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教会からのお知らせ

年間第26主日の福音と勧めのことば

2022年09月25日 - サイト管理者

♰主の平和

約2か月ぶりにミサの再開です。
教会の聖堂もお庭も、ミサの再開を待ちわびていたことでしょう。
お天気も良くなりました。
教会へは、感染防止対策の上、熱中症防止のためにお水もお持ちになり、お気をつけてお出かけください。

■今後のミサ予定 
ミサ開始時刻が10時30分からに変わりますので、ご注意ください。
「ミサ実施要項」を必ずお読みください。
感染防止対策の上、基本的にはご自分の地区のミサに与ってください。また、どの教会も人数制限などの措置を行っていますのでご注意ください。
京都教区では、主日・守るべき祝日のミサにあずかる義務は免除されています。体調に不安のある方は、ご自宅でお祈りください。

9月
25日㊐ BD地区 年間第26主日のミサ  10:30
10月
1日㊏ BD地区 年間第27主日のミサ  10:30
2日㊐ AC地区 年間第27主日のミサ  10:30
8日㊏ ミサなし
9日㊐ ミサなし
15日㊏ AC地区 年間第29主日のミサ  10:30
16日㊐ BD地区 年間第29主日のミサ  10:30
22日㊏ BD地区 年間第30主日のミサ  10:30
23日㊐ AC地区 年間第30主日のミサ  10:30
29日㊏ AC地区 年間第31主日のミサ  10:30
30日㊐ BD地区 年間第31主日のミサ  10:30

■9月の最終日曜日曜日は、「世界難民移住移動者の日」です。
2022年「世界難民移住移動者の日」教皇メッセージ
「移民や難民とともに未来を作る」
https://www.cbcj.catholic.jp/2022/08/01/25031/

■京都みんなで捧げるミサ 
https://www.youtube.com/channel/UCcpBMMVYqIT3-LkUVGgNFsQ

■年間第26主日のミサ
https://www.youtube.com/watch?v=CpeILWfMyW4&feature=share&utm_source=EJGixIgBCJiu2KjB4oSJEQ

■すべてのいのちを守るための月間(9月1日から10月4日)
https://www.cbcj.catholic.jp/2020/05/12/20724/
すべてのいのちを守るためのキリスト者の祈り
https://www.cbcj.catholic.jp/2020/05/12/20751/

■衣笠墓苑の道路改修工事に伴う通行止めについて
9月30日(金)まで、道路(聖嬰会⇔墓苑)の改修工事のため通行ができません。

■京都教区本部事務局より「衣笠墓苑物故者及び死者祈念ミサ」中止について
11月6日(日)に、カトリック衣笠教会で予定されております衣笠墓苑物故者及び死者祈念ミサ(衣笠墓苑合同追悼ミサ)は、本年も中止いたします。尚、当日、大塚司教によって、京都教区すべての物故者のためにミサが捧げられます。皆様も心をあわせてお祈りください。

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福音朗読 ルカによる福音(ルカ16章19~31節)

[そのとき、イエスはファリサイ派の人々に言われた。]「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。 お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』 金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。 わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、 よく言い聞かせてください。』しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」

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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の箇所も、ルカにだけ見られる固有の箇所になります。このようなたとえ話が書かれた意図は何処にあるのでしょうか。「もし、モーセと預言者に耳を傾けないなら、たとえ死者の中から生き返るものがあっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」という言葉が、今日のたとえ話の結論になると思います。それでは、なぜ人は耳を傾けようとしないのでしょうか。自分は正しいと思っていたり、いつでも聞けると考えていたり、その人の性格などいろいろあるでしょうが、ひとつの大きな理由は、自分は死なないと思っているからではないでしょうか。そこで、「死」というテーマから、今日の箇所を見ていきたいと思います。

人は誰でもが、「人は死ぬ」と頭では分かっていると思います。この不確実な現代世界で100%確実なものがあるとしたら、それはすべての人は例外なく死ぬということです。しかし、その場合の人は他人のことです。なぜなら、わたしたちが体験するのは家族や自分に近い人の死であって、それは他人の死であり、どこまでいっても他人事でしかありません。だから、どうしても自分が死ぬとは思えないのだと思います。

その一方で、どの宗教でも、見てきたような死後の世界の話をします。天国、地獄、煉獄などでしょうか。しかし、死後の世界のことを話しているのは、100%生きている人間です。話しているのが生きている人間である限り、死についても、死後についても客観的に何かを語ることはできません。イエスさまでさえ、生前に一度も死後の世界、死後のいのちについて話されたことはありません。だから、そんなものがあるのかどうか誰も分からないのです。確かに、イエスさまは永遠のいのちについて話されましたが、永遠のいのちとは死後のいのちのことではありません。わたしたちが今生きている、そして、わたしたち生きとし生けるものを生かし、動かし、生死の枠を超えて働きかけている大きないのちの営み、その働きを永遠のいのちと呼んだのです。

生きている人で誰も死んだ人はいませんから、死が何であるか分かりません。だから、死という100%確実な真理であっても、誰も自分のこととして認めたくないのだと思います。他の人は死んでも自分だけは死なない、いつまでも生きていると思っている。医学が進歩し、社会や家庭から死が隠されていけばいくほど、人間が死ぬという感覚を失くしていくのではないでしょうか。またその一方で、現代は自分の「死に方」を自分で決めようとします。エンディングノートを書いたり、終活をしたりします。

多くの人は、他人の死に方をみて、立派な最期だったと言い、あるいは無念な死に方だったといいます。しかし、それは単に「死に方」の問題であって、「死」ではないのです。「死に方」と「死」を混同しているだけなのです。カトリックではどういう「死に方」をするかで、その人の救いが決まってくると考えています。でも、そんなことを誰が決めたのでしょう。安らかな立派な死に方をした人は聖人で、酷い死に方をした人は罪人だとでもいうのでしょうか。それこそ差別ではないでしょうか。わたしたちのイエスさまは罪人として、絶望のうちに死んでいかれたのではないでしょうか。あんな、みじめな「死に方」はありませんでした。しかし、それは「死に方」の問題であって、わたしたちは見た目の現象としての「生き死に」捉われているだけではないでしょうか。

しかし、死はすべての人に平等に訪れます。生きているものは必ず死ぬのです。蓮如上人という方は、「疫癘(えきれい)の御文」の中で、人間は疫病で死ぬのではなく、生まれたから死ぬのであると語っています。人間が死ぬということは、生きているから、生まれたからだという以外の理由はありません。そして、わたしたちが見るのは他人の死だけです。自分が自分の死を見るということはありません。多くの人は、死ぬと自分がなくなるとか、死後の世界に行くなどというイメージを持っていますが、それはあくまでも生きているわたしたちが思っているだけです。教会が教えているから、来世のいのちを信じるということでも構いません。

しかし、そうだとしても、そうでなかったとしても、何であるかわからない死を恐れて、また死後の世界のことを心配しながら日々を過ごすのであれば、わたしたちは何ともったいない生き方をしていることでしょうか。わたしたちは、今というときを生きていないのです。わたしたちが生きるのは、今というこのとき、この刹那を生きることしかできないのではないでしょうか。今日のたとえ話は、わざわざ金持ちとラザロの死後の二人の顛末を話して、生前での善行を促すというような陳腐な教訓話ではありません。あなたがたは、今を生き、今、神のことばに耳を傾けなさい。今、神のことばを聞かないなら、永遠に聞くことはない、と言われたのです。

イエスさまが言われたのは、「聞く」というわたしたちのあり方です。イエスさまは、わたしたちが聞かない存在であることをよくよくご存じでした。あなたがたは、いくらアブラハムが話そうとも、ラザロが生き返って話そうとも、復活されたイエスさまが話そうとも聞かないのだ、と言われたのです。それは、あなたがたは、今というときを生きていないからである、と言われたのです。それは、わたしが死すべき存在であることを受け入れていないから、だからだらだらと生きているのだと。わたしたちは、過去の出来事や失敗、成功に囚われているか、あるいは将来への期待や夢に逃避しているだけで、今というときを生きていないのです。わたしたちが生きているのは、今というこのときでしかないのに、今を生きようとしない。だから、今、聞くということができないのも当然のことなのです。わたしたちが生きているのは、今という一瞬、今という刹那、そこにすべてが、永遠があるのです。

わたしたちは、いつイエスさまと出会い、いつイエスさまに聞くのでしょうか。昨日でしょうか。明日でしょうか。1週間後でしょうか。それとも何年か後でしょうか。わたしたちは、今、生きているこのときしか、イエスさまと出会い、イエスさまに聞くことはできないのです。イエスさまのことばが、今、わたしに聞こえる、このことが救いなのです。そのために、イエスさまは絶え間なくわたしに働きかけてくださっているのです。

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ミサの時間

毎週 10:30~

基本的に第2、第5日曜日のミサはありません。大祝日などと重なる場合は変更があります。