主の洗礼 福音朗読 ルカ3章15~16,21~22節
<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗
ルカ福音書における主の洗礼の特徴は、洗礼者ヨハネはすでに投獄されているので(3:20)、イエスさまの洗礼は過去の出来事の思い出として描かれている点です。その記述は非常にシンプルです。そしてイエスさまの洗礼の記述のあとに、イエスの系図が描かれていきます(3:23~38)。マタイ福音書では冒頭に系図が置かれているのに対し、ルカではイエスさまの誕生物語のあとに系図が置かれています。ルカの系図とマタイの系図の違いを見てみると、その意図が見えてきます。マタイの系図は、ヨゼフの系図でアブラハムを起源としています。ですからイエスさまはユダヤ人という一民族の枠組みのなかに誕生し、ユダヤ人を通して人類に救いが広がっていくという視点で描かれています。しかし、ルカの系図は人類の系図で、アダムを通して神にまで遡ります。それによってイエスさまはユダヤ人という枠組みからではなく、初めから人類の救い主であることが強調されます。実は、ルカの誕生物語では、イエスさまはユダヤ人という境遇のなかに誕生しますが、ヨゼフともマリアとも血の繋がりがない、つまりユダヤ人としてではなく「人類」として誕生されたのだということをいおうとしているのだということなのです。ですからイエスさまはユダヤ人の環境の中に生まれますが、アダムの血統まで溯ることによって、ユダヤ人としてではなく、「人類の代表」として誕生したのだといおうとしているということです。その点からイエスさまの洗礼の箇所を読み直していきたいと思います。
「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると」という記述から始まります。ここで、「イエス『も』」と書くことで民衆とイエスさまが並列に描かれています。ここからもイエスさまは、人類の代表として洗礼を受けられたのだということがわかります。そこからわかることは、「イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降ってきた。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」という出来事は、民衆に、つまり全人類に起こっている出来事であるということなのです。それでは、その中身を詳しくみていきましょう。
ここで「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」ということばを聞くと、わたしたちはイエスさまの神の子としての適性がいわれているんだという意味に捉えてしまいます。しかし、原文はメシア詩編と呼ばれている詩編2の7節の「あなたはわたしの子、わたしは今日、あなたを生んだ(詩編2:7)」の箇所を意識しており、「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜びとする」とも訳せる箇所です。イエスさまは、神の子として相応しいとか、適性があるとか、資格があるというような意味ではなく、イエスさまは何であっても何でなくても神さまの喜びであるということなのです。それはまさに親が我が子を自分の喜びとするその感覚です。ヨハネ福音書では、全人類、つまりわたしたちについて「この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである(1:13)」とのべ、全人類が、つまりわたしたちは神によって生まれたものであるということをあきらかにします。神から生まれたのですから、わたしたちは神の子といわれます。人間の考え得るなかでは、生むものと生まれるものとの関係は親と子ですから、神が生むなら、生む神は親で、生まれたものは神の子となるわけです。イエスさまの洗礼の記述のなかで、イエスさまは「あなたはわたしの愛する子」といわれているわけですから、神から生まれたわたしたちも神の子であり、神の喜びであるということになります。ですからこのことばはイエスさまだけにではなく、わたしたち全人類、そしてわたし自身に宛てられているということです。
これはエフェソ書でいわれていることと同じです。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神はほめたたえられますように…天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのないものにしょうと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子としようと、御心のままに前もってお定めになったのです(1:3~5)」。ここでは、わたしたち全人類は天地創造の前に、イエスさまにおいて神の子として定められていたということがはっきりとのべられています。洗礼のときではなく、天地創造の前、つまり永遠においてわたしたちは「すでに神の子(Ⅰヨハネ3:2)」とされているのです。聖書のなかで度々出てくる「選ぶ」ということばは、今日のイエスさまの洗礼の箇所でも訳されている「適う者」というような意味として理解されてしまい、多くのものがいてそのなかから相応しいもの、適性があるものが選抜されたというように捉えてしまいます。しかし、聖書の中の「選ぶ」ということは、何かを排除し何かを区別して、それ以外のものを取捨選択するという意味ではなく、「生む」ということばのもっているような無条件でおこなわれる行為自体を現します。つまり「選ぶ」ということばは、「愛する」ということばと同義語であるということなのです。ですから、わたしたち全人類は人類であるということにおいて神から生まれ、神から選ばれ愛されているということです。そこに適正とか、条件は求められません。幼児洗礼というのはそのような観点からおこなわれてきました。赤ちゃんには何の資格も、適正も求められません。まさに、そのままでということなのです。
ですから、わたしたちが洗礼を受けるということによって、何か特別に選び取られるという意味ではなく、救われるものの集いに入るという意味でもありません。確かにそのように教え方、そのようなことが強調されてもきました。しかし、洗礼とは、ただイエスさまが洗礼のときに聞かれた声、「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを生んだ。わたしはあなたを喜びとする」という声を、わたしたちが聞くことに他なりません。これは、洗礼によってわたしたちは神の子になるのではなく、洗礼のときにわたしたちは天地創造の前にイエスさまにおいて愛されて、神の子とされているという永遠の真実があきらかにされるということなのです。これが人類の本来の姿なのだということなのです。そのあきらかなしるし、イエスさまの「あなたはわたしの愛する子である」という名乗り、これがわたしたちが洗礼を受けたということなのです。今日、イエスさまの洗礼の祝日にあたり、改めてわたしたち人類の、そしてわたしの本来の姿がわたしのなかであきらかにされていく恵みを願いましょう。このようなわたしたちの本来の姿があきらかにされていくこと、それを福音宣教といい、この本来の姿に目覚めることを、わたしたちは召命と呼ぶのです。