年間第29主日 勧めのことば
2025年10月19日 - サイト管理者年間第29主日 福音朗読 ルカ18章1~8節
<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日の福音はわたしたちに、気を落とさずに絶えず祈ることの必要性について語っています。そこでまずわたしたちが思うことは、「絶えず祈る」ということが果たして可能であるのかというでしょう。そのためには祈りということを、正しく理解していくことが必要になってきます。ここでイエスが絶えず祈れといっても、一日中聖櫃の前に座っているとか、ロザリオの祈りを絶え間なく唱えることを勧められたとは思えません。だからといって、「自分の活動はすべて祈りです」的な自分の活動を美化し、正当化する傲慢なあり方をイエスが勧めたとも思われません。ではイエスさまが絶えず祈れというとき、一体何を意味しているのでしょうか。それともイエスさまは、わたしたちに実現不可能なことを要求しておられるのでしょうか。
そのヒントは、「不正な裁判官とやもめ」のたとえの中にあるのではないかと思います。そのたとえの中で、神を畏れず人を人とも思わない裁判官にしつこく訴えるやもめの姿が描かれています。しつこく食い下がるやもめの訴えに根負けして、裁判官はやもめのために裁判をするようになります。不正な裁判官がやもめの訴えを取り上げるのは、正義からではなく、あのやもめが「うるさくて、ひっきりなしにやってきて、わたしをさんざんな目に遭わせるにちがいない」と考えたからなのです。
イスラエルの社会では、やもめという身分は非常に弱い立場で、法的な保護を受けることがほとんどできない、人々から、特に男性から暴虐と搾取の格好の対象でした。イスラエルでは、女性にいかなる社会的身分の保証もなかったのです。ですから、人々はやもめの財産を搾取したり、借金の方にやもめやその子どもを売り飛ばしたりすることは決して珍しくなかったのです。だから、やもめが求める訴訟というものは、自分と自分の生活を守るためのものだったのです。裁判官が訴えを取り上げて、自分を守ってくれなければ、やもめは次の日から生きるのに困るのです。いくら裁判官にうるさいと思われたとしても、彼女にとっては生きていくために必要なことであり、なりふりなどかまっていられず、まさに生きるための戦いでした。ですから、やもめは寝ても覚めても裁判のことしか頭にはなく、裁判官に必死で食い下がるのです。今、やもめにとってこの訴えを取り上げてもらうために裁判官に食い下がることが生きることであり、彼女のすべてになっていました。つまり、この裁判官に向かっていく必死な関わりが、やもめの中で生きていくということ、ひとつの習性、存在のあり方になっているのだといえるでしょう。
イエスさまがわたしたちに、絶えず祈りなさいといわれるとき、わたしたちに求めていることは、神さまとわたしとの関わりが、あたかもひとつの生きた習性、存在のあり方となるまで、その関わりを深めていくことの必要性をいっておられるのではないでしょうか。確かに、神さまはどこにでもおられ、わたしたちのこころの中に救い主として、親しい友人として現存されています。ですからわたしたちはいつでも、どこでも絶え間なく神さまの大いなる生命の中にいて、その生命の中に生きているのです。しかし、この神さまとの関わりはわたしたちの側から求めて深めていかない限り、神さまのわたしたちのうちにおける現存は単なる神学的な教え、絵に描いた餅になってしまいます。
その関わりを深めていこうとする態度は、あたかも母親がやがて生まれてくるであろう子どものために、自分のお腹の中にいるときから、その子どものために時間と労力を割いて養い育てながら母親となっていくのと似ています。誰も生まれながらに母親であるものはいません。母親は子どもを胎内に宿したときから、子どもと関わり、少しずつ母親になっていくのです。そして、母親はいつでも、どこでも絶えず子どものことを思っているようになっていきます。寝ても覚めてもいのちのある限り、子どものことが母親にとってすべてとなっていくのです。自分と子どもが一緒にいないときであっても、母と子という関わり、しっかりとした絆ができていますから、母も子も安心していられるのです。この母と子という関わり、絆ができている状態、これが絶えず祈れといわれたことなのです。大切なことは、誰も生まれながら、すぐに自動的にこのような状態にはなれないということです。母親になるということは、決して自動的ではありません。子どものために時間と労力を割いて子どもに関わっていくこと、それによって母親になっていくのです。それに、いつもいいことだけではありません。あるときには、もうすべて投げ出したいと思うようなこともあるかもしれません。しかし、もし母親が母親であることを止めてしまったらどうなるでしょうか。新しい生命は、子どもは育たないのです。これがわたしたちの祈りにおいても同じことがいえます。わたしたちの側から神さまへ関わっていかなければ、神さまはおられたとしても、その関わりはなく、死んだも同然なのです。からし種を大事にとっておくようなものです。わたしたちが親しいといっている人と、一週間に1時間、一日に2、3分しか関わらないというのであれば、その相手はわたしにとって、そんなに親しい人とはいえないのではないでしょうか。わたしたちの祈り、イエスさまとの関わりは、そのようになっているのではないでしょうか。それではイエスさまと親しくなることはできません。
わたしたちが神さまに向かって、今日のやもめのように必死に関わっていき、その関わりがあたかもそひとつの習性、わたしたちのあり方となっていくまで、神さまとわたしたちのあいだで、その関わりは深められていかなければならないのです。信頼に満ちた愛の絆が深められていくとき、その関わりは絶え間のない愛に満ちた相手への思い、気遣いとなっていきます。そして、お互いにただ相手の願いを果たしたいと望むようになっていくのです。そのときわたしたちのすべての活動は、宣教であり、祈りであるといえるようになるのでしょう。しかし、これは、祈りの生活の頂点においておこることで、わたしたちはそれからはるかに程遠いことを自覚しなければならないと思います。ただ、わたしがなんであってもなくても、わたしたちのうちにイエスさまが現存されているのですから、わたしたちにまず求められることは、わたしたちが関わるべき方をまずよく知ることです。これが学びです。
イエスさまはわたしたちをしもべとは呼ばれず、友であるといわれました。イエスさまのことを知ることなしに、イエスさまと関わることも、愛することもできません。母親が子どもと関わることで母親となっていくように、わたしたちもイエスさまと関わっていくことでイエスさまの友となっていくのです。そのために先ず、そのイエスさまを知ること、知れば知るほどその方のことが好きになります。好きになるのでもっと知りたいと思うようになります。この関係ができてくればしめたもので、イエスさまはわたしにとってかけがえのない方、親友となっていきます。わたしたちにとって大切なことは、先ずイエスさまのことを知って好きになることです。そして愛し始めること、それがすべての祈りの生活の始まりなのです。
