年間第13 主日 勧めのことば
2026年06月28日 - サイト管理者年間第13 主日 福音朗読 マタイ10 章37~42 節
<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日の福音は一見すると、イエスさまに従っていくためには、家族をも軽んじるようにいっておられるかのように聞こえる箇所です。それでは、イエスさまは家族を捨てなさいといわれたのでしょうか。そうではないと思います。家族もまた神さまから与えられた大切ないのちだからです。しかしわたしたちは、ときに家族や自分のいのちをすべてであると考えて、それを絶対化してしまいます。イエスさまは、もっと深いところにあるいのちに目を向け、そこに根を下ろしなさいといわれているのではないでしょうか。「自分のいのちを得ようとするものは、それを失い、わたしのためにいのちを失うものは、かえってそれを得るのである」といわれています。イエスさまが「かえって得る」といわれたいのちとは何か、人間が生きるとはどういうことかを考えなさいということだと思います。わたしたちは、普通はどのように生きるべきかというふうに考えると思います。しかし、イエスさまが問題にされたのは、いのちとは何か、生きるとは何かという問いです。多くの宗教が何を追求してきたかといえば、このいのちの正体ということだと思います。どのように生きるかであれば、道徳とか人の道の話になってしまいます。そうではなく、生きるとは何か、いのちとは何かという根本的な問題を問われたのです。今日は、イエスさまが「わたしのためにいのちを失うものは、かえってそれを得る」といわれたそのいのちの深みに入っていきたいと思います。
わたしたちがいのちについて考えるのは、人間の死を通してです。わたしたちは日々、誰かの死をニュースで知ります。しかし、もっとも心を揺さぶられるのは家族や友人の死です。特に大切な人の死を経験するとき、わたしたちは大きく影響を受けます。そして、死は大変なものであると想像してしまいます。しかし、自分自身の死については誰も経験したことがありません。なぜなら、わたしが死んだときわたしの意識はないからです。ですから、誰も死が何であるか説明することはできないのです。ただ、この地上の生命体をいのちだと考えているのであれば、わたしたちの身体的生命は必ず死を迎えます。この地上での生命尊重だけを説くのであれば、普通現代人が考えている生命観に留まってしまいます。かといって過去の教会のように、この地上の人生を延長した天国にいくことを目的とする生命観も違うように思います。この地上のいのちを説くにしても、天国でのいのちを説くにしても、それらは決して間違いではありませんが、イエスさまはもっといのちの深みへとわたしたちを導こうとされているのです。それは、イエスさまこそがまことのいのちであり、いのちそのものであるからです。
いのちについては、特にヨハネ福音書が取り上げていますが、そのなかでイエスさまは「わたしは復活でありいのちである。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きているものでわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことがない(11: 25)」といわれました。ここでイエスさまとは何かというと、イエスさまが本当のいのちであり、いのちそのものであるといわれています。このいのちというのはイエスさまの個人のいのちではなく、小さな自分を捨てて自分を与えて生きているイエスのいのちを指しています。そしてこのいのちは死なないといっておられます。自分がこれがいのちだと思っている小さな身体的ないのちにしがみつくのをやめたら、死んでも死なないといわれるのです。そして、死んでも死なないゆえんのものを見出していくことが宗教だといえると思います。
ですから、本当のいのちを生きるということは、イエスさまを信じること、その大きないのちに自分をまかせることであるといわれています。本当のいのちとは、死後のいのちではなく、わたしたちが今生で生きている生命活動でもなく、今、わたしが生かされているところのいのちを生きること、信じるとはそのいのちをいただくこと、そしてそのいのちを生きて、大きないのちそのものの根源に帰っていくことであるといえると思います。ですからイエスの弟子となることは、単に教えを学ぶことではなく、イエスさまの生き方、そのいのちのあり方に自分を重ねていくことなのです。
まことのいのちは、イエスさまの生き様に現されています。そのいのちは、個体のうちにある生命現象を超えていくというところにあるのです。つまり、本当のいのちというものは、自己の中に留まらず、個体の外に溢れ出ていくところにその本質があります。神のいのちの本質は愛ですから、愛は自分のすべてを絶え間なく与えることにあります。ですから、まことのいのちそのものであるイエスさまは、自分のいのちを他者に与えるということにおいて、自分を十字架に釘付けにするということにおいて、いのち本来の姿を生き抜かれます。ですから、イエスさまにおいては生きるとは、自分のいのちを失うこと、自分のいのちを捨てること、自分を超えていくことであるといえるでしょう。わたしたちも、わたしの個体だけがいのちだと思っている限り、本当のいのちを知ることはできません。死んでしまったらお終いだという考え方も、死んでから魂は天国にいくという考え方も、いのちを自分のものとして握りしめ、個人の小さな枠の中に閉じ込められたものだけを考えているように思えます。いのちを自分の中だけに閉じ込めて握りしめるのではなく、自分という枠を出て、自己を超越していくことによって初めて、本当のいのちになるのだということではないでしょうか。
実は、わたしたちはこのいのちのあり様を知っているはずです。なぜなら、わたしたちはそのいのちを生きているからです。どこまでも生きたいと願うのはわたしですが、わたしは自分という小さな枠を出ていくことの大切さも知っています。イエスさまがそれをはっきりと教えてくださいました。そして、わたしたちはそのことを生まれながらに知っているのです。とっさのとき、わたしたちは自分のいのちを守ろうとします。しかし、同時に自分のいのちを省みず他のいのちを守ろうともします。危機のときに己のいのちを顧みず見ず知らずの誰かを助けようともする、これが人間なのです。わたしたちのうちに、すでにいのちの根本的なあり様、まことのいのちの働きが与えられているのです。そのいのちの働きに気づいていくこと、ここに信仰の本質があるのです。そして、この信仰はわたしたちにすでに与えられたイエスさまのいのちなのです。そのいのちはすでにわたしたちの中に愛として働いています。その働きに気づき、そのいのちに身を委ねて生きること、それが今日の福音が招いている広いいのちの世界、イエスさまにおける信仰を生きるということではないでしょうか。
