年間第3主日 勧めのことば
2026年01月25日 - サイト管理者年間第3主日 福音朗読 マタイ4章12~17節
<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日の福音は、イエスさまの宣教活動がどのようなものであったかが語られていきます。イエスさまの働きが、イザヤ書を引用して解き明かされます。「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射しこんだ」と。ゼブルンとナフタリはイスラエルの12部族であり、ガリラヤ湖の西側の地域を支配していました。いわゆるガリラヤ地方のことになります。ソロモン王の死後、イスラエル王国は北王国と南王国に分裂しますが、ゼブルンとナフタリは北王国に属していました。その北王国の首都がサマリアであり、南王国の首都がエルサレムでした。紀元前722年にアッシリアが攻めてきて、北王国は滅ぼされてしまいます。そのとき、南王国は北王国を助けようとしませんでした。その後、ゼブルンとナフタリには異邦人が入植して同化政策が進められました。エルサレム中心の正統性を主張するユダヤ人からみれば、ガリラヤ地方は正統なユダヤ教でないとして差別され、神の約束と救いから除外されたものとみなされていました。ローマの植民地時代にはいり、ガリラヤ地方はローマ帝国の支配に対するテロ活動の温床となり、ガリラヤ地方は相変わらず、神の救いから退けられ除外された地域とみなされていました。イエスさまが生まれた時代のユダヤ教は分断、差別、憎しみという状況を抱えていたのです。
おおよそ、すべての宗教が根底に抱えている問題は差別、区別という問題です。宗教自体が救いということを取り上げる限り、宗教は差別、区別という問題を避けて通ることはできません。つまり、救いということを取り上げるということは、救われたものと救われないもの、聖なるものと汚れたもの、こちら側とあちら側という区別を作り出していくからです。そして、あなたは救われたといわれることで、自分は救われたのだ、特別なのだという意識を人々の中に作り出していきます。そして、自分は救われたという意識が、自分たちは特別であるという錯覚を人々の中に作り上げてしまうのです。こうなると宗教は麻薬となっていき、人々はそのような宗教の教える救いに依存し、また宗教も人々を依存させることになっていきます。そして、自分たちの宗教的グループの教勢を拡大しようと様々な教えや決まりを作り出していきます。イエスさまの時代のユダヤ教というのはまさにそのような状況でした。宗教がこのようなものであれば、そこで説かれる救いはだんだん狭くなり、勧善懲悪の教え、道徳になっていきます。そして、自分たちのグループに加わり、掟を守ることで救われ、そうでない人は救われないという教えが中心になっていきます。ユダヤ人のそのような状況のなかでイエスさまが説かれたことは、一切平等の救いということです。そのことが「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住むものに光が射しこんだ」ということばで現わされていることです。
そこでは、イエスさまの働きが光として表現されています。聖書の中では、神さまの働きが、たびたび太陽や光として説明されています。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである(マタイ5:45)」。当時の人々にとって、神さまの何ものも区別しない平等な働きを説明するためには、太陽や光のたとえがわかりやすかったのだと思います。確かに、太陽は小さい草花の上にも、大きな樹木の上にも同じように昇ります。この花には光を注いで、この木には光を注がないということはありません。しかし、それでも太陽の光のたとえでは限界があります。太陽の光は、必ず日向と日陰を作り出します。太陽が当たった部分は明るくなりますが、その裏は陰になります。その意味では太陽の光は、すべてのものに平等ではありません。イエスさまが光であるといわれるとき、その光は日向と日陰、光と影という区別を一切作り出さない無量無辺の光であるということなのです。つまり、日向と日陰とか、救われたとか救われないとか、清いとか清くないといった区別を一切作り出さない、すべてのものをそのまま包み込み、すべての闇、罪、悪をも貫き通し、いかなるものも妨げない光であるということです。それが、イエスさまが光であるいわれるときの意味です。光というより、すべてを照らし包み込み、すべてを貫き、すべてを浄める働きであるともいえるでしょう。影を作り出すような有限な光ではありません。その働きを神の国というのです。
しかし、そうなると救いというものを主張する宗教は、自分の中に本質的に矛盾を抱えてしまうことになります。なぜなら、善悪の線を引いて、善人の方に来ることで救われると教えるのが多くの宗教の実態だからです。そこからわかることは、宗教は特定の人たちだけが救われる特別なものだと考えることや、救われるものと救われないものを作り出すこと自体、宗教として矛盾しているということなのです。宗教でありながら、一部の人々の救いを説くとか、自分の救いだけを考えるということ自体あり得ないからです。宗教でありながらそのようなことをいった瞬間に、その教えはまやかしになってしまい、その宗教自体が自己矛盾を抱えることとなってしまいます。イエスさまが宣べ伝えようとされたのは、そのような当時の人たちの間違った宗教観、これこれをした人は救われるとか、こうした人たちは救われないといったような差別や区別を作り出してきた誤った救いの概念を打ち砕くことだったのです。
イエスさまの存在自体が、このように善悪の線を引いて、自分たちは善人の方に入って安心しているような宗教のあり方への根本的な問いかけであったということができます。それは同時に、現代のわたしたち教会のあり方への問いにもなっているのです。イエスさまの登場によって暗闇に光が射しこんだということは、宗教が作り出してきた救いという境界線を破壊し、人間中心の救いの概念から人々を解放する真実が現れたということなのです。その人々を解放する働きを神の国というのです。神の国とは、律法を守った人や洗礼を受けた人だけが救われてはいる天国のようなものではなく、そのような誤った囚われを破壊する働きであり、誤った救いからの解放であるということができると思います。イエスさまの登場によって、そのイエスさまの働き、神の国が、すべてのものに遍く注がれる光として述べられていくのです。
