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教会からのお知らせ

待降節第4主日 勧めのことば

2025年12月21日 - サイト管理者

待降節第4主日 福音朗読 マタイ1章18~24節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

 今日はマタイ福音書から、イエスさまの誕生の顛末が描かれていきます。わたしたちは、マタイはヨゼフの立場からのイエスの誕生物語であり、ルカはマリアからの誕生物語であるとか、受胎告知とか、聖霊による懐胎とか、イエスさまはベトレヘムで生まれたとかいろんな事を知っています。しかし、そのようなことをわたしたちがわかっても、またいろんな教会の教えを覚えたとしても、実はそれはほとんど意味がありません。わたしたちを救うのは神学や聖書学、教会の教えではないからです。それをわたしが覚えて帰ったとしても意味がないのです。聖書は神のことばですが、それは人間の手で編集された物語であり、それをまた聖書学者や説教者が解釈し、人間のことばとして説明してしまいます。そのような話を聞いてもわたしたちは救われるということはありません。すべての宗教には教学や聖典がありますが、それはひとえにわたしたちを信仰に導くためのひとつの手段です。これを仏教では方便といいます。カトリック教会でも、神学や聖書の知識を深めることと信仰とは同じではないのです。

カトリック教会はいろいろな教義や教えがありますが、それは単に教義をそのまま信じ込むことが目的ではなく、信仰へと導くためなのです。信仰ということばは、語源からして真理と同義語ですが、その真理、それが宗教の本質ですが、その真理を解き明かし教義として説明しようとしてきました。それがかえってキリスト教の本質が何であるかわかりにくくし、真理を複雑にしてしまっています。難しい教義や聖書を理解すことが信仰ではありません。いくら、教義を勉強しても、聖書の解釈を知っても、それは人間の理性の業であって、信仰とは関係ないどころか、わたしたちの信仰生活の妨げとなってしまいます。教義とか聖書について、わたしたちの捉え方、関わり方について間違えてはならないのです。

わたしたちは人間のことばを通してしか神のことばを聞くことはできませんが、ただ人間のことばを聞いているだけでは救われません。よく、今日のお話はよかったとか、難しかったというような反応を聞きます。それは説教者や講師の話を聞いているだけで、人間のことばを聞いているだけにすぎません。自分にとって心地よいことばか、受け入れやすい話を聞いているだけなのだということになります。確かに聖書にしても、聖書の解き明かしである説教や講話にしても、人間のことばを通してしか神のことばを聞くことはできないわけですから、わかりやすいほうがいいでしょう。しかし、その人間のことばを通して響いてくるもの、つまり人間のことばの中を通って響いてくる神のことばを聞くということが大切なのです。人間のことばを通して、イエスさまが直々にわたしに語りかけてくださる「神のことば」を聞かなければならないのです。そのことは、聞くものも、語るものも心得ておかなければなりません。自分の得手に聞き語ることを、重々戒めておかなければならないからです。

今日の福音で、天使は生まれてくる子をイエスと名付けなさいといいました。そこで天使がいったとか、ヨゼフがどうしたということが大切なのではありません。イエスという名は「わたしはあなたを救う」という意味です。ですから「わたしはあなたを救う」「この子は自分の民を罪から救う」ということばを通して、イエスさまのわたしへの「わたしはあなたを救います」という直々の声が聞こえていること、それが信仰なのです。わたしがどう聞こえたとか、わたしがどう理解して納得したかでさえありません。ただ「わたしはあなたを救う」というのが、キリスト教の宗教としての真理であり、その真理がわたしに聞こえる、与えられているということが信仰なのです。信仰というと、わたしが信じることとして理解されがちですが、そうではなく、キリスト教が宗教としてわたしたちに伝えようとする単純な真理、キリスト教は何を教えていますかということを信仰というのです。ですから、わたしたちにイエスさまの真実、真理がわたしに届いていること、その働きを信仰というのです。わたしが何かをする前に、イエスさまがわたしを救うと誓われた真実が信仰なのです。

ですから、ヨゼフがどうの、マリアがどうの、ベトレヘムがどうのということは、わたしたちを真理へと導くための手段、方便であって、わたしたちの信仰と直接関係ありません。カトリック教会はこの真理の周辺のことが多すぎて、何が真理の本質であるかが非常にわかりにくくなっています。司祭がいったからとか、司教がいったから、教皇がいったから、教会が教えているからではないのです。誰がいったかは問題ではなく、イエスさまが直々にわたしに語りかけてくださること-特別なお告げとかご出現ではなく-イエスさまがわたしを呼ぶ声、「わたしはおまえを救う」ということばが聞こえる、そのことがすべてなのです。

教会、また教会の秘跡は人類をこの真実へと導くための道具、方便であって、教会はそのために奉仕者に過ぎません。イエスさまの真実より前に出ようとする教会は、人々をイエスさまに導かないばかりか、妨げの石となってしまうのです。イエスという名、「わたしはあなたを救う」という単純な信仰の真理がキリスト教の宗教としての魂です。それを伝えるために、聖書があり、教義があり、教会があるのです。

今日、待降節第4主日にあたって、わたしたちはイエスという名、「わたしはあなたを救う」というイエスさまの声がわたしに届いていることに、改めて気づかせていただきたいと思います。

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