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教会からのお知らせ

復活節第2主日 勧めのことば

2026年04月12日 - サイト管理者

復活節第2主日 福音朗読 ヨハネ20節19~31節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音では、イエスさまが十字架の上で亡くなられた後の日曜日の夕方の出来事が描かれます。弟子たちはすべてが終わってしまった、自分たちの先生は十字架につけられてしまい、今度は自分たちに追手が及ぶかもしれないと恐れて、家の戸に鍵をかけて閉じこもっています。その弟子たちは、保身に走りイエスさまを見捨てて逃げてしまった弟子たちです。その弟子たちと復活されたイエスさまとの出会いが描かれていきます。家の戸に鍵をかけて閉じこもっている弟子たち、これはまさしくわたしたち人間の姿でもあります。弟子たちはイエスさまを裏切ってしまったという自責の念に苛まれ、次は自分たちに追手が及ぶかもしれないという二重三重の恐れと後悔という闇の淵に沈んでいます。イエスさまが十字架の上で死んでしまった以上、もはやイエスさまにゆるしを乞うとか、和解するという、自分たちからの手立てをすべてなくしてしまった状態です。

わたしたちはいろいろな困難に直面するとき、それなりにやり過ごしていく業を身に着けています。しかしわたしたちは、人間の力だけではどうしてもやり過ごすことができない状況を、人生の中で何度となく体験します。聖書ではそれを闇とか、罪とか、死と表現し、わたしたちのことばでいえば四苦といわれる生老病死がそれにあたります。どのようにしても、わたしたちの力が及ばず、わたしたちからそれを突破する手立てがない状況をあらわしています。このような中で、わたしたちはどうするでしょうか。わたしたちはとにかくもがき苦しみますが、やがて自分たちの方からは何の手立てもないという現実を受け入れざるを得なくなります。そのとき、“イエスが来て真ん中に立たれる”のです。もはや、あちら側から手が差し伸べられてくること以外にはないのです。それが、イエスさまの方がわたしに出会いに来られる、関わって来られるということなのです。イエスさまを知らない人であれば、真理が明らかにされるといってもいいでしょう。

今日、描かれる弟子たちとイエスさまとの出会いは、決してわたしたちが普通に誰かと出会うような次元の話ではありません。わたしが望んだから、わたしが頑張ったからできるようなものではないのです。ただ、一方的に与えられてくるものなのです。これを恵みというのです。ただ今日の聖書朗読にあるような出会いが、聖書の中で描かれている具体的なことがあったかどうかはわたしたちにはわかりません。多くの場合、聖書の記述をあたかもそのまま起こった物語のように解説されてしまいます。最初のときトマスはいなくて、一週間後にトマスがいて、トマスがイエスさまの手とわき腹の傷跡に指を入れるとかいう生々しい話です。それをまた、そのままあったかのようにリアルに説明する。しかし、そのようなことがあったかどうかは、わたしたちにとって大切なことではありません。それなのに、そのような特殊な体験ができることをお恵みだとか、特別なことだとか考えてしまう、愚かなことです。そんなことがあったとしても、それがイエスさまであると誰も証明できません。単に自分がそうであると思い込んでいるだけかもしれません。それは信仰とは関係ないのです。

わたしたちは誰も生前のイエスさまと直接に出会った人はいません。わたしが出会うのは復活されたイエスさまです。復活されたイエスさまであるということは、いつでもどこでも、どの時代に生きていても、すべての人が出会うことができる方であるということです。より正確にいうならば、わたしたちの方からイエスさまと出会えるための手立てというものは何もありません。しかしイエスさまが復活されたということは、イエスさまは二千年前のユダヤの一部の限られた人としか出会うことができなかったイエスさまではなく、時間と空間を超えてすべての人のイエスとなられたということなのです。つまり、すべての人はイエスさまによって関わられている、イエスさまの働きがすべて人に及んでいるということなのです。わたしたちの方からイエスさまと出会うことを望んでも望んでいなくても、またイエスさまのことを知っていても知らなくても、イエスさまはすべてのところのすべての時代の人々に関わっておられるということなのです。イエスさまによって関わられていない人は誰もいない、善人悪人の関係もない、洗礼の有無も関係ない、罪の有無にも関係ない、イエスさまによって愛され救われていない人は誰もいないということなのです。このことがわたしの何かによって変わるということはありません。わたしの努力とか精進によってどうこうなることでもありません。イエスさまがわたしのことを知っておられ、愛しゆるし、関わっておられる、イエスさまは愛の働きとして、その働きがすべての生きとし生けるものに及んでいるのです。そのイエスさまと出会うこと、それはわたしが出会いにいくのではなく、イエスさまがわたしに出会いに来られるのです。教会は長い間、救われる人は特定されており、救われるためにわたしは何かをしなければならないという予定説に苦しめられてきました。しかし、それはイエスさまではないのです。

このような体験は特別ではなく、すべての人のうちにイエスさまと出会う力が賦与されているのです。ただそれはわたしの力ではなく、イエスさまがわたしと出会いたいという願い、わたしとの出会いに飢え渇いておられる、その渇きがわたしたちに振り向けられているのだということなのです。わたしの方から、イエスさまと出会うための手立ては何もありませんが、イエスさまの願いがわたしの中に振り向けられており、それがわたしの中で起動させられるとき、信仰という形をとるということなのです。だから、わたしが信じるのではないのです。わたしの信仰などありません。イエスという名は、「わたしはあなたを救う」という願いであり、働きであり、イエスさまがわたしたちを救い取って捨てない、人類最後のひとりが救われるまで働き続けるというイエスさまのお約束がわたしたちに届いていること、それが救いであり、信仰なのです。ですから、わたしたちを信じさせるよう働いておられるのはイエスさまに他ならないのです。

わたしたちはイエスさまのことを知って、考えて、信じて助かるのではないのです。わたしはあなたを救うといわれている方の名を聞くことによって救われるのです。キリスト教は、イエスさまという救い主を知って、勉強して、洗礼を受けて救われると思っているのであれば、その人はイエスさまのことを何もわかっていません。わたしたちはイエスさまを思うとか、信じるといいながらも、悲しいかな、結局はイエスさまを信じている自分を信じているのに過ぎません。わたしたちの罪、わたしたちの闇の根っこにあるのは、その自我、エゴなのです。家に鍵をかけて閉じこもっているのはわたしで、そこには自分しかいないのです。そして自分にかがみこんでいるわけですから、そこには自分の陰でできた闇しかありません。だからそのようなわたしがイエスさまを信じるとか、イエスさまのことを思うなどということは不可能なのです。ただ、わたしが頭の中でイエスさまのことをぐるぐる考えているだけです。これを黙想だという人がいますが、それは違うように思います。わたしの方からイエスさまに向かう道はありません。イエスさまの方からわたしの方に来てくださる道だけしかないのです。この真理の前に、わたしの方から何かできると思うのは、すべて錯覚です。犠牲とか、祈りとか、隣人愛を実践することで、わたしがイエスさまに向かっていこうとすることは大切であるとしても、わたしの力でできるものではないのです。怖いのは、そのようなことを行うことで自分はイエスさまに向かっているのだ、それが信仰だと勘違いしていることです。本質的にキリスト教はすべて、真理であるイエスさまがわたしたち人間の方に来られるという、ただひとつの大道しかないのです。そのことを今日の福音は語っているのです。わたしたちがエゴを離れるという必要性や方法論があるのはそうでしょう。しかし、キリスト教では、いずれにしてもイエスさまの方から来ていただく道しかありません。今日改めてそのことを抑えておきたいと思います。

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