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教会からのお知らせ

年間第5主日 勧めのことば

2026年02月08日 - サイト管理者

年間第5主日 福音朗読 マタイ5章13~16節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音では、「あなたがたは地の塩、世の光である」といわれています。今日の箇所で大切なことは、イエスさまは「あなたがたは地の塩、世の光である」といわれたのであって、「あなたがたは地の塩、世の光になりなさい」といわれたのではないということです。多くの場合、わたしたちは聖書のいろいろな箇所を読むとき、それをイエスさまからの命令、掟、「○○しなさい」、あるいは「○○になりなさい」というように読んでしまいます。確かに、聖書の中で「○○しなさい」という箇所もあるのですが、そうするとイエスさまの教えというものは、道徳的な規範や掟を指示したということになってしまいます。道徳を教えるだけであれば、いろいろな時代の偉人たちの教えもあり、旧約聖書の律法だけでも充分なはずです。イエスさまが教えたことは、道徳や人の道ではないのです。今日の箇所も間違って読むと、あなたがたは頑張って地の塩、世の光になりなさい。そうしてあなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。そうすれば、人々はあなたがたの立派な行いを見て、神さまをあがめて、人々が教会に来るでしょう、といった間違った自己中心的な宣教観をもってしまうことになります。その時点で、教会は慈善団体かNPO法人になってしまいます。確かにその方が多くの人にわかりやすく、教会でもそのような謳い文句でことがなされることが多いように思いますが、それでは宗教ではなくなってしまいます。

イエスさまがいわれたのは、あなたがたは自分の力で頑張って世の光になれ、地の塩になれ、人々の模範になれ、奉仕者するものになれ、社会貢献しなさいといわれたのではないということです。実はイエスさまとの関わりを深めていけば、わたしが世の光、地の塩になるなんてことは間違ってもあり得ないことが知らされてきます。なぜなら、イエスさまと出会えばわたし自身が知らされ、わたしたちが自分のこころをどうにかして、イエスさまの方に近づこうとすること自体が迷いであるということが知らされてくるからです。いろいろな努力や修行をして自分のこころを何とかしていこうというのは迷い、罪の中で最たるものは傲慢に他なりません。方向がまるで違うのです。わたしが世の光、地の塩になるのではなく、世の光、地の塩であるイエスさまご自身が、わたしを通して現れてくることを宣教というのです。イエスさまがわたしの中で働かれることが宣教であって、わたしが自分のこころをどうにかしようと思っていることが間違いなのです。その間違いに気づくときに、ふっとわたしの中でイエスさまが働いて、光を輝かせてくださる、塩味をきかせてくださるということなのです。宣教といいながら、わたしというものが前面に出ているのであれば、それは自我の匂いがプンプンして、イエスさまは働けませんし伝わりません。

「伝わるはよし、伝えんとするは悪し」ということばがありますが、光は自ずから自然と周りを照らしていきます。「『山の上にある町は、隠れることができない』『ともしびは、燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものをすべて照らすのである』」というときの「そうすれば」は恣意的な結果を意味することばではなく、「自ずから」という意味です。光は、頑張って周りを照らしてやろうとかいうような自我はありません。ですから自我の匂いも、己のはからいもありません。「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」と訳されている言葉は不正確な訳であって、「あなたがたの光が人々の前で輝くようにせよ」という意味であって、わたし個人の恣意的な働きを命じるものではなく、わたしに与えられている光そのもののもつ自ずからの働きを発揮させなさいという意味なのです。わたしたちはその働きを妨げないようにということなのです。

イエスさまは「あなたがたは、頑張って、努力して、地の塩、世の光になりなさい。そして、頑張って神の国をいい広めなさい」といわれたのではありません。そうではなく、「あなたがたは気づいていないかもしれないけれど、あなたがたは地の塩、世の光になっている。あなたがいるというそのことだけで、あなたの存在は他の人を生かし、光となっている。あなたは他の人、この世界、この宇宙のためになっている。同じように他の人々も、他のいのちもそうだ。そして、あなたも他の人から生かされ、光を受けているのだ」という意味なのです。このようなわたしたちとこの世界の、この宇宙とのあり方をイエスさまは明らかにしようとされたのです。塩を塩足らしめているのは、塩味を感じるものです。塩味を感じるものがあってはじめて、塩は世の塩となるのです。光を光足らしめているものは、光を受けるもの、光によって照らされるものです。光を感じるものがあってはじめて、光は世の光となるのです。この世界で何も自分ひとりだけで存在しているものはありません。すべては、お互いの繋がりの中に生きているということなのです。

わたしたち人間も、自分ひとりだけで生きていくことはできません。わたしの体内にいる何十兆個の細菌やウイルス、空気、水、光、ありとあらゆる物質を構成する素粒子等を排除し、「わたしが」と意識している存在だけでは生きていくことができないのです。わたしとこの世界はすべて繋がっており、わたしたち人間が勝手に環境と呼んでいる周りすべてのものがわたしを形作っており、環境なしにわたしは存在し得ず、わたし自体が環境、生態系のひとつなのです。そしてこの全宇宙とわたしとは繋がっており、このわたしひとりを生かせるために全力で働いてくれているのです。そのことがはっきりわかると、わたしの中で働いている光も塩味もわたしのものでないことがわかります。そのことに先ずあなたが気づき、わたしたちは生かされている、そしてお互いに生かし合っている、そのことを皆に明らかにしなさいということなのです。その気づきを失わせるものが、「わたしが」という意識であり、その「わたし」という意識が、わたしと「わたしでない」世界とを分け隔ててきているのです。この「わたし」を破る働きが、神の国の福音に他ならないのです。

神の国の福音は難しいことではありません。難しくさせているのはわたしが何とかしようとするわたしの思い、わたしのはからいです。わたしたちが地の塩、世の光にならなければならないと思わなくても、わたしたちはすでにイエスさまの光によって照らされ、塩味をつけられているのです。それはあたかも太陽の光を受けて輝く月のようなものだともいえるでしょう。月が輝いて見えるのは太陽の光を受けているからであって、月自体が輝いているわけではありません。たとえわたしたちが、照らされている、塩味をつけられていると感じないとしても、確かにわたしたちはイエスさまによって照らされ、塩味をつけられているのです。それがイエスさまの働きであって、わたしたちの思い、感覚とは関係がないからです。そのことを、先ずわたしが気づかなければ、わたしは闇の中に沈んだままです。しかし、そのことに気づき、そのことを味わうときに、光はわたしを通して自ずから広がっていくのです。わたしたちにとって大切なことは、光であるイエスさまによって照らされたままであること、真理であるイエスさまによって塩味をつけられるままになることなのです。

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