四旬節第5主日の聖書朗読と勧めのことば
2020年03月29日 - サイト管理者高野教会の信徒の皆様
四旬節第1主日のミサが行われたあと、ミサができなくなり、あさっての日曜日は早や四旬節第5主日となります。
日曜日以外でも多くの方の出入りがある高野教会の聖堂もお庭も、一日も早く信徒の皆様が集えるようになることを静かに待っています。
司教様からの4月5日以降の対応が発表されました。
まだしばらくは教会に集うことはできませんが、祈りのうちに繋がり合いたいと思います。
カトリック東京大司教区では、ミサの動画配信が行われています。
中継のミサにあずかって、霊的聖体拝領をすることもできます。
https://tokyo.catholic.jp/info/diocese/37327/
どうぞくれぐれもご健康に留意なさり、祈りのうちに四旬節をお過ごしくださいませ。
高野教会役員会
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第1朗読 エゼキエルの預言(エゼキエル37章12~14節)
主なる神はこう言われる。わたしはお前たちの墓を開く。わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。また、わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。わたしはお前たちを自分の土地に住まわせる。そのとき、お前たちは主であるわたしがこれを語り、行ったことを知るようになる」と主は言われる。
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第2朗読 使徒パウロのローマの教会への手紙(ローマ8章8~11節)
(皆さん、)肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。
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福音朗読 ヨハネによる福音(ヨハネ11章1~45節)
(そのとき、)ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。
それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」
イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。
この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。
さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。
イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。
マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。
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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日はラザロのよみがえりの個所が読まれます。この個所を読むにあたって注意しておかなければならないのは、イエスさまがラザロをよみがえらせたことによって、人類が誕生以来し、苦しんできた老病死がなくなったということではないということです。イエスさまは、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるためである」と言っておられます。その意味は何か、それを今日は味わってみましょう。
イエスさまによってラザロは生きかえらされます。しかし、ラザロはその後、死ななくなったのではなく、生命体としては死を迎えたことには変わりがありません。それでは、何が変わったのでしょうか。人類にとって老病死は最大の苦しみです。しかし、イエスさまの十字架の贖いと復活によっても、この人類の苦しみは拭い去られませんでした。イエスさまが十字架で亡くなられた次の日も、何もなかったかのように日が昇り、人々の営みは続き、人々の苦しみもなくなりませんでした。イエスさまはわたしたちの救い主であるといわれていますが、どのような意味で救い主なのでしょうか。マリアとマルタのように、「主よ、あなたがここにいてくださったら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言って、わたしたちの老病死や様々なく苦しみを取り去ってくださることが救いなのでしょうか。普通わたしたちは誰もが、歳をとりたくない、病気になりたくない、死にたくないと思います。苦しいことは避けようとします。これは人間として当たり前のことです。でも確かなことは、わたしたちは歳を取るし、病気になる、そしてやがて死んでいく。苦しいことは嫌だといっても苦しいことの方からやってくる。わたしたちは歳をとり、病気になり、やがて死んでいく、そのことを苦しいと感じることはわたしの人生そのものでもあるのです。
イエスはラザロが葬られている墓に行って、「その石を取りのけなさい」と言われます。老病死や苦しみは、わたしたちの人生に大きな重石のようにのしかかっています。ここに出てくる石は、死の世界と生の世界を隔てている壁のようなものだともいえるでしょう。イエスさまはその2つの世界を分けている壁を取りのけなさいと言われているように思います。2つの世界を作り出し、区別しているのは誰でしょう。それは紛れもなくわたしたち人間自身です。わたしたちは生物体としての生と死を分けて考えていますが、イエスさまの世界から見たら、わたしたちは生も死もない永遠のいのちを生きているものに他ならないのです。イエスさまは祈ります。「わたしがこういうのは、周りの群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らが信じさせるためです」と。ヨハネの17章3節に、「永遠のいのちとは、唯一の真の神であられるあなたと、あなたをお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」とはっきりと書かれています。わたしたちがイエスさまを信じてこうして生きていること、このいのちこそが永遠のいのちなのです。つまり、すべての生きとし生けるものは永遠のいのち、神のいのちのうちにあり、神のいのちを生きているのです。そのことを知ること、信じることが救いなのだとイエスさまは言われます。
イエスさまは人々にラザロを「ほどいてやって、行かせなさい」と言われます。その意味は、まさに生と死を分けて考え、老病死を苦しみととらえ、その重みに耐えかねているわたしたちの重石を取りのけ、その呪縛から解放されなさいといわれるのです。老病死、その他のもろもろの問題や苦しみであることには変わりがありません。しかし、老い、病み、死ぬことも、でこぼこの道や曲がりくねった道もそれもまたわたしの人生なのです。そして、その人生は、イエスさまの大きなみ手のうちにあり、わたしたちが既に生きている永遠のいのちの一部に過ぎないです。わたしたちはこの世に生まれてくることを通して、イエスさまとの出会い、そのことを知らされました。わたしたちの人生は、わたしたちのいのちの意味を知るためだったのではないでしょうか。イエスさまと出会い、イエスさまを知るためにわたしたちの人生が与えられてきたのです。出会いは恵みです。わたしたちの力の及ぶところではありません。ラザロのよみがえりの話はわたしたちにそのことを教えてくれています。わたしたちは直ぐに復活祭を迎えます。ご自分の死を通して復活し、わたしたちをご自分のいのちで生かし続けてくおられるイエスさまと既にあることの喜びをかみしめてみましょう。