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復活節第2主日 勧めのことば

復活節第2主日 福音朗読 ヨハネ20節19~31節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音では、イエスさまが十字架の上で亡くなられた後の日曜日の夕方の出来事が描かれます。弟子たちはすべてが終わってしまった、自分たちの先生は十字架につけられてしまった、今度は自分たちに追手が及ぶかもしれないと恐れ、家の戸に鍵をかけて閉じこもっています。弟子たちは、イエスさまの最期のとき、保身のためにイエスさまを見捨てて逃げてしまいました。その弟子たちと復活されたイエスさまとの出会いが描かれていくわけです。家の戸に鍵をかけて閉じこもっているというのは、まさしくわたしたち人間の姿であるともいえるでしょう。弟子たちは、イエスさまを裏切って見殺しにしてしまったということで自分たちを責めています。イエスさまが十字架の上で死んでなくなってしまわれた今、もはやイエスさまに許しを乞うとか、和解するという、自分たちからの手立てをすべてなくしてしまいました。また、今度は自分たちに追手が及ぶかもしれないという二重三重の恐怖と後悔に苛まれて、もはや閉じこもりしかありません。

わたしたちはいろいろな困難に直面するとき、それになりにやり過ごしていく技を身に着けています。しかし、わたしたち人間の力だけではどうしてもやり過ごすことができない状況というものを、人生の中で何度となく体験します。聖書ではそれを闇とか、罪とか、死と表現しており、わたしたちのことばでいえば生老病死がそうでしょう。どのようにしても、わたしたちの力が及ばず、わたしたちからそれを突破する手立てがなくなった状況です。このような中で、わたしたちはどうするでしょうか。わたしたちの方からの手立てがすべてなくなったとき、あちら側から手が差し伸べられてくるということ以外ないのです。それが弟子に復活されたイエスさまが現れたと描かれていることであり、わたしと出会うためにイエスさまがこられるということなのです。それが復活されたイエスさまとの出会いの体験、弟子たちの復活体験なのです。今日、描かれる弟子たちとイエスさまとの出会いは、決してわたしたちが普通に誰かと出会うような次元の話ではありません。わたしが望んだから、わたしが頑張ったから出会えるようなものでもないのです。ただ、一方的に与えられてくるのです。この一方的に与えられてくることを恵みというのです。今日の聖書箇所にあるような出会いが、実際にあったかどうかはわかりません。多くの場合、聖書の記述があたかもそのまま起こったかのように説明されます。最初のときトマスはいなくて、一週間後にトマスがいて、トマスがイエスさまの手とわき腹の傷跡に手を入れるという生々しい話です。そのようなことが実際にあったかどうかということは、わたしたちにとって重要なことではありません。ただ、イエスさまがわたしに出会いにこられたということが真実なのです。

わたしたちは誰も生前のイエスさまと直接に出会った人はいません。わたしが出会うのは復活されたイエスさまなのです。復活されたイエスさまであるということの意味は、いつでも何処でも、どの時代に生きていても、誰でもが出会うことができる方であるということなのです。わたしたちの方からイエスさまと出会うための手立ては何もありません。しかし、イエスさまが復活されたということは、二千年前、ユダヤの一部の限られた人としか出会うことができなかったイエスさまが、時間と空間を超えて、イエスさまはすべての人のイエスとなられたということなのです。つまり、すべての人はイエスさまによって出会われており、関わられている、イエスさまの働きがすべて人に及んでいるということなのです。それは、イエスさまは、“わたしのイエス”となられたということなのです。

わたしたちの方からイエスさまと出会うことを望んでも望んでいなくても、またイエスさまのことを知っていても知らなくても、イエスさまはすべてのところのすべての時代の人々に関わっておられるということなのです。イエスさまによって関わられていない人は誰もいません。それはすなわち、イエスさまによって愛されて、救われていない人は誰もいないということなのです。この真実は、わたしの努力とか精進によってどうこうなることではありません。イエスさまがわたしのことをすべて知っておられ、愛しておられ、ゆるしておられ、関わっておられるのです。イエスさまは復活されたイエスさまとして、永遠の光として、聖霊の働きとして、愛の働きとして、その働きは遍くすべての生きとし生けるものに及んでいるのです。そのイエスさまと出会うこと、それはわたしがイエスさまと出会うことを望み、出会いを求めて出ていく遥かに先に、イエスさまがわたしに出会いに来ておられるということなのです。これがイエスさまの復活です。

これは、特別な体験を意味しません。特別な神体験せずとも、イエスさまと出会うということがわたしたちの内に与えられているのです。ただそれはわたしの力とか信仰ではなく、イエスさまがわたしと出会いたいと願い、わたしとの出会いに飢え渇いておられる、その願いがわたしたちに振り向けられているということなのです。わたしの方から、イエスさまと出会うための手立ては何もありませんが、その願いがわたしの中に振り向けられており、それがわたしの中で発動させられるとき、信仰という形をとって動き始めるのです。だから、先ずわたしが望むのではない、信じるのではないのです。わたしの希望でも信仰ではありません。イエスさまがわたしと出会いたいと望み、その望みをわたしたちに与えるということにおいて、わたしに出会いに来ておられるのです。わたしたちはそのイエスさまの望み、願いを起動していくのに過ぎません。それを信仰というのです。ですから、その信仰はイエスさまの信仰であり、イエスさまの希望というのです。イエスという名は、「わたしはあなたを救う」という働きであり、イエスさまがわたしたちを救い取って捨てない、最後のわたしが救われるまで働き続けるというイエスさまの名乗りが、わたしたちに届いていることが救いであり、信仰なのです。ですから、わたしたちを信じるよう働いておられるのはイエスさまに他なりません。

わたしたちがイエスさまのことを知って、考えて、信じて助かるのではないのです。わたしはあなたを救うといわれている方の名を聞くことがすべてなのです。イエスさまというありがたい救い主を知って、勉強して、洗礼を受けて救われると思っているのかもしれませんが、それであれば、その人はイエスさまのことを何もわかっていません。イエスさまを思うとか、信じるといいながらも、結局はイエスさまを信じている自分を信じているのに過ぎないからです。そこに、わたしたちの罪、わたしたちの闇の根っこがあるのです。家に鍵をかけて閉じこもっている、そこには自分しかいません。そこには自分にかがみこんで、自分を握りしめ、自分の陰で作り出した闇しかないのです。そのようなわたしがイエスさまを信じるとか、イエスさまのことを考えるなどということで、わたしが解放されるということはありません。ただ、わたしが頭の中でイエスさまのことをぐるぐる考えているだけです。わたしの方からイエスさまに向かう道などないのです。イエスさまの方からわたしの方に来てくださる道しかないのです。わたしたちがどういうふうにイエスさまの方にいくなどという教えは、すべて方便、方法論でしかありません。キリスト教は本質的にいって、真理であるイエスさまがわたしたち人間の方に来られるという、ただひとつの大道しかないのです。わたしたちがイエスさまにいく道を探しているときに、すでに道はあったのです。それが、イエスさまが「道、真理、いのち」といわれていることです。そのことを今日の福音は語っているのです。キリスト教は、イエスさまの方から来ていただく道しかないのだということに気づくこと、またその道がすでにあったことに気づくこと、それがわたしたちの復活体験なのです。

復活の主日 勧めのことば

復活の主日 福音朗読 ヨハネ20章1~9節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

毎年、復活の主日の福音朗読はヨハネの個所が読まれます。2000年前のイエスさまの復活もきっと誰も祝うことがない、ひそやかな復活だったのではないかと思います。コロナ禍が収束して、わたしたちはまた盛大に復活祭をお祝いすることができるようになりました。しかし、あのときのイエスさまの復活は誰も知らない、静かな出来事だったのではないでしょうか。イエスさまが十字架の上で亡くなり、墓に葬られた後も、同じように日が昇り、同じように人々の営みが続き、人々の苦しみが続いていました。そして、いつもと何も変わらない日曜日の朝が来ました。それがイエスさまの復活の日曜日でした。

イエスさまの復活は、皆が見て確かめられることのできるような出来事ではなかったのです。今日読まれた福音は、日曜日の朝早くに、マグダラのマリア、ペトロともうひとりの弟子がイエスさまの葬られた墓に行きましたが、イエスさまのご遺体がなくなっていた、それだけのことしか書かれていません。彼らの中には、イエスさまが復活されるという考えは一切見られません。彼らはイエスさまが死んでしまったとの絶望の淵に突き落とされたままでした。彼らにとってイエスさまの十字架の死は、自分たちが尊敬していた先生の活動の失敗、挫折でしかなかったからです。「神と民全体の前で、行いにも、言葉にも力ある預言者(ルカ24章19節)」であったイエスさまが、死を前にして全く無力になってしまわれた。そのイエスさまの屈辱、苦しみ、死は、弟子たちを闇の淵に突き落としてしまいました。イエスさまの遺体がなかったこと、墓が空になっていたという事実は、彼らに何も光を与えることはありません。「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、理解していなかったのである」と記され、彼らはこの闇の中にとどまったままなのです。

イエスさまは復活され生きておられます。しかし、弟子たちの目は遮られていて、その光を見ることができません。イエスさまは復活され、すでに弟子たちはイエスさまの光の中に納め取られているのにもかかわらず、その光が見えません。イエスさまが復活されたということは、歴史的事実として証明できるようなものではありません。むしろ、イエスさまの十字架の意味を理解することによってのみ、わたしたちの中にイエスさまの復活の意味が現れてくるといえるでしょう。イエスさまは十字架にかかられることによって、人間として堕ちることのできる最も底の底まで堕ち、闇の中でもがいているすべてのものとひとつとなられました。イエスさまは全人類のひとりとなられました。イエスさまはわたしとなられたのです。だからこれから先は、「イエスさまはわたしのところには来てくださらない」とか、「わたしと出会うために、わたしのどん底まで降りてきてくださらない」、「わたしの苦しみ、罪はわからない、わたしを救うことはできない」と誰もいうことはできないのです。なぜなら、誰もイエスさまが堕ちられたほどどん底まで堕ちることはできないからです。これがイエスさまの十字架なのです。十字架はイエスさまの愛の完全な啓示であり、イエスさまはわたしたちにご自分のすべてを明け渡し、イエスさまはわたしとひとつになられたなのです。イエスさまの復活とは、このイエスさまの完全な愛が、わたしたちに大接近し、光となってわたしたちをすっぽりと覆いつくしたということなのです。わたしたちはイエスさまの光とひとつになりました。わたしたちは、その光にこころの目を開かなければならないのです。

しかし、イエスさまが十字架の上で体験された、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」としかいうことしかできないのがわたしたちの現実です。イエスさまの光の中に納め取られているといっても、わたしたちのこころの目が遮られていて、そのことを知ることができないのです。わたしたちが体験する苦しみや痛みが、ますますイエスさまの光を見えなくさせているのです。その光を見ることができなくさせているものが、わたしたちの囚われ、弱さ、業(ごう)、罪、闇といっていいでしょう。しかし、にもかかわらず、そのようなわたしたちをイエスさまは復活の光で倦むことなく、絶えることなく、優しく、暖かく照らし続けておられるのです。そこに大きながギャップがあることも事実です。わたしたちがその真理を知っても知らなくても、信じても信じなくても、そのことを実感できても実感できなくても、一切関係なく、その永遠の光は遍く世界を照らし、わたしたちのこころから疑いと不信の闇を打ち払い、隅々にまで照らし、わたしたちの闇を浄める働きとして働いておられます。その働きはただ慈悲であって、わたしたちをその慈愛でもって養い育て、育んでおられます。

そのイエスさまの光は、遍く世界におよび、イエスさまのおられないとこはどこもなく、イエスさまともっとも遠いと思われているところに、イエスさまはもっとも近くにおられます。イエスさまがあまりにも近いので、わたしたちはイエスさまがともにあることを忘れてしまうほどに近くにおられるのです。イエスさまはわたしのそばを片時も離れることはない、これがイエスさまの復活なのです。わたしたちはイエスさまの永遠の光で照らされ、その光はわたしを覆いつくし、わたしは光となっているのです。だから、わたしたちは、あわれなみじめな自分をそのままにして、その真理に感嘆し、感謝することしかできないのです。わたしたちの弱さ、罪、みじめさはなくなりませんが、そのわたしを横においても、わたしたちはそのままでイエスさまの愛する子とされていることを味わうこと、これが復活祭でしょう。ですから、わたしたちは、「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています(Ⅰヨハネ4:16)」と申し上げるしかないのです。

受難の主日 勧めのことば

受難の主日 福音朗読 ルカ23章1~49節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日から聖週間が始まります。聖週間は、イエスさまのエルサレム入城を記念することから始まります。今日の受難の主日は、イエスさまのエルサレム入城によって、イエスさまの受難が始まったことを思い起こすために受難の朗読が行われます。今年はC年ですから、ルカ福音書から朗読が行われます。

 今年のルカ福音書の受難の個所の特徴は、基本的にはマルコ福音書に従っていますが、ルカ固有のイエスさまのことばや状況説明をかなり挿入したことです。マルコ福音書では、ピラトの尋問に対するイエスさまの答え「それは、あなたがいっていることです」と、十字架上の最後の言葉「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」だけで、寡黙なイエスさまの姿を描いています。それに対して、ルカの福音では、ピラトへの答えを残して、ルカ固有のイエスさまのことばを新たに挿入しています。

ルカ福音書は、旧約聖書を知らない人々に宛てて書かれています。ですから、マルコやマタイのように、旧約聖書の知識がある人たちであれば、イエスさまの悲痛とも絶望とも取られかねない「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という十字架上のイエスさまのことばであっても、詩編22からの祈りであると理解することができました。しかし、まったく旧約聖書を知らない人たちにとっては、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉は、福音宣教をしていくときに、創始者の言葉として、ルカはふさわしくないと考えたのではないでしょうか。ですから、ルカはマタイ、マルコが描かなかったイエスさまの内面の描こうと思ったのではないかと思います。

しかし、あのような絶句に満ちた苦悩の中で、イエスさまが自分を十字架に釘付けにするものに対して、人間的に温かなゆるしの感情をもっておられたとか、十字架上でも隣の強盗のことを気遣うことができるぐらい平和であったと考えるのは、少々無理があるように思います。イエスさまは神さまでしたから、それが可能であるといってしまえばそれまでですが、イエスさまはわたしたちと何も変わらない普通の人間として生きられたのではないでしょうか。ですからイエスさまが悲痛とも絶望ともいえる状況のなかで、こころの内面は平和を保っておられたと説明することは、神学的には可能かもしれませんが、生きた現実としての人間を見たとき、それが可能であるいうことを強調する必要はないと思います。おそらく初代教会では、自分たちが信じるイエスという方が、絶望のうちに死んでいかれたということは受け入れ難かったのではないか思います。

 人間の心情として、自分たちが信じる救い主は、自分が苦しいなかでも女性や子どもたちのためにこころを砕き、自分を十字架に掛ける死刑執行人のためにゆるしを願い、隣の強盗に声を掛け、父である神への信頼のうちに息絶えていく、少々美化された、スーパーヒーロー的な姿を描きたいというのも分からないではありません。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子どもたちのために泣け」。「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか知らないのです」。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。「父よ、わたしの霊をあなたにゆだねます」。ルカ特有のいつくしみぶかいイエスさまの姿は、わたしたちの胸に迫る思いがあります。しかし、その一方で、マルコが描くように、イエスさまがわたしたちと同じように、悩み苦しみ、疑い、絶望のうちに死んでいかれたという姿に何かほっとするのはどうしてでしょうか。わたしたち自身が苦しみの最中で、また死に際して、イエスさまのように、自分を苦しめたものにゆるしを願い、周りの人々に配慮し、優しい言葉をかけ、神さまへの大きな信頼のうちに死んでいけるか、その保証はどこにもないのではないでしょうか。もちろん、そのような最期を迎えられたら、神に感謝でしょう。しかし、それはわたしの手柄ではなく、ただイエスさまの働きでしょう。死に際にあたふたとして、死にたくないといって怒鳴り散らし、どこまでも自分にしがみつくのがわたしの現実ではないでしょうか。そのようなときに、ああ~イエスさまも苦しんで絶望のうちに亡くなっていかれたのだといわれたら、何と慰めになるでしょうか。イエスさまも立派な聖人君主ではなくて、わたしたちと同じだと思えるのです。イエスさまはわたしたちとともに、地獄の苦しみの淵まで堕ちてくださったのだということを知ることこそ、わたしたちにとって救いではないでしょうか。

 ヘブライ人への手紙のなかで次のような言葉が残されています。「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となられたのです(5:7~9)」。今日の第2朗読でも「キリストは神の身分でありながら、神と等しいものであることに固守しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じものになられました(フィリピ2:6)」といわれています。

今日のルカの受難を読むとき、大切なのはどのように死ぬかではなくて、どのようなものであっても死そのものが尊いということだと思います。これは、死を擁護しているわけでも、それがよいといっているのでもありません。生命体は必ず個体としての終わりを迎えます。人間は自分の個体を維持させることについてはエゴイスティックに見えますが、すべての生物は必ず死を迎えるのです。それはやはり個体としては痛みであり、苦しみであるということです。しかし、そのようにして、いのちはいのちを他の個体にバトンタッチするという利他的な行為をしているということではないでしょうか。今日は、改めてそのようなことを少し味わってみたいと思いました。

四旬節第5主日 勧めのことば

四旬節第5主日 福音朗読 ヨハネ8章1~11節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の聖書の箇所は、姦通の罪を犯した女の話です。朝早くから神殿の境内でイエスさまが教えておられると、律法学者とファリサイ人が姦通の現場で捕まえた女性をイエスさまのもとに引き立てて、真ん中に立たせます。姦通は悪いことに違いありませんし、申命記によれば男女ともに死罪となっています(22章)。この場合、男性はどうなったのかという疑問が残りますが、今日は罪というものをどのように捉えていくかということを考えてみたいと思います。

今日の場面に出てくる、律法学者やファリサイ人は、「この女は姦通をしているときに捕まりました。このような女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」としつこく問い続けます。彼らの目的は、イエスさまを訴える口実を見つけることでした。その彼らの前提は、無意識に自分たちは罪を犯さない、犯さないつもりという立場に立っているということです。その彼らに対してイエスさまは、「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」といい、罪を自分の問題として考えなさいといって問いを投げ返されました。多くの場合、わたしたちは自分のことを棚上げにして物事を考えます。また、わたしたちが罪を犯さないこと、罪を犯さなくなることが信仰生活での成長であるとも考えています。いずれにしても罪という問題は、どこまでいってもわたしたちに付きまといます。自分のことを棚上げにしているファリサイ人や律法学者は、一生懸命に律法を学び、罪を避け、どのようにすれば律法を正しく守れるか研究し、実践してきたユダヤ人たちです。いわゆる熱心なユダヤ教の信者さんたちです。

それでは、そもそも何のために律法を守る必要があるのでしょうか。律法を守って、正しい生活をし、罪を犯さないようにし、神さまに義と認められるためでした。それでは、神さまに義とされたいと思っているのはどうしてでしょうか。それはわたしの救いのためです。救われたいと思っているのは誰でしょうか。わたしです。どこまでいっても、義とされたいとか、救われたいとか思っているのはわたしなのです。神さまに義とされて、わたしが救われて、天国にいくことが目的なのです。考えてみると、こんな浅ましい、自分勝手な宗教があるでしょうか。それなら、自分の欲を満たしているのとあんまり変わりません。このようなわたしが、神さまから義とされることなどあるのでしょうか。どこまでいっても、自分のことしか考えていない愚かなわたしです。このような天国行きをまじめに教えている宗教があるなら、こんな自己中な宗教はありません。実はこれが人間の現実なのではないでしょうか。  

今日の第2朗読の「わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります(フィリピ3:9)」と訳されている箇所は、新しい共同訳聖書では「わたしには、律法による自分の義ではなく、キリストの真実(信仰)による義、その真実(信仰)に基づいて神から与えられる義があります」と訳されています。以前は、「わたしがイエスさまを信じる信仰によって、わたしの信仰に基づいて」義とされるのだと訳してきました。信じる主語はわたしなのです。つまり、わたしが律法をおこなうことによって義とされる旧約の時代は終わったけれど、今はわたしがキリストを信じるというわたしの義によって、イエスさまから義とされるのだと教えてきたのです。もしそうだとしたら、ユダヤ人が自分の力で律法をおこなうことによって自分の義を手に入れてきたように、今度はわたしがキリストを信じるというわたしの義によって義とされるとなっただけであって、いずれも人間のおこないによって義とされるのであって、わたしたちが義とされるのは、人間の自力の業によることになってしまいます。しかし、新しい訳では「イエスさまの真実(信仰)によって」義とされると正確に訳しました。

わたしたちは、イエスさまを信じるというわたしの信仰心が、わたしを義とするのだと考えてしまいます。人間が頑張って信じれば、人間はそれで義とされると教えてきたのです。ニュアンスは少し違いますが、カトリックもプロテスタントも同じです。カトリックは信仰に基づく愛の業によっても義とされると教えたのに対して、プロテスタントは信仰によってのみ義とされると教えました。いずれも人間の行為、人間の業や人間の信じるという業によって義とされると教えてきました。これなら、最終的には神さまが人間を義とされるといいながらも、あたかも人間の業が神さまの前に義とされる権利があるかのような発想になっていく危険性があります。これは、自分たちは律法を守って、自分に罪がないといって、姦淫の女に裁きを要求したファリサイ人、律法学者と変わりません。わたしたちは、わたしが頑張って信じたら、犠牲をして、善行をして、頑張って掟を守って、祈って、反省して、告解して、教会にいったら、そのような自分は正義であるので、義とされると思っているのです。これなら、まったくの勘違いです。わたしたちが義とされるのは、イエスさまの真実、つまりイエスさまの十字架上の贖い、死によるのであって、わたしのいかなる業によるのではないのです。わたしたちは、イエスさまの十字架上の贖い、死によって義とされるという真実を信じるだけなのです。わたしのなかには、自力で義とされるようなものは何もないのです。

そもそもわたしたちが罪を犯さないとしたら、それはたまたま偶然であって、わたしたちの努力の結果でも信仰深さゆえでもないのです。わたしたちは状況が変わってしまえば、どのようなことでもしてしまうような不安定なものでしかないのです。わたしは人を殺めることなどありませんといっても、一度戦争が起こってしまえば、殺す側にも殺される側にもなってしまいます。状況が変われば、盗む側にでも盗まれる側にでもなるのです。わたしたちはたまたま日本に生まれただけであって、ロシアやウクライナに生まれていたらどうなっていたかわからないのです。親鸞は、「わがこころのよくて、殺さぬにはあらず。また害せじと思うとも、百人千人を殺すこともあるべし」といい、人間の不安定な現実を指摘しています。もしわたしたちが罪を犯さないとしたら、それはわたしが善人であるからでも、熱心な信者であるからではなく、まして司祭であるからでもないのです。たまたま、犯さないでいただけに過ぎないのです。状況が変われば、何をしてしまうかわからないのがこのわたしです。イエスさまは、この人間の不安定さを他の誰よりもご存じでした。だから、イエスさまはこの女を罪に定めようとはされません。「わたしもあなたを罪に定めない。いきなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」といわれます。人を断罪し、罪に定めることは簡単です。でも、誰がそれをできるというのでしょうか。問題は罪があるか、ないかではありません。わたしたちが何であっても何でなくても、わたしたちはイエスさまの真実(信仰)によって義とされているのです。その救いの真実は、すべての人に及んでいます。わたしたちはイエスさまの十字架の贖いによって、すでに贖われたものなのです。今日は、わたしの罪という現実を通して、わたしたちに呼びかけておられるイエスさまの真実を味わっていきたいと思います。

四旬節第4主日 勧めのことば

四旬節第4主日 福音朗読 ルカ15章1~3節、11節~32節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は「放蕩息子」のたとえ話です。ルカの15章は、「見失った羊」のたとえ、「なくした銀貨」のたとえ、そして「放蕩息子」のたとえの3つで構成されています。聖書のなかに出てくる多くのたとえ話は、すべて神の国のたとえです。つまり、神さまがどのような方であるかを、たとえでわたしたちに伝えようとしています。ですから、たとえ話の主語はいつも神さま、イエスさまです。人間、わたしたちではありません。ですから、「見失った羊」の主語は羊飼い、「なくした銀貨」の主語は女となります。「放蕩息子」のたとえというタイトルは誰がつけたのか分かりませんが、観点が息子の方に偏っています。正しくは、「見失った息子のたとえ」となるのが正しいといえます。より主語を補って正確にいうなら、「見失った息子を探し求めるいつくしみ深い父親のたとえ」となります。いつも、わたしたちは間違います。迷子になった羊、どこかにいった銀貨、見失った息子を主語にして考えてしまいます。確かに、羊が迷子になっていること、銀貨がなくなったこと、息子が放蕩のかぎりを尽くしていることが問題といえば、問題かもしれません。しかし、そこに焦点があるのではありません。

羊が勝手に出て行ったのか、迷子になったのかもしれません。しかし、羊飼いは自分が見失ったといいます。銀貨が勝手に出て行くわけはありませんから、女は自分が銀貨をなくしたといいます。放蕩のかぎりを尽くしたのは息子ですが、お父さんは息子を咎めたり、怒ったりしません。息子は自分のせいで、こうなってしまったとお父さんは自分の責任を感じているのです。わたしたちはいつも間違って、勝手に出て行った羊が悪い、なくなった銀貨が悪い、出て行った息子が悪いと考えます。そして、放蕩のかぎりを尽くして、我に立ち帰った息子が反省して帰ってきたから、お父さんは寛大に息子を受け入れたと考えます。そして、その弟を受け入れようとしなかった兄と自分を比べて、自分は兄だ、いや弟だと議論します。何という愚かな、何という勘違いでしょう。これでは、イエスさまの福音のメッセージが伝わりません。話を人間のレベルにまで引き下げて、「過ちては則ち改むるに憚ることなかれ」と教えた論語と同じ話にしてしまいます。これなら儒教であって、キリスト教ではないのです。どこからこのような勘違いが生まれたのでしょうか。

わたしたちは、神の国のたとえで誰が主語であるかを、いつも見誤ります。主語はいつも神さま、イエスさまなのです。わたしたち人間ではないのです。実は、なくした銀貨のたとえが一番よく、そのことを伝えてくれているのかもしれません。羊や人間は動物ですから、動き回ります。しかし、銀貨は動けませんから、なくしたのは銀貨のせいではなく、女の責任です。だから、女は家中をくまなく掃いて、念を入れて探し回ります。ですから、探し回るのは神さま、イエスさまなのです。放蕩息子の話は気をつけて読まないと、放蕩のかぎりを尽くした息子が、あるときに我に帰って自分の意志で帰ってきた。それを、お父さんは寛大なこころで受け入れたのだと説明して、神さまのゆるしのために人間の悔い改めの必要性を説く誤った教えとして解釈してしまいます。しかし、放蕩息子の話は、ゆるしの条件として罪人の悔い改めの大切さを説く話ではないのです。イエスさまは、そんなことを伝えたいのではないのです。教会もそんなことは教えていません。ゆるしは、いつも一方的な神さまの恵みです。聖年の免償も正しく理解しないとそのような話になってしまいます。

銀貨のたとえを思い出しましょう。銀貨は自分では動けません。だから、女は家中を掃いて銀貨を探し回ります。銀貨は自分を探し回って、見つけてもらうのを待つしかないのです。わたしたち人間は、まさに泥沼に足を取られて沈んでいくしかない銀貨なのです。迷子になって帰って来られない羊なのです。放蕩のかぎりを尽くしていることに、自分の力で気づいて帰って来られるなら、問題はないでしょう。しかし、わたしたちはそれ程、まともではないのです。もしそうなら、これほど世界は大変なことにはなっていないでしょう。

そうではなく、如何なるわたしであろうとも、見捨てたまわず救い取ってやまないイエスさまがすでにおられるということが大切なのです。もし、わたしたちがお父さんの家に立ち帰ろうと思えるとしたら、悔い改めることができるとしたら、それは、わたしたちにお父さんの子であるという関わりがすでに与えられているからです。子であるということは、お父さんあっての存在です。ですから、子は本能的にお父さんから出ますが、本来的にお父さんのもとに帰ろうとします。それは、お父さんが親として、先ず子に関わっているからです。もし、わたしたちが悔い改められるとしたら、それはわたしたちが悔い改めるという前に、父と子という関わりが与えられているからに他なりません。お父さんがお兄さんに「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる」といったように、お父さんは、弟にも兄にもずっと親として関わっておられたのです。わたしたちがお父さんのもとを迷い出ているときも、子であるイエスさまはわたしたちとともにおられ、わたしたちとともに彷徨っておられたのです。

お兄さんは、外見上お父さんの家に留まっていました。放蕩生活をするでもなく、お父さんの家で真面目に仕えて働いていました。しかし、こころはお父さんのところにはなかったのです。勝手なことをしている弟に対する怒りや嫉妬、またそれをそのままにしているお父さんへの不満で、こころはお父さんのもとにはありませんでした。ですから、お父さんの近くにはいましたが、こころはお父さんのところから迷い出ていたのです。お父さんのところから彷徨いでているのは、弟だけではなく、兄もそうだったのです。ですから、お父さんは息子たちをこのようにしてしまったのは、自分のせいだといって自分を責めておられるのです。責任を感じておられるのです。そして、そのような息子たちを探し求めておられるのです。

わたしたちはそのようなお父さんがおられることに気づかされるとき、つまりそのような神さまがともにおられることに気づくとき、わたしたちは子として我に返り、子としての本来の姿に立ち返り、子として父のもとに帰ろうとするのです。それを悔い改めと呼んでいるだけであって、悔い改めることができるのはわたしたちの力とか努力によるものではないのです。ただ父と子という関わりがすでに与えられており、子が父のもとに帰ろうとするのは子としての本来のあり方、動きに他ならないのです。その子としての我に返る働きを与えているのは、父と子との関わりであり、根源的には父の働きなのです。自分の力で帰るのだとか、熱心であるから悔い改められるのではないのです。そんなこころを起こさせるようなものは、わたしのなかに微塵もないのです。もし、悔い改められるということがあるとすれば、それは先ず神さまがわたしたちを探し求めておられるからであって、わたしの努力や糾明によるのではありません。そこには父である神が働いておら、イエスさまがわたしとともに彷徨っておられるからなのです。

四旬節第3主日 勧めのことば

四旬節第3主日 福音朗読 ルカ13章1~9節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の箇所は、ルカだけに見られる固有の箇所となっています。そこでは、二つの出来事が述べられています。ひとつはピラトが、ユダヤ人が生贄を捧げるために集まっていたとき、ガリラヤ人を殺してその血を混ぜた、つまりガリラヤ人を見せしめのために血祭りに上げたこと、もうひとつは、シロアムの塔の改修工事中に塔が壊れて犠牲者が出たという話です。いずれも歴史的に確認されてはいません。ただ、当時の一般的なユダヤ教の考え方で、この世に起こる災害で被災する人々は、災難を受けなかった人より罪深かったからだと考えるのが一般的でした。それで、災難を受けなかった人は、自分はあの人たちのような罪人でなくてよかった安心するのが一般的であったようです。それはユダヤ教に限らず、原因があるからそれに等しい結果があると考える因果応報、自業自得という考え方が人間のなかに広がっているということではないでしょうか。人間は皆弱いので、自分に災難が降りかかってくると、自分の罪に対して罰が当たったのだとか、先祖の罪業の報いが自分に及んでいるのだとたやすく考えます。それは、人間は誰しも完璧ではないし、人にはいえないようなことを抱えていたり、思ったりやったりしているからでしょう。向こう脛に傷があるということでしょうか。わたしたちは誰も、神さまの前に大手を振って立つことができるものはいません。それで、因果応報、自業自得という考え方を容易に受け入れてしまうということになるのだと思います。それでは、この世界は本当にそのようになっているのでしょうか。

今日の福音で、イエスさまは「彼らがそのような災難に遭ったのは、他の人々よりも罪深い者であったと思うのか」と問われています。そして、「決してそうではない」といい、短絡的な因果応報という考え方を否定されました。そして、わたしたちの身に起こってくることは、わたしたち一人ひとりへの問いとなっているといわれました。ですから、罪深いから、不幸になるのではないし、善人だから、よい報いがあって幸せになるというのでもない。その反対に、よい人間なのに、不幸になり、悪い人間なのに、のさばるということでもないということなのです。つまり、わたしたちが考えている善悪、幸不幸はすべて人間わたしの判断による相対的なものであって、世界の中の事象はいわゆる教訓話のように起こるのではないということなのです。何も悪いことをしていないのに、どうしてこのように災難に遭うのかという問いも、悪いものがなぜ罰せられることもなくのうのうとしているのかという問いも、そもそも成り立たないし、頑張って努力したので報われたのだとか、頑張らなかったので駄目なんだという考え方も、一面ではそうかもしれないけれど、必ずしもその通りではないということなのです。つまり、人間の考える善悪、快不快によって、この世界の事象は起こるのではないし、世界はそのように理解されえないということなのです。もっと大きな視点が必要なのだということなのです。

それでは、現実問題として、この地上で起こるいろいろな事象をどのように考えていけばいいのでしょうか。この宇宙の生きとし生けるものは、すべてお互いに関わり合って構成さえ、生かされています。通常、わたしたちはわたしの自分の小さな言動や何かが、よもや世界の動きに関係することはないと思って生きています。今でこそSNSやメディアの進化により、地球の裏側で起こっているウクライナの戦争をリアルタイムで情報を手に入れることができます。しかし、100年、200年前であれば、そのことを知る由もなく、かなり時間が経ってから知る、あるいは他人事で終わってしまうというのが普通でした。その一方で、日本のことわざに「風が吹けば桶屋が儲かる」というものがありますが、それは、ある事象の発生により、一見すると全く関係がないと思われる場所・物事に影響が及ぶたとえとしていわれています。現在の量子力学で、バタフライ効果ということばがあります。蝶々の小さな羽ばたき、そのわずかな変化が、その後の生態系が大きく異なってしまうほど大きな影響を及ぼし、予想もしていなかったような大きな事象につながるということを意味しています。「風が吹けば桶屋が儲かる」といわれてきたことわざが、量子力学的に実証されたということでもあるのです。実はこの量子力学の考えは、この世界、この宇宙は決して夫々のものがバラバラに無関係に、別個に存在しているのではなく、お互いが関わり合って、呼応し合って、響き合って存在している関係存在であることをいおうとしているのだということです。

そのことを、パウロは「あなたがたはキリストの体であり、また、一人ひとりはその部分です(Ⅱコリ12:27)」といいました。「神は、ご自分の望みのままに、体に一つひとつの部分をおかれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるのでしょうか…目が手に向かって『お前はいらない』とはいえず、また、頭が足に向かって『お前たちはいらない』ともいえません…むしろ各部分が互いに配慮し合っています。ひとつの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、ひとつの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです(同」12:18~26)」といいます。人間の体は夫々の部分によって成り立っていますが、部分だけでは人間ではありません。体のたとえを用いて、人間はあらゆる関りのうちに成り立っている関係存在であるということがいわれているのです。このことは、わたしたち人間のことだけでなく、全人類、自然、地球、全宇宙にまでその関りは及んでいきます。この世界、この宇宙はわたしと無関係ではなく、わたしもこの世界、この宇宙と無関係ではありません。夫々が関わり合って、響き合って、わたしを、この世界を、宇宙を、いのちを形作っているのです。それがいのちの本来のあり方なのです。これがイエスさまの視点であるといえるでしょう。

古来、日本人は「わたしとこの世界はひとつである」という世界観、生命観を当たり前のこととして生きてきました。しかし、現代のわたしたちの価値観を形作っているものは、ギリシャ、ローマ、ヨーロッパの価値観であり、それは目の前にある実体を細かく切り分け、細分化することによって世界を、生命を理解しようとするものです。それは端的にいうと、自分と相手の関わりを区別し、相手がわたしにとって有用な存在であるかどうかによって、相手の価値を決めていく世界観です。それは「目が手に向かって『お前はいらない』といい、また、頭が足に向かって『お前たちはいらない』という」ような価値観、つまり、わたしと他者、世界は夫々別々で、別個に独自で存在していて、お互いに関係がない実体であるという考え方が根底にあるのです。そして、相手が、わたしの得になるかならないかでその存在価値が決まっていくような価値観です。このような価値観、世界観で、今の世界は覆いつくされているのです。

わたしはこの世界なしには存在することはできず、わたしはわたしひとりだけでは存在することはできない存在なのです。世界がなければわたしはいない、わたしがいなければ世界はない。だれひとり、何ひとつかけても、この世界は存在しえないほどの深い相互関係、これがいのちのありさまであり、イエスさまはこのいのちの感覚を宣べ伝えられたのです。相手がわたしにとって役に立つか役に立たないかという考え方、そのような考え方の行き着く先は、戦争、分裂、差別、分断です。今、わたしたちは聖書のことばに立ち返って、本来のいのちがもっているあり方に立ち帰るように呼びかけられているのではないでしょうか。イエスさまの「いっておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」というのは、脅しではなく、わたしたちが本来のいのちのあり方へと回帰するようにとの呼びかけに他ならないのす。そして、そのいのちの感覚にわたしたちが立ち帰るとき、この世界に起こるすべてのことは、もはや他人事ではなく自分事となっていくのです。指先を怪我をすれば、わたしのすべてが痛むように、イエスさまにとって、人々の苦しみはご自分の苦しみ、世界の痛みはご自分の痛みなのです。

四旬節第2主日 勧めのことば

四旬節第2主日 福音朗読 ルカ9章28~36節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音のなかで、イエスさまは栄光に輝く姿を弟子たちに現されます。栄光とは、一般には人が成功・勝利などによって他人から得る好意的な評価のことを意味します。弟子たちにとってのイエスさまの栄光は、エルサレムで勝利を治め、ユダヤ人国民から好ましい評価を得て、英雄として褒めたたえられることです。いわゆる世間で成功を収めることと考えられていました。しかし、栄光に輝くイエスさまが、モーセとエリヤと話し合っておられたことは、イエスさまがエルサレムで遂げようとしている“最期”についてでした。エルサレムでの最期とは、イエスさまが全人類のためのご自分のいのちを十字架上で与え、死んで新しいいのちへと移っていかれることです。これが弟子たちにとって、イエスさまの栄光であるとは到底考えられなかったでしょう。

ここで使われている最期ということばは、旧約聖書の出エジプトを表す“エクソドス”、「脱出」ということばです。このエクソドスということばは、過越しとも訳されています。つまり、ある状態から別の新しい状態への移行を表しています。過越しとは、イスラエルの民にとっては、奴隷状態のエジプトから約束の地へ脱出していくことであり、神の力によってなされた出エジプト、過越しという出来事です。復活祭はパスカといわれ、このパスカは過越しのことであり、エジプトからの脱出を記念する過越祭に由来します。復活祭はイエスさまが全人類の救いのために、十字架の死を通して、新しいいのちに移っていかれたこと、パスカとして記念します。そして、この過越し、脱出には必ず困難、痛みを伴います。それは、ある種類の生き物が成長していくときに脱皮をしていくプロセスと似ています。脱皮はある種の動物にみられ、自分の体が成長していくにつれて、その外皮がまとまって剥がれることをいいます。つまり、より成長するために、いのちが開花していくために、今までの古い自分を脱ぎ捨てていくことです。これは節足動物、爬虫類、両生類だけに見られる現象であるだけではなく、すべての生きとし生けるもののいのちの営みでもあるのです。すべての生きとし生けるものは、自分のなかで絶えず死と再生を繰り返しています。わたしたち人間も、ほぼ1年ですべての細胞が入れ替わるといわれています。古くなった細胞は、排泄物として外に出されます。つまり、わたしたちが生きるということは、絶えまない死と再生を繰り返していくことに他なりません。そして人間にとって、その一番大きな脱出が死という苦しみを伴った現象なのです。

大自然のいのちの営みを現わす現象に、「倒木更新」というものがあります。原生林では木が切られることがありませんから、何百年も生き続けた巨木は枯れて倒れていきます。そうすると枯れて倒れた木は次第に腐敗してゆき、その木の表面に苔類が生え始めます。そこに木の種子が落ちて、木の子どもたちが育ち始めます。倒れた木の上は日当たりもよく、雑菌もいませんから、枯れた木を養分としてすくすくと育っていきます。これが自然界の倒木更新といわれる現象です。「親は子のために倒れる」、そして年月が経ち子どもたちは大きくなり、親はその養分となって消滅していきます。しかし親は子のいのちとなって生き続けます。親は子のために倒れ、子は親を忘れない。大自然はこのようにして、いのちを繋いでいくために、古いものは新しいものに場を譲っていくことをしていきます。これを人間以外のいのちは、自然なこととしておこなっています。イエスさまのエルサレムでの最後、エクソドスは、まさにそのような大きないのちの営みそのものだったのではないでしょうか。イエスさまの栄光とは、自分が注目されて称賛を受けて光輝くものとなることではなく、「子のために親は倒れる」こと、人類のために自分が倒れること、それこそがイエスさまの栄光であり、イエスさまにとってもっともイエスさまらしい生き方であったのでしょう。それがイエスさまの栄光です。

しかし、人類はその歴史が始まって以来、自分の手に力、権力、富、名声を掌握することが、人間の幸福、生きる意味、栄光であると錯覚して生きてきました。その結果が、今日もたらされている競争、戦争であり、富の不均衡、民族間の格差、差別、自然破壊なのです。そのあわれな人類に、イエスさまはいのちをかけて、大自然としてのいのちの当たり前の姿を示してくださったのです。イエスさまの生き方は特別なものではありません。わたしたち生きとし生けるものが本来的にもっているものなのです。すべてのいのちは生かされるためにあり、わたしのいのちを次のいのちに自分の場を譲っていくことで、わたしのいのちはもっと大きないのちの中に自分を解放していくことによって、そのいのちを永遠に繋いでいくのです。来世に永遠のいのちがあるとか、そのいのちがどこか他所にあるのではなく、いのちそのものが永遠なのです。植物、動物はそのことを当たり前のこととしてやっています。その当たり前のことができないのが人間なのです。イエスさまから見れば、人間は他の動物や植物が当たり前としておこなっていることができない、畜生以下のあわれな生き物、最低の霊長類なのです。人間にだけに魂があるなどと誰が教えたのでしょうか。そのあわれな人間に、すべてのいのちとの共生を思い出させて、いのち本来のあり方をご自分の生き様、死に様をもって示し、わたしたちをいのち本来の姿に呼び戻してくださる、それがイエスさまの過越し、エクソドスなのです。

「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしの『内なる人』は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです(Ⅱコリ4:16~18)」

わたしたちは病気になる、歳をとることを衰えるとか老化するとしか捉えることができません。確かにわたしたちの外なる人はだんだん、衰え、弱っていくかもしれません。しかし、わたしたちの外なる人が衰えていくことによって、わたしたちの内なる人は、日々新たにされていくのです。人間として、いのちとして本来の姿になっていくのです。わたしたちは、弱ること、歳をとることを、何かができなくなることを否定的に捉えがちですが、実はそうではなく、それこそが内なる人が成長していくことに他ならないということなのではないでしょうか。わたしたちは弱くなること、できなくなること、貧しくなることによって、確かにわたしたちの「内なる人」は成長していくのです。そして、死という事実を通して、わたしたちのいのちを永遠のいのちという大きないのちのうちに解放していくのです。これこそがまことの成長であり、わたしたちの過越し、いのちを生きるということに他ならないのです。

四旬節第1主日 勧めのことば

四旬節第1主日 福音朗読 ルカ4章1~13節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

四旬節に入りました。今日の福音は、イエスさまの荒れ野での40日間の滞在の箇所が朗読されます。ルカはイエスさまがヨルダン川で洗礼を受けて、聖霊に満たされて、聖霊によって荒れ野を引き回され、誘惑を受けられたと書いています。イエスさまを荒れ野に導き、誘惑を受けるという出来事の主導権を取っておられるのは聖霊であることがわかります。そこで、今日は聖霊に満たされるということ、聖霊に導かれるということが何であるかをみてみたいと思います。

まず誘惑とは何でしょうか。わたしたち人間は本能的に苦しいことや辛いことを避けようとします。それは人間として当たり前のことだと思います。イエスさまも弟子たちに主の祈りをお与えになったとき、「わたしたちを誘惑におちいらせないでください」といわれました。また、ゲッセマネの祈りのときにも、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と2度も弟子たちに話しておられます。今日の箇所では、「神の子なら…」ということばが2度出てきます。ここでの誘惑は、あなたは神の子なのだから、何でも自由に自分の思い通りにできるはずだ、それなら…しなさいという形をとって表れていることがわかります。つまり、イエスさまは神の子ですから、自分の力、能力を自由に使うことができる、だからその力を自分のために思い通りに使いなさいというのが誘惑であるということがわかります。わたしたちは、自分の思いが叶うことが人間の幸せであり、目的であるというふうに考えています。だから、自分の思いが叶うようにすべてを動かそうとします。そして、それが悪いことであれば少し遠慮がちに、よいことであれば大手を振ってそれを叶えさせようとします。しかし、そこには善悪の違いはあっても、結局は自分の思いを叶えようとする自己中心という問題が潜んでいるのです。

宗教の世界では、自己放棄や利他の奉仕をするとか、修行や犠牲をすることが大切にされていますが、よくよく考えてみると、一体それを何のためにしているのかが問われてきます。それが人々のため、世界のためといいながらも、自分が救われたいとか、自分が認められたいとか、自分の主義主張を通したいとか、よいことをやっている自分に納得したいとか、結局わたしたちは何をするにしても、わたしがしているという限り、自分のためにしているというところから離れることはできません。それがどれほどすばらしい利他の行いであるといっても、わたしたちは、自分が目的になるところから完全に自由になることはできないのです。それでもしていかなければならないのですが、おそらく、そのことをもっとも痛感しておられたのはイエスさまご自身でしょう。わたしたちは信仰云々という前に、徹底した自己認識から出発しなければならないのです。その自分の姿を見つめるということがなければ、それこそイエスさまがいわれた愚かもの、偽善者になってしまいます。

それならば、どのようにしてわたしたちはその自己中心性というあり方から解放されていくのでしょうか。それが今日の福音でいわれている、「聖霊に満たされ、聖霊に引き回され、聖霊に導かれる」ことによってであるといえるでしょう。それでは、聖霊に満たされるということはどういうことでしょうか。聖霊に満たされるということは、特別な神秘体験をすることではありません。イエスさまは、洗礼を受けられたときに聖霊に満たされるという体験をされました。イエスさまは神さまですから、今までなかった聖霊に満たされたということではなく、自分が聖霊、いのちに満たされているということを体験されたのだといえるでしょう。それはわたしたちも同じことだと思います。わたしたちもすでに聖霊に満たされているのです。洗礼によって聖霊に満たされるのではなく、イエスさまと同じように、わたしたちがこの世界においていのちをいただいていることが、わたしたちが聖霊に満たされているということに他ならないのです。洗礼の有無ではありません。洗礼を受けていない人は聖霊に満たされていないとでもいうのでしょうか。聖霊は、すべての生きとし生けるものを活かす神の霊、神のいのちです。

そして、その聖霊がわたしたちを満たすとき、霊はわたしたちを荒れ野へと導きます。荒れ野はわたしがわたしと出会うところ、わたしとイエスさまと出会いの場、イエスさまの思いを知らされるところです。と同時に、荒れ野はわたしたちの力が及ばないところです。荒れ野は、わたしの思いが何ひとつ叶わないところなのです。荒れ野では、わたしたちの日常生活の常識がすべて奪い取られ、わたしたちの能力、社会的な資格、タイトル、役割などがすべて奪い去られるところです。荒れ野では、わたしは社長だとか、先生だとか、司祭だとか、シスターだとか、司教だとか、熱心なキリスト者だということが何も通用しないところです。荒れ野は、すべてを奪い取られたわたし、無一物のわたし、父母未生以前のわたしがあらわになるところです。それでは、その荒れ野はどこにあるのでしょうか。わたしたちは、荒れ野を探して、黙想の家や修道院、巡礼にいかなければならないのでしょうか。そうではありません。わたしたちの荒れ野、わたしたちの思いの叶わないところ、それはわたしたちの生活の場、わたしたちの人生です。わたしたちの人生は、わたしたちの思い通りにはなりません。しかし、多くの人がそこで自分の思いを叶えようと権力、力、能力、名声、名誉などにしがみつき、何が何でも自分の思いを通そうとします。それが誘惑の正体です。あきらかに悪いことであれば別ですが、たとえそれがどんなに社会的に、宗教的によいことであっても、自分の思いを通そうとするのであれば、わたしたちはイエスさまに従っているのではないのです。聖霊に導かれているのでもありません。それは、ただ自分の思い、我欲に従っていることに他なりません。わたしたちは、自分の思い、我欲を過ぎ越していかなければなりません。

イエスさまの生涯は、聖霊に導かれ、聖霊に従うことでした。イエスさまは聖霊に導かれて、荒れ野へ、ガリラヤへ、エルサレムへ、そしてカルワリオへと過ぎ越していかれました。イエスさまは、ご自身で自分の行き先を決められません。ただ霊に導かれて、その時々の状況を受け入れて、過ぎ越していかれました。その終着駅が、たとえイエスさまが望まなかったカルワリオであったとしてもです。イエスさまは、そのときの状況、人との関わり、そして出来事に、イエスさまはご自身を与えていかれました。これが聖霊に導かれるということなのです。自分の思いを通すのではなく、内なる聖霊の導き、つまりその時々の出来事や状況のなかに、自分の歩まなければならない道を見出していかれたのです。わたしたちは人生のなかで自分の思いをがむしゃらに通そうとするとき、必ず道を見誤ります。しかし、わたしの人生のなかでわたしの身に起こってくる出来事や状況は、わたしに必要なのでイエスさまがわたしに起こしておられるのです。ですから、わたしたちがその出来事に自分を与えていくとき、イエスさまの望みに従っていくことになります。これはわたしたちがよくいう“お任せ”ではなく、単なる諦めや厭世主義でもありません。むしろ、自分の人生を積極的に選んでいくことに他なりません。それが、わたしが人生を生きるということなのです。わたしたちの人生が荒れ野であり、修行の場、過越しの場なのです。

そして、そこでわたしたちはイエスさまと出会います。四旬節だからといって、特別の犠牲や苦行、信心をする必要がないのです。わたしたちは日々の生活、人生を荒れ野としていかなければなりません。そのために、わたしたちに働きかけ、わたしたちの中でわたしを導いておられる聖霊と親しくならなければなりません。この聖霊は生涯イエスさまを導き、イエスさまを生かした愛の息吹です。その同じ霊がわたしたちの中に現存しておられるのです。聖霊は、わたしたちにイエスさまの思いを知らせ、人生、日々の荒れ野を歩んでいく小道を教えてくださいます。これこそ、聖霊に導かれること、回心の歩み、過越しの歩みなのです。

年間第8主日 勧めのことば

年間第8主日 福音朗読 ルカ6章39~45節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音では、自己認識という難しい問題を取り上げています。「善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す」といわれています。また「悪い実を結ぶよい木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない」ともいわれます。人の行動の結果から、原因が分かるということがいわれているのでしょう。しかし、この一連の並行箇所はマルコにはなく、解釈の難しい箇所です。

わたしたちは感謝の祭儀のなかで、「思い、ことば、行い、怠りによってたびたび罪を犯しました」と告白します。それは、思い、ことば、行いという夫々の罪があるということだけではなく、思い、ことば、行いは繋がっているということをいっているのだと思います。わたしたちの心のなかに先ず思いがあって、それがことばとして結集し、それが行動となって表れてくるということなのでしょう。例えば、わたしのなかにある人への怒り、憎しみの感情があって、それがことばとなり、それが行動となって表れるということでしょう。このことは良い実を結ぶたとえから考えると、わりと簡単に理解することができると思います。しかし、ことはそんなに単純ではないように思われます。

わたしたちは「どうしてあんなことをしてしまったのだろう」、「どうしてあんなことをいってしまったのだろう」ということも体験します。つまり、こころのなかで考えていることとまったく違うことをやってしまったり、思ってもいないことばが口から出てきたりします。そもそも、わたしたちはこころというものが何なのかよくわかっていないのです。ですから、必ずしも良いものを入れたこころの倉から良いものが出てくる、悪いものを入れたこころの倉から悪いものが出てくるんだという単純な話、単純な教えではすべてを説明することができないのです。どういうことでしょうか。わたしたちは自分のこころというものがあると考えて、わたしのこころを自分でコントロールできると考えていますが、果たしてそうでしょうか。

「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の丸太に気づかないのか」といわれます。これは、相手のことはよくわかっても、自分を正しく知るということは難しいということでしょう。わたしたちは、相手のことをわかったつもりになりますが、自分のことはわかっていないということではないでしょうか。わたしたちは、怒ってはいけないと思っていても腹が立ってきますし、憎んではいけないと思っていても憎しみのこころが湧き上がってきます。わたしのこころがわたしのものであれば、わたしは100%、自分のこころをコントロールできるはずです。しかし、わたしたちは自分のこころを自分の思うようにすることはできません。わたしたちは自分のことばも行動もコントロールできないように、こころもコントロールできないのではないでしょうか。キリスト教では人間の感覚とこころを区別して、理性でコントロールしないさいといわれます。しかし、わたしたちが感じることとわたしたちのこころをそんなに簡単に区別することはできないのです。そもそも、わたしが自分のことさえよくわからないのに、どうして自分の目から丸太を取り除くことができるのでしょうか。修行を積んだら、自分の目のなかの丸太に気づいて取り除いて、先生のようになれるとでもいうのでしょうか。

パウロは「わたしの内には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうとする意志はありますが、それが実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っているからです(ロマ7:18~19)」といい、わたしたちの内なる罪、悪ということを問題にしています。ですからわたしたちは、「善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す」と決めつけることはできないのではないかと思います。わたしたちのこころは、刻一刻と変化していきます。外ずらや体裁では、怒ってはいけないとわかっていても怒りの心がわいてくる、憎んではいけないと教えられても憎しみの心がわいてくる、信じなければいけないといわれて信じているような顔をしていても、内側は疑いと不信の嵐が吹きまくっています。わたしたちは、自分でどんなに努めても、自分のこころを常に正しく保つことなどできないのです。わたしたちは、自分の意志では、自分のこころをどうすることも出来ないのです。パウロは「わたしは、なんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰がわたしを救ってくれるのでしょう(7:24)」と、うめきの叫びをあげます。わたしたちは、どんなに努力しても頑張っても、自分の目のなかの丸太、第2朗読でいわわれる「死の棘」を自分で取り除くことなどできないのです。しかし、パウロは「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします(7:25)」と感嘆の叫びをあげます。イエスさまだけが、わたしたちを救ってくださる、イエスさまだけがわたしの目から丸太を、死の棘を取り除いてくださる、イエスさまだけがわたしを信じるものにしてくださるということでしょう。「十分に修行を積めば」と訳されていることばは、「神があなたを完全にする」という意味であり、人間が修行をするのではなく、神が人間に働きかけてくださることを表しているのです。人間ではなく、神の働きなのです。

先週の日曜日の福音で、神さまは「恩を知らない者にも悪人にも、情け深い」あわれみ深い方であることが知らされました。わたしたちはそのような神さまの完全性、無条件のあわれみに触れるとき、自分ではどうすることもできない惨めな自分の姿が見えてきます。しかし、神さまはそのわたしを否定したり咎めたりするのではなく、大きな憐れみと慈しみの光でわたしたちを包んでくださいます。ですから、わたしたちはそのイエスさまの光に触れるとき、神さまの慈しみと憐れみを発見します。同時に、自分の姿が浮き彫りにされていきます。その姿はわたしたちが思っていたような自分ではなく、むしろ惨めすぎるわたしです。イエスさまという光に照らされて、わたしたちは自分の影、自分の闇、自分の汚れを発見します。わたしたちは自分の欠点や罪を正面から指摘されたら腹が立つでしょう。しかしそのことを一切咎めず、裁くこともなく、わたしを包み込んでくださる慈しみと憐れみの神さまが知らされてくるのです。わたしを優しく包み込んでくれるものの前では、ただ涙するしかない惨めなわたしを素直に認めることができるのではないでしょうか。イエスさまの眼差し、イエスさまの光だけが真実のわたしを知らせてくれます。その真実のわたしは、惨めすぎるわたしかもしれません。しかし、イエスさまのわたしたちに注がれるいつくしみの眼差しのもとでは、もはや罪の大小も欠点も問題になりません。わたしを貫き、あたたかく包み込むイエスさまの眼差しは、わたしたちに己の泥を見せつけます。しかし、わたしたちが自分を知る、自己認識はそれ自体が目的なのではありません。あくまでも神さまに向かっていくために、わたしたちが一体何もので、自分がどのようなものであるかが知らされ、どのように神さまと関わっていかなければならないかを知らせていただくためなのです。

洗礼を受けて漠然とイエスさまと関わっている人たちが、イエスさまの光によって最初に知らされるのは、わたしたちの罪、惨めさ、貧しさです。そして、わたしたちは人のおが屑を取ることができるようなものではなく、先ずは自分の丸太を取り除かなければならないもの、しかし、自分で取り除くことはできず、取り除いていただかなければならないものであることが知らされていきます。そのような自己認識は、正しい神認識によって起こってきたものであり、神さまは慈しみと憐れみの神として、ゆるしと癒しの神として体験されます。そして、その神さまは、おが屑や丸太の区別なく、すべてを焼き尽くして、ひとつの炎と化してしまう愛の生ける炎そのものであることが知らされていくのです。

年間第7主日 勧めのことば

年間第7主日 福音朗読 ルカ6章27~38節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音の箇所はイエスさまが敵への愛を教えられた箇所です。マタイ福音書では「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしはいっておく。敵を愛し、自分を迫害するもののために祈りなさい(5:43)」の並行箇所にあたります。ユダヤの律法で「隣人を愛し、敵を憎め」と教えられていましたが、しかし「わたしはいっておく」といって、イエスさまが律法を超える新しい教えを述べられた箇所になります。

「隣人を愛し、敵を憎め」といわれていることは、ユダヤ教だけでなく、わたしたちにとっても当たり前となっている価値観です。同胞の権利を守り、敵国を排除すること、また被害者の権利を守り、加害者を罰することなど、わたしたちは普通のこととして考えていることではないでしょうか。そして、多くの国の法律がその考えに基づいて定められています。しかし、イエスさまは、わたしたちがよい市民であるとしても、それだけで満足しているのであれば、それならだれでもしていること、罪人でも同じことをしているといわれます。イエスさまは「敵を愛し、あなたがたを憎むものに親切にしなさい」といわれました。わたしたちの悪口をいうもののために祈り、頬を打つものにもう一方の頬を向け、上着を奪い取るものに下着をも与えなさいといわれます。それでは、そんなことはわたしたちに可能なのでしょうか。

イエスさまはその根拠として、天の父の憐れみ深さをもって説明しようとされます。「いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである」といわれます。そして、「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深いものとなりなさい」といわれます。マタイでは「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全なものとなりなさい(5:48)」といわれています。そこでは、神の憐れみ深さというものが天の父の完全性に置き換えられています。わたしたちは、神さまの完全性というと、神さまの全知全能ということを考えます。全知全能ということは、いつでもどこでも自分の思いや願いを叶えることができるということだと考えます。そして、わたしたちは自分の思いや願いが叶うことが、幸せであると考えます。しかし、自分の思いや願いが簡単には叶わないことも知っています。ですから人間社会のなかでは、自分の思いや願いを叶えることができるような一握りの権力者やリーダーになることを目指します。そして、それが現代社会の価値観ともなっています。

しかし、神さまが全知全能である、またその完全性というものは、自分のやりたいこと思うことができるという意味ではなくて、神さまの完全性とは慈しみ憐れみ、愛そのものであるということがイエスさまによって明らかにされます。つまり神さまの完全性、その本質は、慈しみ憐れみ愛することそのものであるということなのです。ということは、神さまは、相手を慈しみ、愛し、ゆるし、自分を与えることしかできないということなのです。それが神さま、真実の世界のあり様であるというのです。ルカでは「いと高き方は、恩を知らない悪人にも、情け深いからである」といわれています。このことは、マタイでは「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しいものにも正しくないものにも雨を降らせてくださる(マタイ6:45)」といわれていることです。太陽や雨は善人悪人、正しい人正しくない人を区別しません。すべてのもの上に平等に注がれます。これが神さまの完全性ということなのです。人間であれば、善人を選び、悪人は退けるとか、正しい人は受け入れ、正しくない人は受け入れないということをするでしょう。しかし、神さまの慈しみの愛の完全性というものは、善人悪人、聖人罪人の区別をすることがなく、ただ人間を等しく慈しみ、愛し、ゆるされる、そのようにしかできないということなのです。これが神さまの慈しみ、憐れみ深い愛の本質であり、愛は慈しみ、憐れみ、ゆるすことしかできない、そして、人間を愛し、憐れみ、慈しむことが神さまの喜びなのです。なぜなら、神さまの本質は慈しみ、憐れみ、愛ですから、その本質を実現することしかできませんし、そのことが神さまの喜びだからです。神さまの愛は、わたしたち人間の正義や善悪の基準に左右されません。神さまはわたしたちのように、人を罪人だと決めつけたり、裁いたりはされないのです。

実はこのような無条件の、絶対平等の愛を、わたしたちは人間の赤ちゃんのとき体験しているのです。ただ、そのことを覚えていません。しかし、この世に生まれてきたということ自体が、たとえわたしたちが覚えていなくても、無条件の愛を受けたという事実に他ならないからです。赤ん坊は何もできません。おなかがすいたといって泣き、おむつか濡れたといって泣き、泣くことしかできません。その度に親にあたる人たちは、よしよしいい子といって、わたしを受け入れて、愛してくれたのです。おしめを濡らしたらダメといわれなかったのです。人間として自分では何もできなかったのです。勉強ができたとか、お祈りができたとか、よいことが何かできたわけではありません。それなのに何をしても何をしなくても、よしよしといって、わたしは一身に愛を受けたのです。これは、まさに親という方を通して神さまがわたしを愛してくださったことそのものではないでしょうか。しかしながら、わたしたちはそのように愛されたことを忘れてしまっています。でも、わたしたちの体はその愛を覚えているのではないでしょうか。わたしたちのなかに、イエスさまの、神さまの愛の痕跡が残っているといってもいいでしょう。イエスさまと同じ愛が、同じいのちがわたしたちの魂の深いところに地下水のように流れているのだと思います。ですから、わたしたちがイエスさまのことばに触れるとき、また真実に触れるとき、その愛がわたしのなかで呼び覚まされていくのです。わたしたちがそのような愛を理解できるのは、そのような愛で愛されたからに他なりません。

わたしたちは、無条件で愛されたという事実をほとんど覚えていません。わたしたちが成長過程で覚えているのは、条件付きの愛だけです。「~ができたので、誉めてもらった」とか、「~をしたので、認めてもらった」という、「~ができた」「~した」という条件付きで受けた愛だけです。それが成長する、大人になるということなのでしょう。教育にはそのような要素もありますから、そこで承認欲求が生まれ、競争心も養われ、社会性を身につけていくのでしょう。ですから愛が無条件であるとかいわれても、頭では理解しても、なかなか実感がわきません。本能的に疑ってしまうのです。しかし、わたしたちが覚えていなくても、わたしたちは確かに無条件で愛され、慈しまれ憐れまれたのです。ですから、その真実に触れるときに、わたしたちの中でわたしたちの神さまの愛の記憶が呼び覚まされていくのです。

イエスさまは、その真実を証しするためにこの世界に来られました。そして、イエスさまご自身が、その真実そのものでいらっしゃいました。愛、慈しみ、憐れみ、ゆるしそのものでおられたのです。ですからイエスさまは、敵を愛し自分を迫害するもののために祈りなさいと教えることができ、そして実際そのようにされたのです。イエスさまは、ご自分を十字架に釘付けにしようとするものたちのために、「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか知らないのです(23:34)」と祈られました。イエスさまは、敵への愛を“教え”として説明されたのではありません。イエスさまは、ご自身をもって教えられたのです。ですから、イエスさまの「あなたがたも憐れみ深いものになりなさい」というのは、わたしができるとかできないとかの掟や命令ではなくて、イエスさまのわたしへの愛の呼びかけとなっているのです。ですから、わたしたちがその愛を理解し、そのような愛をもってわたしが愛されていることを信じるとき、その愛はわたしたちの中で現実のものとなっていくのです。

年間第6主日 勧めのことば

年間第6主日 福音朗読 ルカ6章17、20~26節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の箇所はマタイの山上の説教に対して、ルカの平地の説教といわれる箇所です。マタイ福音書は、ユダヤ教からキリスト者になった人々宛てに書かれたといわれており、イエスさまを新しいモーセとして描いていきます。ですから「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くによって来た(マタイ5:12)」という書き出しで始まります。その姿は旧約のモーセを思わせます。しかし、ルカでは「イエスは彼ら(弟子たち)と一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった」と始まります。その姿は、モーセのような偉大な預言者として上から教えるというのではなく、ルカ特有の低みに立つイエスさまの姿です。そのように書くと、イエスさまは神さまなのにわたしたちのところまで上から降りてこられたとか、イエスさまの謙遜の姿であるというふうに考えがちです。なぜかというと、わたしたちは、神さまは上におられるというふうに考えているからです。それは、わたしたちがこの世界の物事をすべて、上下、大小、多少で捉えることしかできないからです。ですから当然神さまは上におられて、人間界に人間となって天から降りてこられたと考えます。謙遜もそのように身を低くすることだと考えます。そもそも上下、大小、多い少ないを決めているのは人間であるわたしたちです。だから山上の説教とか、平地の説教とかいうふうないい方をしてしまうわけです。しかし、神さまには上も下も、大きい小さいもありません。

山上の説教では、「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄ってきた。そこで、イエスは口を開き、教えられた」とありますから、話される対象は弟子たちであることがわかります。それに対してルカでは、「イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子たちとおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、イエスの教えを聞くため、また病気を癒していただくために来ていた(6:17~18)」と書かれており、イエスさまが話しておられる対象は、様々な苦悩や病を抱えて毎日の生活に喘いでいる人たちでした。その人々に対して、「貧しい人々は幸いである…今飢えている人は幸いである…今泣いている人は幸いである…」といわれるわけです。マタイでは、「心の貧しい人は幸いである」といわれています。わたしたちは聖書の中の表現、いい方に慣れてしまっていますが、少しわが身を振り返って見ると、自分が苦しんでいるとき、病気のときにお見舞いにこられ、「これも神さまからのお恵みですよ」とか、「あなたは幸いな人ですよ」とかいわれたら、腹が立ってカチンとなるのではないでしょうか。

イエスさまは決して、貧しいことや病気、困苦欠乏がよいといわれたのでありません。また、「心の貧しい人は幸い」というときによく説明されるような精神論を説かれたわけでもないと思います。イエスさまの意図はどこにあるのでしょうか。イエスさまは何ができるとかできないとかではなく、ただルカで述べられているような病人や悪霊に取りつかれている人、罪人とみられている人々、様々な苦しみ痛みを抱えている人々、女性、子どもたちとともに、とにかくまず一緒にいたいと思われたのではないでしょうか。わたしたちは、直ぐに救いだとか、癒しだとかを考えます。もちろん、イエスさまは神さまですから、病人を癒したり、悪霊を追い出したりしておられました。しかし、イエスさまが先ずしておられたことは、自ら小さなものとして彼らとともにいることだったのではないでしょうか。わたしたちは自分が苦しんでいるとき、その苦しみはなくならなくても、誰かが一緒にいてほしいと思うのではないでしょうか。ただ手を握ってくれるだけでも、体をさすってくれるだけでもいいのです。大切な人が苦しんでいるとき、わたしが代わってあげたいと思っても、代わることはできない、何もできなくてもただ一緒にいたいと思うのではないでしょうか。イエスさまご自身も同じであったと思います。イエスさまご自身が小さい方、小さい神さまでいらっしゃって、天から降りてきて人間を救い上げるような力強いタイプの神さまではなかったのだと思います。

しかし、ただ小さい神さまといっても、大きいと比べて小さいという意味ではなく、大きい小さい、上下、多い少ないというような枠組みや基準ではなく、いつでもどこでも誰とでもともにおられる神さまであるというということなのです。特に弱く苦しんでいる人とともにおられる神さまであるということではないでしょうか。というのは、弱く貧しい人というのは、自分が望んでそうなったのではなくて、強いもの豊かなものから貧しく小さくされたということなのです。そして彼らは、どのようにしてもその貧しさ小ささから抜け出すことはできないのです。イエスさまは、決してその小ささ貧しさがよいといわれたのではなく、ただ彼らとともにいることしかできなかったということではないでしょうか。かといって、今日の福音のように、イエスさまは貧しい人々とともにおられるけれど、豊かな人を否定し、そのような人たちはダメだといわれるのでもないと思います。豊かなものは不幸だというような書き方をされているのは、イエスさまのことばが長い伝承の中で、人間にわかりやすく説明しようとすることの中で起こってきたものなのでしょう。イエスさまの思いは、すべての人とともに等しくあることです。しかし、それを妨げている人間のあり方、それが貧しさであれ豊かさであれ、飢えであれ満腹であれ、そのような囚われ、格差や区別を作り出している人間のありさまを疑問視されていかれたのです。それが人間の思い、人間の欲望、社会的な構造やシステムや制度、律法のような規則であれば、それらを意義申し立て、神さまの思い、イエスさまの願いを中心とする真実の世界を告げ知らせられました。それが神の国といわれ、今日の福音のなかで、小さく貧しい人たちは神の国を体験しているといわれたのです。そして、イエスさまは目をあげて、その人々をみておられたのです。そのまなざしは慈しみと憐れみのまなざしです。

イエスさまが貧しい人たちは幸いといわれたのは、誰のことでもなく、このわたしのことなのです。教会の中で貧しくならなければとか、謙遜にならなければならないといいますが、イエスさまは貧しくなりなさいとはいわれませんでした。人間としてのわたしという存在そのものが貧しいのです。わたしたちの貧しさとは、わたしたちは無であり、わたしたちのすべてはいただいたもの、受けたものであり、自分には何もないということなのです。わたしのいのち、わたしの力、わたしの能力、わたしのすべて、わたしたちはそれらを自分のものであるかのように錯覚し、それを自分の思いのままに利用しています。しかし、わたしたちの中に、わたしのものといえるものは何もないのです。わたしたちは、ただイエスさまから憐れと慈しみを受けるものでしかないのです。わたしたちは貧しいから、小さいから、神さまにすべてを期待し、神さまからいただくことができるのです。わたしたちは小さく貧しいものであるから、神さまからいただくことができる、神さまの憐れみと慈しみに出会うことができるのです。わたしたちが憐れまれ慈しまれなければならないものであるから、神さまの憐れみ慈しみと出会うことができるのです。

わたしたちの貧しさ、弱さ、欠如は、わたしたちにとってよいものでも、快いものでもありません。仕方ないといってあきらめるものでもないのです。しかし、わたしたちは受けることによって、神さまの慈しみ憐れみが知らされ、神さまが神さまであることがあきらかにされるのです。もしわたしたちが、受けるもの、与えられるものでなかったなら、人間はもっとひどいものになっていたでしょう。イエスさまは今日のみことばの中で、わたしたち人間の本質をあきらかにされます。それをわたしたちは人間の了見で勝手にしてきた。その人間の了見が、ものごとを混乱させてきました。わたしたちは、人間が作ったとか、こしらえたというふうにいい、すべてを自分の思いのままにしてきた、ここにわたしたちの罪があるのです。しかし、その人間の罪もお使いになって、神さまはご自身をあらわそうとされるのです。神さまは、わたしたちをゆるし、憐れまれることで、ご自身の本質を啓示されます。わたしたちの闇、罪と神の憐れと慈しみという一見相いれないと思われるものが、神の働きの場となっているという逆説を味わわせていただきたいと思います。

年間第5主日 勧めのことば

年間第5主日 福音朗読 ルカ5章1~11節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は最初の弟子の召命について描かれています。共観福音書にはいずれも最初の弟子の召命について報告がありますが、ルカの特徴はその出来事の内面を描いているということです。今回は、それを見ていきたいと思います。

わたしたちは召命というと、すべてを捨ててわたしたちがイエスさまに従うことだと思いがちですが、わたしたちの側からみればそうかもしれませんが、それは召命の一面を捉えているとしかいえません。聖書において召命は、イエスさまが彼らを見て、イエスさまが彼らをお呼びになる出来事として描かれています。そこには、わたしたちが何かをする前に、イエスさまの存在、働きというものが先にあるのです。わたしたちは自分が何か新しいことを始めるとき、自分が選択して決断したと考えます。しかし、わたしが何かを選んで決断したというよりも、新しい生き方がわたしを選んで、わたしを動かしている出来事なのだというふうにいえないでしょうか。わたしたちの力や努力、計画やはからいを超えた何か大きな力がわたしたちに働いて、その大きなものにわたしたちが突き動かされるというような体験です。それをわたしたちは召命ということばで説明しています。召命のラテン語の元の意味は「呼ぶ」であって、その主語はわたしではなく神さまです。神さまが呼ばれる、これが召命の意味であって、わたしの決断とか選択という意味はありません。それがいつの間にか、わたしが何かを決断すること、応えることだと思われるようになってしまいました。

しかし、今日の福音を読むと、イエスさまが弟子たちを見て、呼ばれるということがはっきりしています。過去、教会のなかでは、召命というと司祭・修道者になることだと狭く解釈されてきました。それはひとつの結果であって、大切なことはわたしたちが何か大きなものに呼ばれていることに気づかされ、その懐深くに入り込んでいくことであるといえるでしょう。そこには、まずわたしたちの力や予測をはるかに超えた大きな存在、働きがあって、それが自分に働きかけてくるという体験をすることが大切になります。ですから百人いれば百通りの体験があるということになります。それがペトロの場合は、不思議な大漁ということでした。イエスさまの話を聞こうとして、多くの人が集まっています。イエスさまは漁の片づけをしているペトロの持ち船に乗って、人々に教えられました。ペトロは、イエスさまが自分を選んでくださったのだと、調子に乗っていたかもしれません。話が終わると、イエスさまはペトロに沖に漕ぎ出して漁をするようにといわれます。ペトロの機嫌は急に悪くなったのではないでしょうか。ペトロはプロの漁師で、昨夜は一晩中漁をしましたが何も取れませんでした。この無謀な申し出に、ペトロの機嫌は悪くなり、こころは不信でいっぱいになったのではないでしょうか。しかし「おことばですから、網をおろしてみましょう」と漁を始めます。そうするとおびただしい魚がかかるという出来事が起こります。

そこでペトロは、自分の力をまったく超えた大きな神の働きを体験します。同時に自分とは何かという自己認識も深めていくことにもなります。それがペトロの「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深いものなのです」ということばとなって表れてきます。ペトロが何か罪を犯したわけではありません。しかしペトロはイエスさまのことばを通して、漁師としての自分のキャリアもプライドも打ち砕かれるような体験をします。そこで、ペトロは自分をはるかに超えた大きなものと出会うという体験をしました。「降参です」とか、「参りました」といって頭を下げるという感じでしょうか。イエスさまはこの出来事を通して、ペトロに正しい自己認識、己の限界と罪深さということを体験させたのです。このような体験は必ずしも、わたしたちにとって心地よいものではありません。しかし、こうした体験を通して、わたしたちの心のやわらかさが養われていきます。

ペトロは、カファルナウムの住民の中では、自分は罪人であるとは思っていなかったでしょう。この町で、ペトロは普通のユダヤ教の信徒、それほど熱心なわけではないけれど、かといってそれほど悪くはない。ペトロを支配していた思いは、自分は胸を張れるほど熱心で信仰深いわけではない、でもあの徴税人や娼婦ほど悪くはない、どちらかといえばまだまともな人間だと思っていたのではないでしょうか。ちょうどわたしたちが、自分はそれほど悪くない、少しはまともな人間だ、よいカトリック信者だ、司祭だと思っているのと同様です。ですから、自分が罪深い人間、罪人だとは間違っても思っていませんでした。自分はまともだとか、誰よりはましだと思っていますから、人への優しさや愛情をもつこと、人の痛みや弱さに共感していくことは難しかったのではないでしょうか。しかし、イエスさまは武骨なペトロを、神さまの憐れみと慈しみに触れさせ、自分の罪深さについて自発的に、それも卑屈にならずに認めさせ、自分こそ神さまの憐れみとゆるしを必要としている第一の人間であるということに気づかせられたのです。わたしたちは、自分に注がれている神の憐れみと慈しみを体験すればするほど、自分こそが他の誰よりも神さまからの憐れみと救いを必要としているもっとも貧しい罪人であることをはっきりと思い知らされます。他の誰かよりはまともだなどとは考えもしないのでしょう。このような自己認識は究明、反省をして得られた自己認識ではなくて、神さまの憐れみに触れることによって恵みとして与えられたものなのです。苦労して頑張って、反省しても、神の慈しみの体験がないのであれば、その人は道徳的な内省に留まっており、福音的ではなく、むしろ害悪となってしまいます。

イエスの弟子となるということは、自分が他の誰よりもイエスさまの救いと憐れみを必要としている大悪人、罪人の中の罪人であることを知るということです。それは、自分が具体的な罪人であるという意味ではなくて、わたしが実存的な意味で罪人であることを知っているということなのです。このような自分の限界、貧しさを体験することを通して、イエスさまとのさらなる深みへと招かれていきます。召命はイエスさまから呼ばれ、それに応えることだけでは終わりません。さらにイエスさまの懐深く入っていかなければなりません。自分の内なる魂の深みに降りていくことだともいえるでしょう。キリスト者であれば、自分は洗礼を受けたとか、司祭になったとか、修道院に入ったとか、結婚生活に入ったとか、どこからどのように入るのかという形に囚われがちですが、大切なのは形ではありません。どこからどのように入ったとしても、いつまでも入り口でうろうろしていないということが大切なのです。いつまでも自我をくすぶらせ、イエスさまの懐深くに入り込むことなく、イエスさまとの関わりを深めることをないがしろにして、自分の立場や生活に囚われて、入り口をちょろちょろするようになってはならないのです。罪を犯さなくなるとか、倒れなくなるということが問題なのではなく、いついかなるときにおいてもイエスさまにおいて前進することが大切なのです。どれほどの信徒・司祭・修道者がイエスさまとの関わりをないがしろにして、組織の運営、維持管理、形式的な祈り、外面的な信仰生活に留まり、そこにエネルギーを裂き、キリスト者として生きていると錯覚していることが何と多いことでしょうか。これこそ召命への不誠実ということなのです。

最初の弟子たちは、イエスさまとの出会いの驚きを通して、自己認識を深めイエスさまとの深みへと招き入れられてきました。イエスさまと出会いは、絶え間のない驚きの連続であり、わたしたちに自分の真の姿を見せつけます。イエスさまに頭を下げて「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深いものなのです」といい、「主よ、罪人であるわたしをあわれんでください」というしかない我が身を見せつけられます。しかし、イエスさまは「恐れることはない。わたしに従いなさい」といって、わたしたちをご自身とのさらなる深みへと招き入れてくださるのです。罪人でしかない己を知るという出発点にわたしたちが立ち、そこから生涯をかけて、日々イエスさまとさらなる懐深くにまでわたしたちが入り込んでいくこと、ここにわたしたちの召命、信仰生活があるのです。

主の奉献 勧めのことば

主の奉献(年間第4主日)  福音朗読 ルカ2章22~32節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は主の奉献の祝日です。第二バチカン公会議前は「マリアの清めの祝日」でマリアの祝日でしたが、公会議後は焦点をイエスさまにあわせ、主の奉献の祝日として、イエスさまの祝祭日となりました。今日の祝日も主の洗礼の祝日もそうですが、少し理解に苦しむ祝日です。主の洗礼の祝日は、イエスさまがどうして洗礼を受ける必要があったのかということです。なぜなら、洗礼者ヨハネがおこなっていた洗礼は、メシアの到来を準備するための民の改心と清めの意思表示としての洗礼でした。それをメシアであるイエスさまが、どうして改心と清めの洗礼を受ける必要があったのかということでした。主の奉献の疑問点は、イエスさま自身が生きた神殿であるのに、どうして人間の作った神殿で捧げられる必要があったのかということです。聖書の中では「律法の規定どおり」とありますから、イエスさまは望むと望まないに関わらず、律法に従われたということになります。イエスさまは赤ちゃんですから、自分の力で何もできない弱い存在です。だからマリアとヨゼフのする通りに、人間の決めた通りにするしかできないわけです。いくらそれが理屈に合わないことであっても、不条理なことであってもそれを受けていく、イエスさまはそれほど弱く、貧しく、小さい者となられたということなのでしょう。そして、この弱く小さい貧しいイエスさまが、「万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、イスラエルの誉れ」であるという逆説的な真理を表しています。イエスさまの救いは、人間の理解を超えた世界です。

それでは異邦人を照らす啓示の光、万民の救いとなる光とはどのような光でしょうか。そもそも光は何ものも区別をしません。日の光はすべてのもの上に平等に注がれます。「善人の上にも悪人の上にも太陽を昇らせ」とイエスさまがおっしゃるとおりです。このように、すべてを照らすイエスさまの光は、ユダヤ人であるとか異邦人であるとか、善人であるとか罪人であるとか、男であるとか女であるとかの区別なしに、すべてのものを照らし、すべてのものを包み込みます。まさに万民の救いです。イエスさまの愛は、すべてのものを包み込み、すべてのものを救い取ります。何ものも取り残したり、排除したりしません。イエスさまはこのような意味で光そのものです。しかし、わたしたち人間は、わたしたちの小さい頭で考えた人間の救いの基準で、自分という基準で、あるいは教会が決めた基準で、イエスさまの愛を判断してしまいます。そして、人のことを、また自分のことを見てしまいがちです。しかし、イエスさまの愛はすべてのものをあまねく照らす光であって、そこに何の障りもなく、区別もありません。

このような光は、闇の中で意識され、闇を照らし、闇を追い払うような光です。光が光であることが意識されるのは、たいていは闇の中にいるときです。昼間、日の光が満ち溢れているときに、光を意識することはありません。ですから、光としてのイエスさまをわたしたちが意識するのは、わたしたちが闇の中にいるときなのです。わたしたちはよく、これは神さまのお恵みであるとか、神さまの働きであるというようないい方をします。それはたいていの場合は、自分が助けられたとか、困っていることが解決したとか、自分の思いがかなったとか、病気が治ったとか、罪がゆるされたというようなことではないでしょうか。それは何かというと、神さまに向かうのを妨げているとわたしが思っているものを、神さまが取り除かれたということではないでしょうか。重い病気があればそれが治るとか、犯した罪がゆるされたとか、解決できないような問題が解決されたとかいう場合です。つまり、わたしの都合がよくない何かがあって、それがひとつの闇と思っていて、そこに光が差した、何かがよくなったということを神さまのお恵みだといっているのです。ですから闇に輝く光として光を体験することは、わたしたちにとっては、イエスさまがそこにおられ、働いておられる単純なわかりやすいしるしになるということなのです。しかし、それはまことの光を体験したことにはなりません。自分の都合がよくなっただけの話だからです。

光は夜昼関係なくわたしたちを照らし続けています。わたしたちが救われたとか、助かったという実感があってもなくても、光はわたしたちに注がれていることになります。わたしたちが、これは神さまの恵みだとか、神さまの働きだと感じなくても、絶え間なく神の恵みはわたしたちのところにあり、神は絶え間なくわたしに働いておられるのです。わたしたちは、このような真昼の光、わたしたちが捕らえられないような当たり前となっている光を意識することは大変難しいといえるでしょう。わたしが理解し体験できる光は、わたしの知性と感覚で捕らえることができる有限な光であって、有限な光であれば、すべてのものを照らすことはできないのです。人間が捕らえることのできる有限な光というものは、影を作り出してしまいます。光そのものは、すべてのものを平等に照らしているようですが、大きなものが前にあれば、その後ろにあるものは影になって光はあたりません。また強い闇の中では、光は闇に吸収されてしまいます。しかし、イエスさまが光であるといわれるような光は、何ものも区別することなく、何ものも妨げとなることなく、地獄の底の底まで照らし、この宇宙の隅々まで満たすような光、働きなのです。ですから、通常わたしたちには捕らえられないのです。復活徹夜祭で歌われる復活賛歌の中にあるように、その光は「火の柱の輝きによって、罪の闇を打ち払い」、「絶えず輝き、夜の闇が打ち払われ」るような光、「その光は星空に届き、沈むことのない明けの星」、陰ることのない光、無量無辺で無碍の光、永遠の光、「人類を照らす光」です。キリスト者だけの専売特許の光ではありません。すべての人に、すべてのものに、すべてのところに、いつの時代にも、時間と空間を超えた照らされる永遠の光なのです。このような光によって、わたしたちは照らされ、収め取られているのです。この光は何も区別しない、何も差別しない。キリスト者であろうと、仏教徒であろうと、宗教をもたない人であろうとなかろうと、善人悪人を問わず、全人類、全宇宙の隅々にまでいきわたる光なのです。これが、イエスさまが異邦人を照らす光、すべてのものの救いであるといわれる意味なのです。

ところが、わたしたちはこのイエスの光の中にあっても、わたしたちの小さな頭で考えた理屈や教会の決めた基準で、その光に背を向け、わたしたちの心の目が覆い隠されてしまいます。わたしの小さな自我へのこだわりが、イエスさまの救いを妨げ、イエスさまの働きを拒否し、イエスさまの光を自分自身で見えなくしてしまっているのです。それが、わたしたちが自分で闇をつくり出していること、無明、罪といわれるものなのです。それでもイエスさまは、あきらめることなく、倦むこともなく、わたしたちを照らし続けてくださっているのです。これがイエスさまの大いなる慈悲の光なのです。これは人間の頭や知恵の理解を超えた世界であり、そのことをわたしたちは今日記念します。わたしたちのうちに光として来られたイエスさまは、何の条件もつけず、無償で、照らし続けておられるという真実にわたしが気づかせていただき、その慈しみの光にわたしたちは身を委ねればよいのです。わたしたちの罪とか弱さ、限界によって、イエスさまの光が妨げられることも、遮られることも、陰ることも一切ありません。わたしたちはわたしたちを救おうとされているイエスさまの働きに目を向け、イエスさまの知恵、慈悲に出会わせていただくように呼びかけられているのです。その光、その声は、今、わたしに届いているのです。このイエスさまの慈悲と出会うことが信仰といわれ、この信仰を生きることがわたしたちの祈りなのです。祈りは、難しいことばを唱えることでも、特定の祈りの文句を唱えることでもありません。わたしを救おうとされるイエスさまの働きに、わたしたちが単純化された愛のまなざしを注ぐこと、イエスさまの愛のまなざしとわたしのまなざしが出会うこと、この2人の愛の交流にわたしが身をゆだねることに他ならないのです。

年間第3主日 勧めのことば

年間第3主日 福音朗読 ルカ1章1~4節、4章14~21節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音の箇所は、イエスさまが40日間の荒野での誘惑を終えて、初めてご自分の生まれ故郷であるガリラヤに戻り、ナザレの会堂での出来事が朗読されます。そのときイエスさまは、すでに「霊の力に満ち」、人々に「教え」、「尊敬を受け」ておられました。人々の称賛を呼び起こしたのは、イエスさまの上に霊の力が働いていたからで、イエスはこの霊に導かれた宣教活動に乗り出されます。その始まりがナザレの会堂での出来事です。会堂でイザヤの預言が読まれ、イエスさまはご自分の使命をイザヤのことばを用いて宣言されました。

「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」 ここでイエスさまは、ご自分の使命は、貧しい人に福音を告げ知らせることであるといわれます。そして、よい便りといわれる福音の内容は、「捕らわれている人に解放を」、「目の見えない人に視力の回復を」、「圧迫されている人を自由に」することであるといわれました。解放、回復(癒し)、自由です。自由と訳されていることばも、解放と同じことばであり、イエスさまの福音の中心的なメッセージは解放であるといえるでしょう。それでは解放とは一体何なのでしょうか。

イエスさまが生きておられた当時、ユダヤはローマ帝国によって支配されて、人々は重税と苦役、貧しい生活、飢え、病気に苦しんでいました。だから、人々が先ず望んだことは、ローマ帝国の圧政からの解放、そして貧しい生活、病苦からの解放でしょう。わたしたちは皆、神の似姿として、神の子として神と人々に向き合い、神を賛美するために創られています。しかし、様々な病や苦しみ、特に社会的圧迫による貧困などは、わたしたちの身もこころも不自由にしてしまいます。病気であれば、自分の体のことで頭は一杯になってしまいます。極端な貧しさの中にあると、とにかく飢えているので食べることだけがすべての関心事となってしまい、他人のことや他のことなど何も考えることができなくなってしまいます。今も全世界の中に、わたしたちが考えることもできないような貧しさが蔓延しています。貧しさのただ中にいると、生きることがすべてとなってしまい、生物的な欲求、飢えや安心を満たすことを求める生活になってしまいます。このように社会的な圧政や貧困はわたしたちのこころを捕らえてしまい、わたしたちを不自由にし、わたしたちは奴隷となってしまうのです。だからイエスさまは、先ず人間が基本的に人間として生きることを妨げているようなものを取り除いていこうとされるのです。それがイエスさまの癒しの業、パンの増やしなどのしるしとなって現れます。

それでは基本的に人間の生活が満たされれば、人間は自由であるかというとそうでありません。今度は、自分が満たされたこと、満たされたものを必死に守ろうとする欲が出てきます。そして、わたしたちは物、お金、権力、名誉の奴隷から始まって、この救われた状況、この平安な状況にしがみつきます。また、人間関係の奴隷にもなっていきます。わたしたちは人間関係において、自分と相手の立場がどうであるか、どちらが上で下であるとか、無視されたとかどうとか、派閥だとか、異様なほどに人の目、評価を気にします。教会の中にあっても上下などないはずなのに、異様に気にします。どうしてそのようなことが起こるのでしょうか。それはわたしたちのこころの根底に、今の自分の状況を守りたい、この安定を確保したい、自分が正当に評価されたい、よく思われたいという思い、つまり根底に「自分がかわいい」というこころがあって、その自分の状況にしがみつくようになります。こうして人間は自分の思い、自分のこころの奴隷になってしまうのです。

わたしたち人間は、神さまと人々と物との関わりにおいて、また自分との関わりにおいて、本質的に病んでいるのです。すべての人間は何かの奴隷となり、自由に神さまと人々と物と、また自分自身と正しい関わりをもつことができない状態に閉じ込められているのです。この状況をパウロは「罪の奴隷」と呼んでいます。イエスさまは、このようなわたしたちを罪の奴隷から解放するために、自由にするためにこられました。しかし、イエスさまがわたしたちを解放し、自由にするといわれるとき、それはわたしたちを病から解放して病気のない状態に、貧しさから解放して豊かな状況に、奴隷として捕らわれている状況から自由人にするというところから始まりますが、その次元に留まりません。先ずそのようなところから始まるかもしれません。しかし、それはわたしたちをまことの解放へと招き入れるための方便なのです。確かに生活そのものがわたしたちを圧迫しているとき、わたしたちは生活の奴隷であって、先ずそこからは解放されなければならないでしょう。しかし、困っている状況がよくなったとか、苦しみがなくなったということは、それ自体としてはそれでよいとしても、わたしの問題解決の次元に留まっているわけです。それは自分が好むものは受けるが、好まないものは拒絶していくという、どこまでもわたしの自己中心的なあり方そのものに光があたっているわけではないのです。それだけなら、イエスさまのいわれる解放というのは、わたしの欲望が満たされるだけで終わってしまいます。

イエスさまが宣べ伝えた解放というのは、わたしたちの外的な状況、病や貧しさからの解放とか、わたしの罪のゆるしとか、わたしが罪を犯さなくなるとか、わたしが救われるというような個人的、表面的なことではなく、わたしたちの物的次元、社会的次元から始まって、わたしたちの魂の深みに至るまで、全人間的、全人類的、全宇宙的な次元にまで及ぶ解放、回心なのだということなのです。イエスさまが望まれたのは、わたしたちをあらゆる次元において解放し、神と人と自然、物、そして自分自身との正しい関係、調和へとわたしたちを招き入れることなのです。お互いがお互いを搾取し、排除し、利用し、所有化しようとする動きからわたしたちを解放し、わたしたちを内的に高めるところにまで及ぶのです。神さまとの関わりにおいては「奴隷の子」、「怒りの子」から「神の子」へと、人との関わりにおいては支配被支配の混乱から「兄弟姉妹」へと、自然、物との関わりにおいては利用し利用される関わりから共存、調和へと新しく造りかえられていくのです。いきつくところ、イエスさまによる解放というのは、わたしが「わたし」という捕らわれから解放されること、わたしが「わたしの救い」から解放されることにあるといえばいいでしょう。わたしが救われたい、楽になりたいというのが、人間の一番の捕らわれなのです。

わたしたちは、わたしが救われることがもはや目的にならない、先ずすべての人の救いがあって、わたしも人々とともに救われていくというところまで解放されていかなければならないのです。頭でわかっていても、わたしの救いをまず考えてしまう、ここにわたしへの最大の捕らわれがあるのではないでしょうか。イエスさまは自分のすべてを放棄することで、全人類の救いを成し遂げられました。自らが十字架にかかられたということは、自分のすべてを後回しにされた、つまり自分の救いを放棄することによって全人類の救いとなられたのです。このことはわたしにとっても同じことです。わたしたちは自分という捕らわれ、自分の救いから解放されることによってのみ、わたしは真に解放されるのです。そのためには、「聖書のことばは、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」といわれるように、この解放のことばが今日わたしたちに届けられていることに気づかせていただくことが必要です。この神のことばは、わたしがわざわざどこかに探しにいかなくてもいいのです。勉強する必要も、本を読む必要も、黙想会にいく必要も、教会にいく必要さえありません。神のことばは、わたしたちが謙虚に「聞く耳」をもつとき、わたしのあらゆる生活のただなかに今届けられており、そこで神の国はわたしたちのうちに実現しているのです。神の国は遠くにあるのではなく、わたしたちのただ中にあるのです。

年間第2主日 勧めのことば

年間第2主日 福音朗読 ヨハネ2章1~11節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日はカナの婚礼で、イエスさまが最初のしるしを行われた箇所が朗読されます。この場面は、元々は1月6日の主の公現において祝われてきました。主の公現の起源はクリスマスより古く、救い主であるイエスさまが全人類にご自身を公に現された出来事を、東方の占星術者の訪問、主の洗礼、カナでの最初のしるしとして祝ってきたことに由来します。

さて、今日の場面は婚礼の席上です。聖書のなかで婚礼は特別な意味をもっていて、婚礼は喜び、祝いのシンボルで、花婿と花嫁の関わりは、しばしば神とイスラエルの民との関係にもたとえられてきました。そしてここでは、婚礼は神の国が到来しているしるしとして描かれています。そこでひとつのハプニングが起こります。それは婚礼の席で欠かせないぶどう酒が足りなくなるということです。物語の顛末は、イエスさまがユダヤ人の清めに用いる石の水がめに水を満たし、水をぶどう酒に、しかも最上のぶどう酒に変えたということで宴会が無事に終了します。さて、この物語の意味は何でしょうか。

ここでユダヤ人が清めに用いる石の水がめというシンボルが出てきますが、ユダヤ教の律法によると、人間が聖なるものとなるために、つまり神さまによって義とされる、よしとさるためには、徹底して汚れを避け、汚れを清めることが大切とされてきました。清められて聖なるものとなること、これがユダヤ教の救いと考えられてきました。どの民族、宗教にも汚れという考え方がありますが、そもそも汚れという考え方は清いという概念を前提としたもので、ものごとを聖と汚れとにわけ、汚れを避けて聖となることで、聖なる方、神さまと一致すると考えられてきました。日本の神道などはその典型です。ユダヤ教でも、汚れを避けるということが最重要とされ、聖書のなかでも「ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある(マルコ7:3~4)」と記されています。ですから「ユダヤ人の清めのしきたり」を守るためには、多くの水が必要で、そのためにどこの家でも清めのための水がめがあったのです。食事の前や帰宅したら手洗いをする、沐浴をする、また食物についての禁忌などは清浄規定といわれるもので、衛生という観念がなかった時代、それらのしきたりを守ることで人間の心身の健康を保つという人間の知恵だったのです。実際、それらのしきたりに宗教的な意味をもたせることで、人々によりその規定を守らせようとしました。しかし、清めという考え方は、ものごとの区別、差別を生み出していくことになります。「汚れたものが触れるものは、すべて汚れる(民数記19・22)」と考えられるようになり、宗教的な規定は自分の内にも、自分の外にも区別、分断を作り出していきます。ですからユダヤ人は自分が汚れることを極端に恐れ、日に何度も手洗い、沐浴をするようになり、そのためにどの家にも水がめがありました。

しかし、日に何度も繰り返される清めで、人間の外側の汚れを拭い去ることはできても、人間の内側の汚れを拭い去ることはできないことにすぐに気づきます。つまり、わたしたち人間の外側を清めるという行為や自らの努力では、人間の内側は清められないし、それによって聖なる方と一致することはできないということなのです。そのことに気づかず、それを毎日延々と繰り返し、そのむなしい努力によって神さまに近づこうとしている、これが旧約聖書であるということです。そこには、どれだけ入念に清めや沐浴をおこなったとしても、これで大丈夫という安心はなく、そこにまことの平和、喜びはありません。規則は守られていて非の打ち所がないのかもしれませんが、そこにいのちがない、喜びがない、愛がないということが起こってきます。これがまさに旧約であり、婚礼のお祝い喜びの席に不可欠なぶどう酒がない状態なのではないでしょうか。しかし、イエスさまは、カナの婚礼の席で祝宴のために不可欠なぶどう酒がないという状況を、ユダヤ人が清めのために使う石の水がめに水を満し、それをよいぶどう酒、それも最上のぶどう酒に変えることで喜びの宴へと変容されました。旧約時代、人間はどれだけ自分の力や努力によって自分の汚れを拭おうとも、自力で自らの汚れを拭い去ることはできませんでした。ですから婚礼の席でぶどう酒がない、表面上が整っているようでも内的には喜びがないという状況だったわけです。しかし、自力で自分を清くすることができると思い込んでいたファリサイ人たちにとってはそれしかなくて、延々と清めを繰り返すという負の連鎖に陥っていくしかなかったのです。

ここで大切なことは、今まで清めのために必要であった石の水がめの水を、イエスさまがぶどう酒に変えてくださったということです。つまりわたしたち人間の力で千年かかってもできなかったことを、イエスさまは一瞬のうちに成し遂げてくださったということなのです。イエスさまは「外から人の体に入るもので人を汚すことのできるものは何もない(マルコ7:14)」といい、人間の外の汚れを清める石の水がめを満たしていた水を、婚礼の祝いの席の最上のぶどう酒に変えてくださいました。つまり、今までわたしたちの外側を清めるために使われていた水がめの水を用いて、わたしたち人間が口から飲み、人間を内側から養い、わたしたちの内も外も包み込んで、わたしのすべてを喜びに変えてくださったということなのです。イエスさまは、聖と汚れという区分を相対化し、清めのための水を喜びのぶどう酒に変えてくださったのです。何とかしてちまちまと汚れをはらっていたという次元から、わたしたちを直接に神さまとの交わりに高めて喜びで満たすという、まったく違う次元にわたしたちを招いてくださったのです。

こうして、今まで人間が自分の力で自分を清めようとしていたあり方を終わらせ、イエスさまがわたしを根本的に変える働きとしてご自身を示してくださったのです。この新しい新約のとき、主語がわたしたち人間から、神・イエスさまに根本的に転換されていくのです。このイエスさまの働きを押し広げていくためには、わたしたちはイエスさまの働きに身をゆだねていかなければならないのです。イエスの母を通して「この人が何かいいつけたら、そのとおりにしてください」といい、わたしを変えるイエスさまの働きに自分をあけわたすように招いています。わたしたちが頑張って悪い心からよい心になるのではありません。イエスさまの働きに、わたしたちをあけ渡していくのです。そのときイエスさまが働かれ、清めのための水は婚礼のぶどう酒に変えらます。イエスさまがわたしのうちにおいて働かれるためには、イエスさまがわたしたちのうちで自由に働きになれるようにして差し上げること、これが新約を生きるということなのです。その秘訣を洗礼者ヨハネは、「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない(ヨハネ3:30)」といい、イエスの母は「この人が何かいいつけたら、そのとおりにしてください」といい、己の身をイエスさまにあけ渡していくように招いています。

カナの最初のしるしは、イエスさまがわたしたちを変えることができ、救うことができる救い主であることを人類に現されたことを記念します。この旧約時代から新約への転換、このイエスさまの新しさにわたしたちが与るためには、「この人が何かいいつけたら、そのとおりにしてください」といわれた招きに従い、わたしの中でイエスさまが自由に働かれるように、我が身をあけ渡していくように招かれています。こうしてわたしの中でイエスさまが主となられ、わたしの中ですべてをしてくださいます。わたしの中でイエスさまがすべてをさせるとき、わたしは使徒、福音宣教者なのです。イエスさまはわたしを使って福音宣教をすることを望んでおられます。しかし、わたしがイエスさまの働きの邪魔をしてはならないのです。イエスさまがわたしの中で自由に福音宣教することがおできになるように、我が身をあけ渡していくこと、その大切さに気づかせていただく恵みを願いましょう。

主の洗礼 勧めのことば

主の洗礼 福音朗読 ルカ3章15~16,21~22節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

ルカ福音書における主の洗礼の特徴は、洗礼者ヨハネはすでに投獄されているので(3:20)、イエスさまの洗礼は過去の出来事の思い出として描かれている点です。その記述は非常にシンプルです。そしてイエスさまの洗礼の記述のあとに、イエスの系図が描かれていきます(3:23~38)。マタイ福音書では冒頭に系図が置かれているのに対し、ルカではイエスさまの誕生物語のあとに系図が置かれています。ルカの系図とマタイの系図の違いを見てみると、その意図が見えてきます。マタイの系図は、ヨゼフの系図でアブラハムを起源としています。ですからイエスさまはユダヤ人という一民族の枠組みのなかに誕生し、ユダヤ人を通して人類に救いが広がっていくという視点で描かれています。しかし、ルカの系図は人類の系図で、アダムを通して神にまで遡ります。それによってイエスさまはユダヤ人という枠組みからではなく、初めから人類の救い主であることが強調されます。実は、ルカの誕生物語では、イエスさまはユダヤ人という境遇のなかに誕生しますが、ヨゼフともマリアとも血の繋がりがない、つまりユダヤ人としてではなく「人類」として誕生されたのだということをいおうとしているのだということなのです。ですからイエスさまはユダヤ人の環境の中に生まれますが、アダムの血統まで溯ることによって、ユダヤ人としてではなく、「人類の代表」として誕生したのだといおうとしているということです。その点からイエスさまの洗礼の箇所を読み直していきたいと思います。

 「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると」という記述から始まります。ここで、「イエス『も』」と書くことで民衆とイエスさまが並列に描かれています。ここからもイエスさまは、人類の代表として洗礼を受けられたのだということがわかります。そこからわかることは、「イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降ってきた。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」という出来事は、民衆に、つまり全人類に起こっている出来事であるということなのです。それでは、その中身を詳しくみていきましょう。

ここで「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」ということばを聞くと、わたしたちはイエスさまの神の子としての適性がいわれているんだという意味に捉えてしまいます。しかし、原文はメシア詩編と呼ばれている詩編2の7節の「あなたはわたしの子、わたしは今日、あなたを生んだ(詩編2:7)」の箇所を意識しており、「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜びとする」とも訳せる箇所です。イエスさまは、神の子として相応しいとか、適性があるとか、資格があるというような意味ではなく、イエスさまは何であっても何でなくても神さまの喜びであるということなのです。それはまさに親が我が子を自分の喜びとするその感覚です。ヨハネ福音書では、全人類、つまりわたしたちについて「この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである(1:13)」とのべ、全人類が、つまりわたしたちは神によって生まれたものであるということをあきらかにします。神から生まれたのですから、わたしたちは神の子といわれます。人間の考え得るなかでは、生むものと生まれるものとの関係は親と子ですから、神が生むなら、生む神は親で、生まれたものは神の子となるわけです。イエスさまの洗礼の記述のなかで、イエスさまは「あなたはわたしの愛する子」といわれているわけですから、神から生まれたわたしたちも神の子であり、神の喜びであるということになります。ですからこのことばはイエスさまだけにではなく、わたしたち全人類、そしてわたし自身に宛てられているということです。

これはエフェソ書でいわれていることと同じです。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神はほめたたえられますように…天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのないものにしょうと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子としようと、御心のままに前もってお定めになったのです(1:3~5)」。ここでは、わたしたち全人類は天地創造の前に、イエスさまにおいて神の子として定められていたということがはっきりとのべられています。洗礼のときではなく、天地創造の前、つまり永遠においてわたしたちは「すでに神の子(Ⅰヨハネ3:2)」とされているのです。聖書のなかで度々出てくる「選ぶ」ということばは、今日のイエスさまの洗礼の箇所でも訳されている「適う者」というような意味として理解されてしまい、多くのものがいてそのなかから相応しいもの、適性があるものが選抜されたというように捉えてしまいます。しかし、聖書の中の「選ぶ」ということは、何かを排除し何かを区別して、それ以外のものを取捨選択するという意味ではなく、「生む」ということばのもっているような無条件でおこなわれる行為自体を現します。つまり「選ぶ」ということばは、「愛する」ということばと同義語であるということなのです。ですから、わたしたち全人類は人類であるということにおいて神から生まれ、神から選ばれ愛されているということです。そこに適正とか、条件は求められません。幼児洗礼というのはそのような観点からおこなわれてきました。赤ちゃんには何の資格も、適正も求められません。まさに、そのままでということなのです。

ですから、わたしたちが洗礼を受けるということによって、何か特別に選び取られるという意味ではなく、救われるものの集いに入るという意味でもありません。確かにそのように教え方、そのようなことが強調されてもきました。しかし、洗礼とは、ただイエスさまが洗礼のときに聞かれた声、「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを生んだ。わたしはあなたを喜びとする」という声を、わたしたちが聞くことに他なりません。これは、洗礼によってわたしたちは神の子になるのではなく、洗礼のときにわたしたちは天地創造の前にイエスさまにおいて愛されて、神の子とされているという永遠の真実があきらかにされるということなのです。これが人類の本来の姿なのだということなのです。そのあきらかなしるし、イエスさまの「あなたはわたしの愛する子である」という名乗り、これがわたしたちが洗礼を受けたということなのです。今日、イエスさまの洗礼の祝日にあたり、改めてわたしたち人類の、そしてわたしの本来の姿がわたしのなかであきらかにされていく恵みを願いましょう。このようなわたしたちの本来の姿があきらかにされていくこと、それを福音宣教といい、この本来の姿に目覚めることを、わたしたちは召命と呼ぶのです。

主の公現 勧めのことば

主の公現 福音朗読 マタイ2章1~12節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

主の公現は1月6日に祝われてきました。その起源は、冬至の太陽神の祭りをキリスト教化した降誕祭より古く、イエスさまの人類への現れ(エピファニア)を記念するものとして、4世紀にエジプトで祝われてきました。古代教会で主の降誕を祝うという習慣はなく、占星術の学者の訪問、主の洗礼、カナの婚礼での最初の奇跡を、イエスさまの人類への公(おおやけ)の現れとして祝ってきました。主の降誕もそうなのですが、イエスさまの誕生を祝うというよりも、人類を照らす光としてのイエスさまの訪れ、到来を祝うところに中心があります。主の降誕夜半のミサのイザヤ書でも「闇に住む民は、大いなる光を見、死の影の地に住む者の上に、光が輝いた」と述べられ、イエスさまは闇を照らす光であると説明していきます。そのように、光が光として意識されるのは、闇のなかにおいてなのです。イエスさまは全人類の救い主ですから、その光はいつの時代も、どの時間、どの場所にいる人にも等しく注がれているはずです。しかし、昼間に光というものは意識されません。イエスさまをわたしの救い主として意識できるのは、わたしが闇を体験しているとき、わたしが闇のなかにいるときです。光に気づかされるのは暗闇においてなのです。

それでは、今日の福音のなかでイエスさまはどのように光として意識されたのでしょうか。主の降誕では、イエスさまの誕生はまず羊飼いたちに告げ知らされますが、今日は占星術の学者が登場します。羊飼いたちというのは、当時は賤しい人々、堕落した罪人の代表でした。ある意味で闇を生きている人たちだったわけです。それでは、東からやってきたといわれる占星術の学者というのはどういう人たちでしょうか。日本では東の方角は日が昇るというよいイメージがありますが、ユダヤの世界では東によいイメージはありません。地形的にもエルサレムの東は、ヨルダン川が注ぐ死海があり、死海の東岸には砂漠が広がっていて、不毛、死の土地のイメージです。旧約聖書のなかでも、東風が吹くと植物が枯れるとか、東風に乗っていなごが押し寄せるという記述があり、東にいいイメージはありません。占星術の学者とありますが、原文は「マゴイ」であり、学者でも王でもなくて、星占いをする祈祷師です。祈祷師は、人の悩みを聞き、その人たちの心身のケアに携わる人たちでした。人生に疲れ悩み苦しむ人、その多くの人たちは病人や悪霊に憑かれた人たちで、マゴイはその彼らと関わったわけです。

当時、病人や悪霊に憑かれた人たちは、律法を守らず罪を犯して病気になったもの、汚れたもの、罪人と考えられていました。マゴイは、その彼らの病や苦しみに関わっていく、それを仕事としているわけですから、自分も汚れに触れることになります。善きサマリア人のたとえで、祭司やレビ人が半殺しになった血だらけの旅人に触れようとしなかったのは、彼らが無慈悲で血も涙もない冷血漢であったからではありません。その旅人は同胞でしたが、彼に触れることは血や傷に触れることになり、それによって自分が汚れて宗教上の務めを果たすのができなくなるのを恐れてのことでした。ユダヤ人にとって律法は神の掟であり、明らかな神のみ旨、神の意志ですから、これを守らないということはあり得ませんでした。律法というものは絶対であって、彼らは神の掟を守るために、同胞を見捨てざるを得なかったのです。このような宗教が果たしてまことの宗教か、イエスさまはそこを問題視していかれたのです。ここに出てくる占星術の学者も、東から来たいかがわしい祈祷師でしかなかったのです。ですから、ユダヤ人から見たら異邦人であり、罪深い仕事を生業としている人たちであったわけです。その事実に目を閉じて、東方から来た3人の王(カスパー、メルキオール、バルタザール)などといった美しい伝承を作り上げて、主の公現を神聖化してしまいます。ここに、真実を見ようとしない人間の愚かさがでてきます。

元々マタイ福音書は、ユダヤ人でキリスト教になった人たちのために書かれました。ですから、彼らがこの物語を読んだとき、占星術の学者がどのような人たちであるか、すぐにわかったわけです。そして、イエスさまはユダヤ人の救い主であるのだけでなく、全人類の救い主であり、それもユダヤ人が考える救いからもっとも遠いとされてきた人々、異邦人、堕落した罪人であるとされた人たちの救い主であることを理解できたのです。しかし、そもそもわたしたちが光を意識できるのは闇においてです。昼間にお日さまの光を、強烈な形で意識することはありません。わたしたち日本人は、日の光は暖かい穏やかな明るい日向、生きとし生けるものを育みいつくしむ光として捉えます。しかし、ユダヤの世界では、お日様は必ずしも良いイメージではなく、干ばつ、日照り、厳しい日差しなどを連想させる負のイメージもあるのです。しかし、日の光がない暗闇においてはすべてが闇に包まれ、何も見えないわけです。そこには希望も救いも何もないわけです。それこそ、どのように助けを求めればいいのかさえわからないほどの暗さであるということなのです。そのような、わたしたちの極度の惨めさ、弱さ、貧しさ、辛さの中では、光はわたしたちを優しくいつくしむ光というより、わたしたちの闇も罪も汚れもすべてを貫き通す光、何ものをも区別差別しない光、わたしたちのすべてを焼き尽くし、浄める激しい火のような光として体験されるのではないでしょうか。暖かい日向の光しか知らない人にとっては、その光は思いもおよばぬものかもしれません。闇のなかでその光を体験した人が、イエスさまがまことの光であることを証しすることができるのではないのではないでしょうか。ですから、イエスさまの誕生、この世界への現れは、誰からも期待されない、相手にもされない、見捨てられた羊飼いや異邦人の占星術者に告げ知らされたのです。わたしたちが、祝っているクリスマスの風景とはなんと異なっていることでしょうか。

わたしたち人間は自分より弱い、小さい、貧しい人々を作り出すことで、また相手をそのように見なすことで自己肯定しようとします。「自分よりもっと大変な人がいる」とか、「あなたよりもっと苦しんでいる人がいる」というようないい方は、一見するともっともらしく聞こえます。しかし、わたしの苦しみはわたしの苦しみであって、他の誰よりはましだとか、誰より大変だとかいえるようなものではないのです。ユダヤの社会だけではなく、現代社会も同じように、掟や道徳を守れる人と守れない人、弱い人と強い人、勝ち組と負け組というような上下優劣を作り出して、そこに自分を位置づけて自分を肯定しようとします。その価値観、その考え方こそが、まさにわたしたち人間の抱えているわたしの闇であり、わたしが堕落しているのだというところに思いが至りません。だから、人間はとかくすると援助することで、無意識に上位に立ちたがります。援助すること自体は大切なのですが、そこには大きな危険が潜んでいます。わたしたちがその危険から自由であるためには、わたし自身がイエスさまの助けをもっとも必要としている稀代の罪人であり、堕落しているものそのものであるという健全な自己認識が必要なのです。そして、そのような健全な自己認識は、イエスさまのあわれみの光に触れることによってしか得られません。イエスさまと出会えば、わたしはイエスさまにあわれんでいただくことしかない罪人であることがわかるのです。“ああ、ベトレヘムの羊飼いは、東方の星占いはわたしのことであったのだ”、ということに気づかされるのです。そのような気づきは、わたしたちを決して卑屈にはしません。むしろ、イエスさまが全人類の救い主、わたしの救い主であることを認め、人々と共生していけるようになるということだと思います。これが、本当の意味で、わたしたちが“ともに生きる”という意味なのです。

主の降誕(日中のミサ) 勧めのことば

主の降誕(日中のミサ)  福音朗読 ヨハネ1章1~18節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音は「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」と始まります。そもそも、ことばというものは何でしょうか。ことばの「こと」というのは音のことであり、音が意味をもったものがことばになるようです。ですから、ことばとは意味であるといってもいいと思います。わたしたちは普通にことばを使います。話すだけでなく、読んだり書いたりします。このことはよく考えてみると、非常に不思議なことです。わたしたちはいつどこで、ことばを使い始めたのでしょうか。自分のことを振り返ると、ことばを話す前の子どもであったとき、周りの大人や親から教わったといえるでしょう。しかし、その大人は誰から教わったのでしょうか。「オギャーオギャー」という音だけではことばになりません。音がことばになって意味がわかるようになるのですが、そもそもそのことばが何を意味するか皆がわかっていなければことばにはなりません。例えば神さまといったとき、神さまがいてもいなくても、皆はそれが何を意味しているかわかります。では、皆がわかっているそのことばの意味をだれが決めたのでしょうか。このようなことばの意味の不思議さに気づいた人が、「初めにことばがあった」といい、ことばはわたしが生まれる前より、人間がこの世界に誕生する前に、この世界や宇宙が誕生する前からあったといったのです。ですからその「ことばは神であった」といったのでしょう。

科学が発展したこの世界において、人間はすべてがわかると思っています。しかし、このわかるということは、わたしたちがそのことの意味をわかっているということであり、そのことをわたしたちはことばでわかっているのです。そして頭の中で、ことばで考えて理解しているのであり、ことばにならないものはわからないのであって、わたしたちがことばにすることで、わたしたちの世界が作られていきます。子どもがことばを覚えることで、自分の世界が広がっていく、その世界が作られていくのと同じです。現代人は見えるもの、理解できるものしか信じないといわれていますが、考えてみるとわたしたちは見えなくて、わからないものをずいぶん信じているわけです。愛情とか友情とかは目に見えませんが、それをことばにすることであたかもそれが実在するかのように信じているわけです。ですから、わたしたちはことばによって信じているともいえるのです。確かに友情も愛情も存在していますし、その意味でわたしたちはことばで信じており、ことばがわたしを生かしており、ことばはわたしそのものを作っているといっていいのかも知れません。人がことばを使っているようですが、実はことばが人を作っているのだといってもいいのはないでしょうか。

主の降誕はイエスさまの誕生を祝います。マタイ福音書では、「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからです」といわれ、「その名はインマヌエル」といわれてもいます。イエスという名前は「わたしはあなたを救う」という意味であり、インマヌエルというのは「神は我らとともにおられる」という意味です。ヨハネがいおうとしていることは、先ずことばそのものというものがあって、わたしたちはそのことばによって創られて、そのことばによって生かされているのだということをいおうとしたのだと思います。そのことばそのものである方は、「わたしはあなたを救う」という方であり、「神は我らとともにおられる」といわれる方であるということをいおうとしているのでしょう。そして、そのことばは神であって、光であって、いのちであって、真理であって、恵みであるということをいおうとしているのです。

ことばが光であるということは、その光はすべての暗闇を照らす光であって、太陽のように影を作り出す光ではなく、影を作り出すことがなく、すべてのものを貫く光そのものであり、照らされないということがない、時間と空間を超えた光であるということを意味しています。わたしたちが理解できる光はすべて限界をもった光ですが、この光はこの世界、宇宙をあまねく照らし満たすような光であるということを意味しています。これが、ことばが光であるということの意味です。ですからこのような光はいのちそのものでもあるわけです。わたしたちが理解できるようないのちは、空間と時間の中にある限界をもったいのちですが、この世界にあまねく満ちる光であるいのちは、空間や時間に制約されるようないのちではありません。このいのちには限りがありませんから、永遠のいのちと呼ばれます。この世界は、このような永遠の光、永遠のいのちに満たされているのです。わたしたちはことばそのものが人間となること、つまりわたしたちのことばとなることで、その意味を知らせていただきました。ですから、この永遠の光、永遠のいのちはことばそのものであり、そのことばはこの世界、宇宙を満たしており、それをわたしたちは神と申し上げるのです。

このことばを通してわたしたちに知らせていただいたことが真実であり、真理なわけです。この真理はわたしたちが発見する前から、わたしたちがこの世界に誕生する前からあり、あきらかになっていることであって、わたしが信じる信じないに関係なく、わたしがわかるわからないに関係なく、この世界にあきらかにされており、この世界そのものであるところのものなのです。それがことば-イエスという方によってあきらかにされていくのです。このイエスという方は、「わたしはあなたを必ず救う」という方そのものであり、「わたしは世の終わりまであなたとともにいる」といわれる方なのです。わたしが、信じても信じなくても、わたしがキリスト者であろうとなかろうと、そんなことに一切関係なく、この世界の真実としてわたしたちとなって、この世にこられました。アウグスティヌスはこの真理のことを「おお、古くてまた新しい美、真理よ、わたしはあなたを知り愛することにあまりにも遅すぎました」と嘆いています。この真理に触れた人は、この真理に魅せられて、もはや自分の狭い了見や救いも罪も何もかも吹っ飛んでしまうのです。ことばの力が、わたしたちに日々働きかけ、今わたしのこころを動かすのです。ことばが世界を、宇宙を動かすのです。

イエスという名は、「わたしはあなたを必ず救う」という名、「わたしはあなたとともにいる」という名であり、そのことばがわたしたちのところにこられた、そのことばがわたしに届けられていることがあきらかにされたこと、それが主の降誕です。そして、わたしに届けられているその働きに気づくことが主の降誕を祝うこと、神の恵みというのです。「こうしたら救われる」「ああしたら救われる」というわたしのはからいの世界ではなく、ことばの受肉において、永遠においてすでに実現している真理と恵みに気づかせていただくとき、時間と空間を貫いてわたしの中に永遠が入ってくるというか、今わたしが永遠の中にいることに気づくこと、そのことが救いなのです。これは2千年前の話でも、死んでからのことではありません。今、わたしに起こっていることなのです。ただそこのことを知らせるためにだけ、ことばは人間となられ、わたしたちの中にすべてがあることを教えてくださいました。救いは遠きにあるのではなく、わたしの中にあるのです。

(勧めのことばは主の公現から再開します。)

主の降誕(夜半のミサ) 勧めのことば

主の降誕(夜半のミサ) 福音朗読 ルカ2章1~14節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今は復活祭と並んで大きく祝われる降誕祭ですが、その起源は、ローマ帝国で行われていた冬至の祭りをキリスト教化したのが由来です。元来、古代教父たちはイエスの誕生ということに重きを置いていませんでした。むしろ降誕祭は、キリスト教が広まっていくなかで、人々の慣れ親しんだ冬至の太陽神の祭りをキリスト教化することで、民衆の支持を得るという政治的な意図で始まったものです。それが今では、キリスト教の2大祭日となっています。しかし主の降誕は、主の復活の視点から見なければ意味のないものになってしまいます。そもそも、初代教会はイエスさまの誕生について関心をもっていませんでした。マルコ福音書には、マリアの息子という記述以外、イエスさまの誕生についての一切の記述はありません。初代教会ではイエスさまの出自について、関心がなかったことが分かります。しかし、復活されたイエスさまとの出会いのなかで、人間イエスへの関心がその誕生、出自へと向かわせたというのはわかる気がします。しかし、教会が祝ってきたのは、イエスさまの誕生というより、人間の救いのために神が人類に関わってきた、受肉の神秘であるということです。ですから、降誕祭はイエスさまの誕生日ではなく、神さまの人類への関わりを祝うことが中心です。神が人間となることにより、人間が神の子とされる不可思議な“聖なる交換”を記念します。それでは、その中身がどのようなものであるかを見ていきましょう。

わたしたちは毎年祝うクリスマスのなかで、マリアとヨゼフに見守られた幼子イエス、ベトレヘムの貧しい馬小屋、羊飼いたち、天使たちの歌声など、その温かい心安らぐイメージに親しんでいます。しかし、主の降誕に登場するヨゼフとマリア、ベトレヘムの馬小屋、羊飼いたちは、当時のユダヤの社会のなかでもっとも弱い立場におかれ、貧しく堕落しているものの象徴でした。そもそも、イエスさまがベトレヘムで生まれたということ自体、後代の教会の伝承です。ヨゼフとマリアは人口調査のために本家の村に帰ったわけですが、マリアは出産間際であったのにかかわらず「泊まる場所がなかった」と書かれています。実家の村ですから、親戚や知り合いの家はいくらでもあったはずです。それにもかかわらず、宿屋さえみつけることができませんでした。これはどういうことでしょうか。これは、マリアの妊娠がヨゼフと関係のないものであるということを皆が知っていたということです。ユダヤの伝統では、家族や一族をとっても大切にします。ですから、妻が妊娠しておめでたで、実家に帰るといるというのであれば、一族上げて歓迎するわけです。しかし、ヨゼフたちを受け入れてくれる親族は誰もおらず、宿屋からも断られてしまいます。わたしたちは、マリアの妊娠は天使のお告げであることを知っていますが、当時の人々はマリアの子はヨゼフの子でない不義の子、罪の子であることを知っていたのでしょう。だから、律法に背いた堕落した罪人を受け入れれば、自分たちも汚れるとして、人々はヨゼフたちを受け入れようとしなかったのでしょう。そして、どこにも身を寄せるところがなく、イエスさまは家畜小屋で、“罪の子”として生まれてくるのです。このことを、先ずきちんと押さえておきましょう。

そして、わたしたちが慣れ親しんだ馬小屋も、決して暖かなものではありません。藁だらけの、糞だらけの家畜小屋です。そこでイエスさまは生まれるのです。生まれたばかりのイエスさまを寝かせるための暖かなベッドも布団もありません。家畜が餌を食べる、飼い葉桶に寝かされたと書かれています。家畜の餌皿に寝かされたということです。イエスさまの誕生は、誰からも祝福されない、望まれない、喜ばれない誕生であったということなのです。ヨゼフとマリアにしても、血の繋がりがない子どもの誕生を心から喜べたかどうかわかりません。聖書は淡々と描いていきますから、わたしたちはあまりにも綺麗なベトレヘムの馬小屋の風景に慣れてしまっています。しかしベトレヘムは、いくら金箔をはっても、所詮糞まみれなのです。それなのに、ベトレヘムを美化し、神話化し、崇高な物語のような話を作り上げてきました。糞に金箔をはっても、所詮糞なのです。でも、その糞まみれの現実のなかに来られたのがイエスさまだということなのです。だからこそ、イエスさまはすべての人の救い主であるのです。

 そして、イエスさまの誕生をはじめに知らされた羊飼いも、堕落した人間の代表でした。アブラハムの時代、羊飼いは、ユダヤ民族にとっては誇り高い仕事でした。しかし、カナンに定住していくと農耕牧畜生活に移行していき、そのなかで羊飼いをしている人たちは、本当に貧しい人々か、罪人と呼ばれる人たちでした。そもそも、羊飼いたちは移動して仕事をしていきますから、律法を守るということができません。羊飼いたちは、安息日を守れないのです。ですから、常習的に律法を破らざるを得ません。当時、そのような仕事をする人たちは罪人とみなされていました。生きていくためにどうしてもそのような仕事をしなければならない理由や貧しさを抱えているか、エルサレムなどの都市で犯罪に手を染め、堕ちるところまで堕ちた人たちがつく仕事が羊飼いであったわけです。彼らは生きていくために罪を犯さざるを得なかった人たちだったのです。そのような人たちとは、誰も交際しません。教会は正義と平和については取り上げます。そして、不正義や被害者のことについては考えますが、加害者となった人たちや生きるために罪を犯さざるを得ない人たちのことまで考えようとはしません。それは、自分は加害者にはならない、いわゆる罪人にならないと思っているからでしょう。しかし、イエスさまの誕生を最初に知らされた人たちというのは、社会からも宗教の世界からも堕落していると思われている人たちであったということなのです。わたしたちは、自分の境遇を選んで生まれてきたわけではありません。わたしたちが、今、キリスト者で教会に来ているとしたらそれは偶然であり、たまたまのことなのです。わたしの手柄でも努力の結果などでもありません。イエスさまは、そうしたすべての人の救い主なのです。

 浄土真宗の創始者の親鸞が、阿弥陀如来の本願は「りょうし(猟師、漁師)、商人、さまざまのもの(農民、武士など)は、みな、石、かわら、つぶてのごとくなるわれらなり」といわれました。当時、「りょうし(猟師、漁師)、商人、農民」は、仏教の殺生戒を守れない罪人とみなされていました。しかし、「りょうし(猟師、漁師)、商人、農民」の働きなくして、わたしたちは生きていくことはできません。わたしたち人間は皆、お互いさまで繋がっています。全人類はわたしなのです。ですから、そこでいわれる「われら」は他の誰かのことではなくて、この“わたし”のことなのです。神の子であるイエスさまは、まさに堕落し罪人であるこのわたしのために、不義の子、罪の子、怒りの子(エペソ2:3)としてこの世界に来られたのです。それはわたしたちをその暗闇から解放するためでした。それが、クリスマスの本当の意味なのです。自分だけ清くなってイエスさまを迎えようと思っている人のところにイエスさまは来ることはできません。わたしたちはいくら金箔をはっても、所詮は糞でしかないのです。イエスさまは、そのすべての人間の救いのために、この罪人であるわたしひとりのために、わたしのなかにお生まれになるのです。それが、真のクリスマスの意味であり、イエスさまの復活の意味でもあるのです。