王であるキリスト 勧めのことば
2025年11月23日 - サイト管理者王であるキリスト 福音朗読 ルカ23章35~43節
<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日は、年間最後の主日、王であるキリストの祝日です。イエスさまが王であるというのはどのような意味なのでしょうか。今日はそのことを考えてみたと思います。今日の福音の中で、十字架につけられているイエスさまの頭上には「これはユダヤ人の王」という札がつけられており、十字架につけられている強盗も「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」といい、イエスさまを王として仰いでいる姿が描かれています。普通、王さまがいるということは、国土があって、その国民がいるということになります。イエスさまの時代には、メシアの到来によって神の国が完成するという終末思想が広まっていました。そして、イエスさまご自身、「神の支配」を意味する「神の国」の福音を告げ知らされました。その福音のメッセージの中から、イエスさまがどのような神の国を考えておられたのかを垣間見ることができます。しかし、当時のユダヤ人の考えていた神の国は、あくまでもユダヤ教中心とした覇権主義的なユダヤ人の国家であり、そこに諸民族が集うようなものが考えられていました。そのような国には王さまと国民がいて、そして国土という国境線をもち、その時代の統治形態のもと、国民と国民でない人たちによってわけられている国家を意味します。
しかし、イエスさまが宣教された神の国とは、ユダヤ教という枠組みから出発しながらも、それまでの民族宗教をまったく超え出たものでした。その特徴は、ユダヤ人だけに限定されない、国境線をもたない、生も死も越えたまったく新しい世界であるといえばいいでしょう。イエスさま自身が「神の国は、○○にたとえられる」といわれ、神の国について定義されるということはありませんでした。それは神の国というと、人々は安易に、ユダヤ人の望みが叶い、ユダヤ人の国家が再興され、国民の生活が安定し、その生活が保障されるようなものとして錯覚することを避けるためでした。イエスさまの話された神の国は、ユダヤ人の望みが叶うようなものではなく、またわたしたちの望みが叶うようなものでもありません。国家や領土というような場所とか時代の影響を受けるものではなく、またわたしたちが考えるようなこの世での安寧や死後のいのちを保証するような楽園でも天国でもありません。わたしたち人間はどこまでいっても、自分を中心にしたものの見方しかできません。ですから、神の国について考えるとき、自分たちの望みや願いが叶うようなものとしてしか捉えることができないのです。
そして、自分たちは救われたものとして、神の国の住人であるかのような顔をして、救われていない人に教えを説くという発想になりがちです。よく、カトリックでは、洗礼を受けていない人を未信者といういい方を平気でしていますが、それは、自分たちは洗礼を受けて信者になっているが、あの人たちは未だ洗礼を受けていない、可哀そうな救われていない人たちという前提に立ったいい方です。どの宗教でもそうですが、救われた人と救われていない人、洗礼を受けた人と洗礼を受けていない人、助かった人と助からない人という区別を設けて、自分たちはどこまでも救われた側に立ち、人を助ける側、救う側に立とうとします。これは人を助ける立場に立ちたいという我執から出てくる欲に他なりません。人を助ける立場に立つということで、自分が上に立って救われた立場に安住する、これは宗教のもっとも醜いありさま、迷いの姿に他ならないのです。同じ教えや信仰を共有して満足していく、それは閉鎖的な宗教集団であって、そのようなものを救い、神の国といえるでしょうか。このような自己満足、また集団満足に安住しないということが、救いの道を求める、神の国の建設のために働くということではないのでしょうか。
ですからイエスさまは、神の国の到来を告げ知らされましたが、同時に皆が考えているような神の国の国境を破壊し、神の国の住民登録をなくし、神の国そのものの概念を破壊されたのです。イエスさまご自身が王であることを否定し、十字架によって神である自分自身をも否定されました。神の国は、「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです(ガラ3:28)」というパウロの言葉が実現されたのです。つまり、いかなる区分も差別もない、すなわち国家、身分、性別、学歴がない、救われたものと救われないもの、救うものと救われるものという区別さえ存在しない、もちろん宗教もない、カトリック教会もない、キリスト教もない、そのようなありかたが神の国なのです。イエスさまの死と復活によって、今、その働きがわたしに届いている姿が神の国なのです。
宗教の根本的な使命は、自らがなくなることにあります。自分の宗派の教勢を広げることを目的としているのであれば、それは本当の宗教ではありません。宗教は真実、真理、真如を指し示す指月の指であって、うちの宗派がどう、うちの教会がどう、うちの宗教がどうということが目的にならない、これが本来の宗教です。ですから神の国は、すべてのものにとっての真理だといえるでしょう。イエスさまはその生涯、特にその死と復活によって、イエスさまの働きが一定の場所と時間にしか及ばないという限界を破壊し、すべてのときすべてのところをご自分のいのちと光で満たされました。もはや、その光が届かないというところがない、影というものがない、全宇宙の隅々までその光といのちで満たされたということなのです。ですから神の国はいつ実現するとか、どこかにあるという話ではなく、イエスさまはこの宇宙すべてを満たす働きとなられたということなのです。別の言葉でいえば、イエスさまは十字架の死と復活によって、王であり神であるご自身を否定することによって、神の国の国境をなくし、神の国自体を破壊することで、すべての生きとし生けるものをその働きで満たし、すべての時代にすべての場所に、イエスさまのいのちが、光が届けられている姿が神の国なのです。
「実に、神の国はあなたがたの間にある(ルカ17:20)」のです。しかし、わたしが自分の世界に閉じこもって、自分の頭で理解しようとしている限り、神の国の秘義はわたしにとっては明らかになりません。それにも関わらず、神の国はわたしたちに届いており、その真実に目覚めよと叫ぶ声が届けられているのです。その状態、その働きを指して、神の国というのです。そこには、もはやわたしたちが考えるような国土も国民も王もいないのです。イエスさまはもはや王としてではなく、わたしたちのひとりとして、友としておられるのです。
