四旬節第4主日の聖書朗読と勧めのことば
2020年03月22日 - サイト管理者高野教会の信徒の皆様
高野教会のお庭は春の日差しに花々が咲き始め、マリア様のご像のところの桜のつぼみも膨らんできています。いかがお過ごしでしょうか。
ミサのない四旬節となりました。主日の聖書の個所を読んで、黙想するということが勧められていますので、その一助となればと思い、今週もメールを送信いたします。(送信しましたメールをHPにも掲載いたします)
一日も早くこの状況がよくなり、教会に集うことができますように心を合わせて祈ります。
カトリック東京大司教区では、ミサの動画配信が行われています。
中継のミサに与って、霊的聖体拝領をすることもできます。
https://tokyo.catholic.jp/info/diocese/37327/
どうぞくれぐれもご健康に留意なさり、祈りのうちに四旬節をお過ごしくださいませ。
高野教会役員会
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第1朗読 サムエル記 (サムエル上16章1b、6~7、10~13a節)
(その日、主はサムエルに言われた。)
「角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした。」
彼らがやって来ると、サムエルはエリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思った。しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。
人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」
エッサイは七人の息子にサムエルの前を通らせたが、サムエルは彼に言った。「主はこれらの者をお選びにならない。」サムエルはエッサイに尋ねた。「あなたの息子はこれだけですか。」
「末の子が残っていますが、今、羊の番をしています」とエッサイが答えると、サムエルは言った。
「人をやって、彼を連れて来させてください。その子がここに来ないうちは、食卓には着きません。」エッサイは人をやって、その子を連れて来させた。彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。主は言われた。「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。
サムエルは立ってラマに帰った。
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第2朗読 使徒パウロのエフェソの教会への手紙 (エフェソ5章8~14節)
(皆さん、)あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。――光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。――何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。
「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。
そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」
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福音朗読 ヨハネによる福音 (ヨハネ9章1~41節)
(そのとき、)イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って
洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、
『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。
人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。
それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、尋ねた。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。
さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」すると、彼らは言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。
イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」
イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」
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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗
教会共同体としてミサを祝えない状況が続いています。そのような時であるからこそ、わたしたちはミサの中で通常、みことばの食卓と聖体の食卓で養われていることを思いだし、聖書を読み、黙想することで、みことばによって養われることの重要性を意識していきたいと思います。
今日の朗読個所は、生まれつき目の見えない人が見えるようになる個所が朗読されます。ここでひとつの大きなテーマは、罪とは何かということです。弟子たちがイエスに、「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」と問うています。今回のコロナウイルスの感染で主日のミサが中止されています。そして、多くの教区からの文書で、主日のミサの義務を免除しますという表現が出てきます。その背景にあるのは、主日のミサに参加しないのは罪であるという考え方に基づいています。それでは、主日のミサに参加しないことは罪なのでしょうか。イエスさまが罪を犯す機会としてミサを制定されたのでしょうか。ここに、根本的な罪についての無知、また誤った理解が教会の中に広まっていることが分かります。罪を犯すと天国に行けないというあまりにも幼稚な教えが、教会の中に広がった結果です。
わたしたちも、弟子たちが「この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか」と問うているのと同じレベルではないでしょうか。ユダヤ人たちは目が見えないということがいけないこと、神からの罰だと考えていたからです。しかしそれに対してイエスは、「…罪を犯したからではない。神の業がこの人に現れるためである」と答えます。神の業については、ヨハネ6章29節に「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」とはっきりと述べられています。つまり、この人が生まれつき目が見えなかったのは、イエスさまを信じること、イエスさまと出会うためであるということです。ここで、すべてのことがはっきりしてきます。わたしたちが受けている状況、それが生まれつきのものであれ、生まれた後にわたしが被ったことであれ、それが人間の視点からすればよいもであっても、よいものでなくても、受け入れがたく、自力ではどうすることもできないもであったとしても、それは唯々、イエスさまを信じるため、イエスさまと出会うためのチャンスであるということです。これ以上に、明確な答えはありません。だから、ミサも同じです。ミサに参加するのはイエスさまを益々信じ、イエスさまと出会うため以外のものではありません。今、教会共同体としてミサが行えない状況が続いています。しかし、わたしたちは今日のみことばを通して、わたしたちが置かれている如何なる状況であっても、それが非常に劣悪で過酷なものであったとしても、またそれがわたしたちが納得できないもの、たとえそれがわたしたちの罪であったとしても、それは唯々イエスさまを信じ、イエスさまと出会うための契機になるのだということです。わたしたちの外にあるものも内にあるものも、いかなるものもわたしとイエスさまとの出会いを妨げ得るものは何もないということです。これは不正義や悪を容認することではなく、自分のあり方、他者と社会との自分の関りを問うことでもあるのです。
ただ、もし妨げがあるとしたら、「我々も見えないということか」というファリサイ人に、「見えなかったのであれば罪はなかったろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている」ことこそが妨げであり、真の罪であると指摘されています。わたしたちがまた教会が、イエスさまのことを分かったつもり、見えているつもりになって、自分たちこそ真理を所有し、正義を行っており、正しい教えを所有していると思っている傲慢こそが真の罪なのだといえるでしょう。わたしたちは本当にイエスさまのことが見えているのでしょうか。分かったつもり、見えているつもり、問題はないと思っているだけではないでしょうか。今日はまず、わたしの足元を見てみたいと思います。そして、イエスと出会い、その己の姿に気づくとき、その囚われから解放され、そこから新しい人生、福音宣教が始まるのです。