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教会からのお知らせ

復活節第5主日 勧めのことば

2026年05月03日 - サイト管理者

復活節第5主日 福音朗読 ヨハネ14章1~12節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音は、最後の晩餐の席で、イエスさまが弟子たちのもとを去っていくことをお話になります。それに動揺する弟子たちに、イエスさまは「わたしは道であり、真理であり、いのちである」といわれました。今日はその意味を味わっていきたいと思います。

先ずイエスさまは「いのち」について、ヨハネ福音書の中で次のようにはっきりといわれました。「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたをお遣わしになったイエス・キリストを知ることです(ヨハネ17:3)」と。永遠のいのちとは、わたしたちがイエスさまを知り、信じていることそのものが永遠のいのちであるといわれました。永遠のいのちというと、死後のいのちであるとか、今のいのちとは別に、恵みとして与えられる神のいのちであるとか考えられがちです。また、わたしが努力をして、信仰を深めて、徳を修め、来世でご褒美として与えられるものと思われてきました。しかし、イエスさまははっきりと永遠のいのちとは、「唯一のまことの神であられるあなたと、あなたをお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」といわれました。永遠のいのちとは死後のいのちであるとか、わたしたちが生きているいのちと別のいのちではなくて、今、わたしたちがイエスさまと出会い、生きているその関わりそのものが永遠のいのちであるといわれたのです。

今日の福音でフィリポはイエスさまに、「主よ、あなたがどこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません」といい、「わたしたちに御父を、つまり神をお示しください」といっています。おそらくフィリッポは、永遠のいのちとか神さまというのは、自分たちが生きているところとは別のところにあるものと思っていたのでしょう。しかし、イエスさまはそのフィリッポに「あなたはこんなに長い間、わたしと一緒にいるのにわたしがわかっていないのか」といわれます。つまり、「あなたはわたしとすでに出会っているではないか、わたしと一緒にいるではないか」といわれます。さらに「わたしを見たものは、父を見たのだ」といわれます。イエスさまと出会い、関わり、一緒にいるということは、神さまと出会い、関わったのと同じだといわれるのです。そしてその関わりこそが永遠のいのちであり、それが真理であるといわれたのです。

そして、わたしたちはイエスさまの生きざまを通して、いのちの真実を見させていただいたのです。イエスさまは、「友のためにいのちを捨てること、これ以上大きに大きな愛はない(15:13)」といわれました。いのちの真実のありさまは本質的に自分自身を他に与えていくこと、自分を脱出していくこと、自己忘却にあるというのです。イエスさまはその真実を、ご自分の生き方、特にその十字架の死を通してわたしたちに完全に啓示されたのです。

これはすべてのいのちあるものの法則であり、いのちは自分の個体の中に留まっている限り本来のいのちの姿になりえず、自分の個体を出て個体以上のものになっていくところにいのちの本質があるのです。ですからこのいのちの自己超越こそが、いのちの特徴であるのです。わたしの個体だけがいのちだと思っている限り、本当のいのちを知らないということになります。つまり、自分のいのちのありさまに拘っている、自己中心性にとどまっている限り、本当のいのちを知らないのだといえるでしょう。いのちの本質は、個体を超えて、自分を出て他になっていくところにあるからです。ですから、いのちは自分という自己中心性の殻を破っていくこと、究極的には死を通して、他を生かすいのちとなっていのちをつないでいくところにその本質があるのだといえるでしょう。そして、そのいのちのダイナミズムは永遠であるということなのです。ですから死は自己の消滅ではなく、与えることによる変容であり、大きないのちのうちにおける完成であるといえるでしょう。これがイエスさまの復活です。このいのちの真実を、イエスさまを通して啓示していただきました。

このいのちの根源的な感覚は死にたくないということです。でも、死にたくないというのは、いのちの本質は永遠であるということの裏返しでもあるのです。イエスさまは「野の花、空の鳥を見なさい」といって、自然にいのちを生きている大自然に学びなさいといわれました。しかし、いのちの真実に対して目が閉ざされているわたしたちに対して、いのちの本質を見せるために、イエスさまはあのように死んでみせたのです。いのちの真実を見なさいと。

そして、この本当のいのちを発見していくための入り口は自己譲渡であるといわれました。「一粒の麦は地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ(12:24)。」 これがいのちのありさまであり、いのちの真実なのです。野の花も空の鳥も次の世代にいのちを渡し、いのちをバトンタッチしていきます。その個体のいのちは滅びるように見えますが、そのいのちは確実に受け継がれていきます。ですから、いのちそのものは永遠なのです。このあたりまえのいのちのありさまを妨げているのが、人間の罪、エゴイズムなのです。

旧約までは、人間は個体のいのちが永らえることが神さまからの恵み、祝福だと考えられてきました。あるいは、今でもそう思われているかもしれません。「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた(ヨハネ1:17)」といわれています。つまり、モーセの律法を守って義とされる時代は終わり、イエスさまを通して、全人類に恵み、つまり永遠のいのちがすでに無償で与えられている、その真理がわたしたちに完全に示されたといわれるのです。イエスさまは人間という個体の中に実現したいのちを、自分のいのちとして握りしめるのではなく、そのいのちを他者に解放されました。いのちそのものが、わたしが握りしめているいのちをもっと大きないのちの中に解放しなさいと教えているのです。信仰というのはこの個体を突破していく力、働きなのです。わたしたちが信仰をいただくということは、自分のエゴの外に出るということなのです。これがいのちの本来の姿なのです。だからそのようないのちのありさまは真理なのです。

イエスさまは、この真実の道をわたしたちは知らせてくださいました。わたしたちは今生かされている日々の生活の中で、このイエスさまの道を歩むように招かれています。そして、その真実をわたしたちは自分の中にもっており、いのちの真実を知っているのです。それは、わたしたちが日々の生活の中で、家庭、職場、共同体の中で、お互いに分かち合い、ゆるし合い、仕え合っていくこと、自分を他者にほんのわずかであっても明け渡していくことです。このいのちのお互いさまという生き方が、わたしたちをわたしのエゴから解放してくれます。これがイエスさまのいのちの道なのです。わたしたちはこのいのちの真実を知らせていただき、今わたしたちはそのいのちの中にあり、そのいのちを生きているのです。日々、その道を歩ませていただけるように祈りましょう。

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