されたのは、彼らはイエスさまに必死に治してくださいと願ったその熱心さが信仰であると説明されることが多いと思います。でもそれだけなら、よくある奇跡物語で、お稲荷さんでも、観音さんを信心するのでもいいわけです。そのような信仰は、ただの人間の願望でしかありません。その願いは、どこまでいってもわたしたちの欲であって、そのようなものは信仰とはいいません。また、救いと病気が治るということは無関係なのです。
大切なことは、今まで病気が治りたい一心でイエスさまにしがみついていた人が、自分の病気が癒されたことをきっかけにして、わたしたちを生かし、わたしを必ず救うと仰っているイエスさまと出会ったということなのです。自分のことで精一杯で、自分のことしか考えられない、ただ自分の病気を治したい一心でイエスさまにすがっていただけの彼らのこころに、人類を生かし、あなたを必ず救うというイエスさまの誓いが、憐みが入ってきたということなのです。ですから、彼らが「イエスさま、わたしたちを憐れんでください」と叫ぶ前に、人類を生かし、必ずあなたを救うというイエスさまの救いの誓いが、憐みがすでにあったということなのです。そして、そのイエスさまの救いの誓い、憐みが、彼らのこころに信仰として届いたということなのです。ですから、「あなたの信仰があなたを救った」といわれている病人の信仰は、病人の信仰ではなく、あなたを必ず救うというイエスさまの救いの誓い、そのイエスさまによって生かされていたことへの気づき以外の何ものでもありません。信仰とは、イエスさまの人類を一人残さず救わないではいられないという誓いが、わたしたちのこころに信仰として振り向けられたものであり、その信仰がわたしの信仰となるときに、その信仰がわたしを気づかせる、救いを体験するということなのです。救いは死んでからのことではありません。わたしを救うといわれているイエスさまと、今というこのときに出会うこと、そのことに気づくこと、それが救いなのです。死んでから天国に行くとか、そういう話ではありません。
わたしが何をしたからとか何をしなかったからとか、わたしが信じたとか信じなかったとかではなく、先ずわたしと出会いたいと願っておられるイエスさまがおられて、そのイエスさまと出会うこと、あなたを必ず救うと誓われたイエスさまのこころに触れること、それが救いなのです。わたしの中にはイエスさまによって救ってもらえるようなものは何もない、ただわたしを必ず救うと誓われたイエスさまの声が聞こえていること、そのイエスさまのこころを頂くこと、それが信仰に他なりません。わたしが救われるために、自分のこころを見つめ、こころを整えて自分の生き方を見直し、わたしが悔い改めたとか、善行をして功徳を積んだとか、祈りを何度したとか、そんなことではないのです。わたしのすることなどイエスさまの救いには何の価値もないことに気づき、ただわたしを救うといわれたイエスさまの誓いだけが真実であることに気づき、そしてその誓いにわが身を任せること、それが信仰なのです。重い皮膚病を癒された9人の人たちは、自分が救われているということに気がつかないで行ってしまいました。しかし、ひとりのサマリア人だけが自分は救われているということに気づいて、イエスさまのところに感謝するために帰ってきました。それでイエスさまは、「あなたの信仰があなたを救った」、あなたはすでに救われているのだと宣言されました。それは、ああ~わたしは救われていたんだということに、気づいたということなのです。信仰は、イエスさまからその真実がわたしたちに振り向けられたものであって、わたしが作り出せるものではありません。イエスさまの救いの声がわたしに届いていること、それがわたしのこころにイエスさまへの信仰を引き起こすのです。
