三位一体の主日 勧めのことば
2026年05月31日 - サイト管理者三位一体の主日 福音朗読 ヨハネ3章16~18節
<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗
わたしたちは、主の復活、主の昇天、聖霊降臨を通して、わたしたちを生かし、動かしている大きないのちの働きを黙想してきました。そして、今日、わたしたちは三位一体の主日を迎えます。今日の集会祈願では「聖なる父よ、あなたは、みことばと聖霊を世に遣わし、神のいのちの神秘を示してくださいました」と祈ります。わたしたちを生かし、動かしている大きな働きは、実は三位一体のいのちであったというのが、今日のお祝い日の意味です。それで、今日は「神のいのちの神秘」を祝うのだということが分かります。そのことをご一緒に見ていきましょう。
三位一体のお祝い日は、御父による神のみことばと聖霊の派遣によって、神のいのちの神秘を示してくださったということがいわれています。そのいのちの本質は、自分自身を出ていく、自分自身を与えていく、溢れ出ていく、自分自身を超えていくところにあるといえます。つまり、このいのちは、わたしという個体のいのちが個体以上のものになっていく、個体の外へあふれ出ていくところに特徴があるといえるでしょう。そのもっともわかりやすい例は、すべて生命体は自分のいのちというものを超えて、次の世代にいのちを受け渡していくということです。いのちは、自分という枠組みを壊して、自己という輪郭の外へと溢れ出ていこうとするのです。それを多くの生命体は、わが子を生み養い育てていくこと、そして自分のいのちを子に与えていくこと、また自分の死として生きています。
と同時に、このいのちは自分が生きているいのちですから、あまりにも当たり前で、自分では意識することがないほどあたりまえとなっている現実でもあるということです。海の中にいる魚は、自分が泳いでいる海というものを意識することがないのと同じようなものです。このようにわたしたちを生かし、わたしたちを超えて、またわたしたちを包み込んで働いているこの大きないのちのありさまを、父と子と聖霊、三位一体とわたしたちは呼んでいます。このいのちは単なる宇宙エネルギーとかではなく、わたしたちを愛し、呼びかけ、わたしたちに関わってこられる神ご自身なのだということです。
そして、そのいのちが限られた個体の中に宿るとき、わたしたちはそのいのちを生身のものとして認識することができるのです。この神ご自身である大いなるいのちが、地上の限りある人間として宿られたのがイエス・キリストです。ですから、イエスさまは人間によって知られることとなられた神、わたしたちに人格的にかかわってくるいのちの主なのです。ご自身がいのちそのものであるのにもかかわれず、限りある人間となって、その生きざま、死にざまによって、わたしたちにいのちの神秘を具体的に示してくださいました。
そのイエスさまが第一にいわれたことは、いのちを生きている大自然に聞くことでした。「野の花を、空の鳥を見なさい」ということが代表的ですが、さまざまな自然界のたとえ話を話されました。成長する種のたとえ、種まきのたとえなどです。そして、次にはいのちを生きている人間の姿をさまざまなたとえ話で教えられました。よきサマリア人のたとえや放蕩息子のたとえなどです。そして最後には、ご自分の生きざま、死にざまを通していのち本来の姿を示されました。それがイエスさまの受難、死、復活です。それによって、いのちは自分のいのちを他に与えることによって、本来のいのちになるのだということをはっきりと示されました。イエスさまが「友のためにいのちを捨てることこれ以上に大きな愛はない」といわれたことです。イエスさまの十字架はまさにその言葉を生きることでした。イエスさまは十字架の死を通して、いのちをこの世界に与え、いのちそのものとなれらました。これがイエスさまの復活です。
わたしたちはそのことが大切であるということを知りながらも、先ずはわたしのいのちの安泰を考えてしまいます。それは人間である限りそうなのです。そして、わたしが一日でも長く生きながらえるためであれば、他のいのちを利用してもかまわないという考えが、今、世界を支配しています。最後の最後まで自分のいのちを握りしめているのが人間なのです。しかし、それはいのちの本来の姿ではないのです。
宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」の中に「蠍の火」という話がでてきます。普段は他の虫を取って食べている蠍が、いたちに追いかけられて井戸に落ちてしまいます。そして、そのときになって、蠍は自分の身勝手さに気づきます。そして、蝎は井戸で溺れかけて次のように祈ります。「ああ、わたしはいままでいくつのもののいのちをとったかわからない、そしてそのわたしがこんどはいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちにくれてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうぞ神さま。わたしの心をごらんください。こんなにむなしくいのちをすてずどうかこの次はまことのみんなの幸いのためにわたしのからだをおつかいください」と祈ります。そしたら、蠍は自分のからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えて夜のやみを照らしているのを見ます。いのちの危機に瀕したとき、蠍に自分のありのままの姿に気づかせ、そして蝎をもってそのように祈らせたのは一体何なんでしょうか。それは蝎ではなく、蝎を生かしているいのちだったということができるのではないでしょう。そのいのちは、すべてのものを生かし、すべてのものの中に等しく流れている大いなるいのちなのです。そして、そのいのちが蠍の中にも流れ、わたしたちの中にも流れているのです。
自分さえよかったらいいと思いで生きてきた蝎が、死の間際に井戸の中で自分のいのちに目覚めさせたその働きを聖霊というのです。誰かに教えてもらったわけでもなく、本を読んでわかったのでもありません。蠍は、自分の内に流れているいのち、神のいのちに目覚めたのです。
三位一体とは、わたしたちと関係のない教えではありません。父として、わたしたちを生かし、子として、わたしたちのただ中に来られ、聖霊として、今もわたしたちの内に働いておられる、そして、そのいのちを他に与えるように呼びかけ働いている、それが三位一体のいのちなのです。わたしたちはこの三位一体のいのちの還流のただ中にいるのです。わたしたちは、そのいのちに生かされています。そして、そのいのちを生きています。さらに、その深みに目覚めよと呼びかけられているのです。わたしたちは、今すでに三位一体のいのちの中に生かされているのです。
