年間第24主日 勧めのことば
2026年09月13日 - サイト管理者年間第24主日 福音朗読 マタイ18章21~35節
<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日の聖書の箇所は、「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回ゆるすべきでしょうか。7回までですか」という弟子の問いに対してイエスさまが語られたたとえ話となっています。ここで弟子たちの取り上げた問題は、わたしがどこまで兄弟をゆるさなければならないかということです。マタイ福音書には主の祈りがあって、「わたしたちの負い目をゆるしてください。わたしたちも自分に負い目のある人をゆるしましたように」の解説のようも聞こえます。しかし、問題は別のところにあるように思います。
弟子たちは、自分はあくまでもゆるす側であって、ゆるされなければならない側であるとは考えていなかったといということです。その意味では王の家来と同じです。このことが大問題だといわなければならないと思います。そもそも、本当にゆるされなければならないのは誰かという問いだと思います。
王の家来が負っていた借金は1万タラントンといわれています。1タラントンが6000万円ぐらいといわれていますから、それの一万倍ということになります。普通、一個人ができる借金の額ではありません。自分の持ち物、自分、妻、子で返せるような金額ではありません。しかし、この家来は厚かましくも「どうか待ってください。きっと全部お返しします」というのです。これは、ただの一時しのぎの言い逃れか、あるいは、借金をしているという自覚がなかったのではないかと疑うような言葉です。それに対して、この家来が仲間に対して貸していたのは100デナリオンです。1日の日給が1デナリオンですから、まあ、100~200万円程度です。これならば、人間が返すことのできる金額です。問題なのは、王の家来がどのようにしても返すことができない借金をしているのに、そのような借金をしているという自覚がまったくなかったということではないでしょうか。そして、この家来は自分はゆるされたということに気づいていなかったということだと思います。
この一万タラントンという返すことのできない負い目を、わたしたちのいのちというところから考えてみたいと思います。わたしたち人間はいろいろないのちによって生かされています。そもそもいのちの代価等あり得ないものなのですが、スーパーにいけばありとあらゆる食材が売られています。小さな鳥であれば少しの飲み水と少しの餌で生きていきます。獰猛な狼であっても、最低限必要ないのち狩って生きていきます。しかし、食物連鎖の頂点に君臨する人間はありとあらゆるいのちを狩って生きています。そして、人間はその食物連鎖の頂点に君臨する王のように振舞っています。王とは、この地球の中で、すべてを自分の意のままにすることができる存在です。所有欲と名誉欲と支配欲を一手に納めているのが王なのです。そして、自分の思いを通すためであれば、すべての自然界を支配し、またすべての人間界をも支配しようとし、手段を選びません。戦争や侵略というのはその最たるものでしょう。
わたしたちが生きていくということは、大なり小なり、ありとあらゆるいのちに負っており、それらのいのちなしにはわたしたちは生きていくことができない存在なのです。それなのにわたしたち人間は、自分たちが万物の霊長であるとして、ありとあらゆるいのちを狩り、搾取し、強奪しているのです。そのためであれば、他の人間をも容赦なく搾取し、殺略していくのです。わたしが生きるということは、他の多くのいのちの犠牲のうえになり立っています。しかし、普段はそのようなことを考えもせず、スーパーで楽しく買い物をしています。しかし、このいのちの糧がわたしのところに届くために、どれだけ多くの人の手をかりて、どれだけ多くのいのちが奪われ、どれだけ多くの犠牲、あるときにはいのちさえも奪われてきたかについて考えもしないのです。
日本では食事のとき、いただきますといって、おいのちをいただきますと感謝し、おいのちをごちそうさまでしたといって感謝をあらわしてきました。今日の福音に出てくる王の家来は、そのように自分が他の誰かのいのちによって生かされ、養われていることに気づかず生きているわたしたち人類の代表のような存在です。ここに出てくる王さまとは、すべてのいのちの源であり永遠のいのちである神さまであるといえるでしょう。わたしたちは生かされている、恵まれている、そして養われていることが当たり前となっており、そのことに気づきません。そのことに気づかずに、ありとあらゆるいのちを当然のこととして奪って生きています。人間を万物の霊長であると教えてきたのはキリスト教です。根底にある問題は、生きとし生けるいのちへの感覚の欠如です。その自覚のなさが、今日の世界におけるありとあらゆる差別、搾取、戦争を引き起こしてきているのです。
このように見ていくと、実はわたしたち人間こそが、この地球上でもっともあわれで、残虐で、救われ難いものに他ならないのです。まさに今日の福音の王の家来とは、わたしたちのことなのです。それなのに、自分は何度まで兄弟の罪をゆるさなければなりませんかと問うているのです。わたしが兄弟をゆるす前に、ゆるされなければならないのはこのわたしなのです。他の誰よりもゆるされ、救われなければならないのは、このわたしなのです。わたしは罪深い人間でございますというかもしれませんが、それは単なる道徳的反省に過ぎません。言葉では、わたしは罪人だというかもしれませんが、わたしが罪人だなんてことは自分ではそう簡単にはわからないものです。罪人の自覚がないというのが罪人の特徴だといえるかもしれません。
わたしたちは、イエスさまの光に照らされて、初めてわたしが罪人であることがわかってくるのです。どんなに一生懸命糾明しても、それは所詮道徳的な反省であって、反省する自分などたかが知れています。家来は、口先では王さまにゆるしを乞い、感謝するかもしれませんが、兄弟のことは何も考えられないのです。つまり地獄行きの身には何も変わりがないのです。それがわたしの身だということなのです。そのわたしたちを救うというのがイエスさまのお約束、願いなのです。そのイエスさまの願いに出会わせていただかない限り、兄弟をゆるしましょうというのは、単なるスローガンで終わってしまうのです。その人は、自分がゆるされる必要があると思っていないからです。いつも自分はゆるす側なのです。
わたしたちは、イエスさまのわたしを救うという願いに出会わせていただくときに、救われ難い自分の存在に目覚めさせていただくことができるのです。兄弟をゆるさなければなどと思っている間は、実はわたしたちは何もわかっていないのかもしれません。イエスさまとの出会いによって、自分がそのような愚かな身であることを知らせていただくこと、これこそがわたしたちに与えられた恵みなのではないでしょうか。そして、それが今日の福音のテーマだと思います。
