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教会からのお知らせ

年間第4主日 勧めのことば

2026年02月01日 - サイト管理者

年間第4主日 福音朗読 マタイ5章1~12節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の聖書の箇所は真福八端といわれる箇所です。あまりにもよく知られた箇所ですが、最初に書かれたマルコ福音書に並行箇所はなく、イエスさまに由来しているとはいえ、マタイ共同体の教えを編集したものであると考えるのが一般的です。その特徴は、「あなたがたも聞いているとおり、○○と命じられている。しかし、わたしはあなたがたにいう」というように、イエスさまを新しい律法の制定者と描いていることにあります。しかし、イエスさまは律法を守るか守らないということで、人を区別し差別していた当時のユダヤ教のあり方に対して異議申し立てをされたのです。それゆえに律法の違反者として、十字架刑に送られました。それにも関わらず、イエスさまを新しい律法の制定者として描くことには違和感があります。それは、マタイ共同体の固有の状況が強く影響していると考えるのが妥当でしょう。マタイ共同体にはユダヤ教からの改宗者がたくさんいたのでしょう。

イエスさまの宣教の中心は神の国(マタイでは天の国となっており、天国ではない)の告知であって、ユダヤ教の律法に対して新しい律法を制定したり、新しい道徳律を提示したりするような人間的な次元の話ではありません。イエスさまのいわれた神の国は、人間の努力とか恣意によってどうこうする次元の教えではありません。本来的な神と人との関わり、宇宙や世界とわたしたちの関わり、人と人との関わりにわたしたちを目覚めさせるものなのです。つまり、すでにわたしたちが生かされてあるところの世界の本質について、イエスさまは語られたのだということです。ですから、神の国は律法のような命令ですらありません。マタイもルカも省いていますが、マルコは神の国を成長する種としてたとえています(4:26)。そこで、神の国は、「ひとりでに」「おのずから」成長していくいのちのダイナミズムとして描かれています。そして、イエスさまはご自分の存在をもって、神の国を体現していかれるのです。

わたしたち人間の最大の勘違いは、この世界のすべてを人間が理解し、支配し、コントロールし、努力でやっていくことができると思い込んでいることです。しかし、この世界に自分の意志で生まれてきた人は誰もいません。また、頑張って死んでいく人もいません。本来のいのちの世界は「おのずから」なのです。それに最大限に抵抗して抗っている生命体が人間なのです。その抗いは文明の発展をもたらしたかもしれませんが、同時に多くの人々、動植物の犠牲の上に成り立ってきました。それが様々な問題を引き起こしてきたのです。そこで、イエスさまはすべてのものの上に等しく昇る太陽や降り注ぐ雨として、神の国の働きを示されたのです。しかし、人間はそのことが理解できません。イエスさまとともに生活した弟子たちも理解できませんでした。その様子が、福音書の中には赤裸々に描かれています。

イエスさまのことは、イエスさまが亡くなった後、復活したイエスさまと出会ったパウロなどによって、イエスさまの神の国の教えとして再構築されていったといえばいいでしょう。今まで律法を守ることで自分たちは選ばれ、救われ、神によって嘉せられると幾世代にもわたって教え込まれてきたユダヤ人が、そう簡単にイエスさまの神の国の教えを受け入れられたとは思えません。しかし、その弟子たちを大きく変えた出来事が、復活したイエスさまとの出会いです。それは、イエスさまとの直接体験ともいえる出会いの体験でした。それが何であったかを説明することは簡単ではありませが、そこで「聖霊」が働いておられます。わたしたちの努力とか修行とかは関係がない、まったく関係ないとはいいませんが、人間の行為の結果ではなく、本来の世界である神の国はそうであるということに気づかされる体験だったといえるでしょう。

イエスさまの神の国のメッセージ自体は、人間の概念をまったく超えたものです。ですから、真福八端の箇所を道徳やイエスさまの命令であると捉えてしまうと、何もわからなくなります。多くの場合は、努力して修行をして、心の貧しい人になれ、心の清い人になれ、平和を作り出す人になれ、そうすれば神の国に入れるとか、神の国の住人だと話されることがほとんどです。あるいは、社会貢献して、現代社会を変革していくスローガンとして理解されがちです。マタイ福音書は概してそのように捉えられがちな書き方をしているのですが、もちろんそれは大切なのですが、神の国の本質はそうではないのです。一般的に、人間は自分が理解できない出来事や事象に直面するとき、そのことをそのまま受け取るのではなく、自分流にわかりやすく解釈しようとします。つまり、自分が納得できるように、皆に教えやすいように解釈し平坦化しようとします。それは多くの場合、本質を歪曲させることになってしまいます。カトリック教会もその例外ではありません。

ですから、神の国とは何ということを人間に分かりやすく説明することは、当然リスクが伴うわけです。マタイの真福八端の中にはいろんなものが混在していますから、人間が聞いてわかるものもあるし、わからないものもあります。心の貧しい人、悲しむ人、義のために迫害される人は幸いというのはわからない。しかし、柔和な人、義に受け渇く人、憐れみ深い人、心に清い人、平和のために働く人は幸いというならわかる。なぜなら、わたしたちはそのような人になることで神の国に入ることができる、あるいはそれは教会の使命だというように捉えると理解できるからです。しかし、イエスさまがいいたかったことは、努力して頑張ってそのような人になれとか、それは教会の使命であるといわれたのではありません。そうではなく、神の国に目覚めた人、そのことを自覚した人はそのようになる、それが人間の本来の姿、つまり幸いであるといわれたのです。ですから、復活されたイエスさまと直接体験をした人たちは、神の国の真実に目覚め、福音書という時系列のイエス物語がなくても、生き生きとしたイエスさまとの関わりを感じることができ、そのような人と人とがつながりの輪が自然と広がっていきました。しかし、世代が下っていくに従って、神の国の直接体験が言語化され、概念化されていきます。マタイ福音書はイエスさまが亡くなってほぼ半世紀後に書かれていくのです。そこでは、神の国の直接体験が伝わっていくのが非常に難しくなっていき、イエスさまの教えが道徳化され概念化され組織化されていくのです。しかし、イエスさまとの関わりは道徳とか教義、組織ではありません。

大切なことは、真福八端を読むときにこれをイエスさまの命令だとか理想として聞くのではなく、わたしたちを存在の根底において生かし、支えている世界としての神の国の真実として受け取っていくということなのです。わたしたちが頭で理解すること、神の国を自分に引き寄せて理解するのではなく、わたしたちは神の国という真実に自分を投げ込んでいくというか、聖霊の促しによってそれを体感するということなのです。そうすると、頭で考えて教えだからこうしなければならないというのではなく、こころとからだがひとりでに動き出します。神の国が場所とか制度とか掟ではなく、わたしたちを生かしているいのちの働き、営みであるということをわたしたちが体験することになります。そこで、神の国の真実がおのずからわたしたちに明らかにされていくのではないでしょうか。

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