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教会からのお知らせ

復活の主日の聖書朗読と勧めのことば

2020年04月12日 - サイト管理者

高野教会の信徒の皆様

主のご復活のお喜びを申し上げます。
教会でご一緒に復活祭をお祝いできないのは大変残念ですが、祈りの中で繋がりながら、イエスさまのご復活をお祝いいたしましょう。
一日も早くこの状況がよくなり、教会に集うことができますように心を合わせて祈ります。

カトリック東京大司教区をはじめ、いくつかの教区では、ミサの動画配信が行われています。
復活祭のミサも配信されるところがあります。
中継のミサに与って、霊的聖体拝領をすることもできます。

https://tokyo.catholic.jp/info/diocese/37890/

どうぞくれぐれもご健康に留意なさり、祈りのうちに喜びの復活祭をお過ごしくださいませ。

高野教会役員会

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4月12日(日) 復活の主日

第1朗読 使徒たちの宣教 (使徒言行録 10・34a、37~43)
(その日、)ペトロは口を開きこう言った。
「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。あなたがたはご存じでしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。つまり、ナザレのイエスのことです。
神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、
悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です。人々はイエスを木にかけて殺してしまいましたが、神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対してです。そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。」

第2朗読 使徒パウロのコリントの教会への手紙 (1コリント5・6b₋8)
(皆さん、)わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。

福音朗読 ヨハネによる福音 (ヨハネ20・1~9)
週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。 「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。

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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗
毎年、復活の主日の福音朗読はヨハネの個所が読まれます。
今年はコロナウイルスの感染拡大のために、教会共同体として皆が一緒にイエスさまの復活をお祝いすることができません。でも、2000年前のイエスさまの復活もきっと誰もが祝うということがない、ひそやかな復活だったのではないかと思います。わたしたちは毎年、盛大に復活祭をお祝いします。しかし、あの時のイエスさまの復活は誰も知らない、静かな出来事だったのではないでしょうか。イエスさまが十字架の上で亡くなり、墓に葬られた後も、同じように日が昇り、同じように人々の営みが続き、人々の苦しみも続いていきました。そして、いつもと何も変わらない日曜日の朝が来ました。それがイエスさまの復活の日曜日でした。
なぜならイエスさまの復活は、皆が見て確かめられることのできるような出来事ではなかったからです。今日読まれた福音は、日曜日の朝早くに、マグダラのマリア、ペトロともうひとりの弟子がイエスさまの葬られた墓に行きましたが、イエスさまのご遺体がなくなっていたそれだけのことしか書かれていません。彼らの心の中には、イエスさまが復活されるという考えは一切見られません。彼らはイエスさまが死んでしまったとの絶望の淵に突き落とされたままでした。彼らにとってはイエスさまの十字架の死は、自分たちが尊敬していた先生の活動の失敗、挫折でしかなかったからです。「神と民全体の前で、行いにも、言葉にも力ある預言者(ルカ24章19節)」であったイエスさまが、死を前にして全く無力になってしまわれた、そのイエスさまの屈辱、苦しみ、死は弟子たちを闇の中に突き落としてしまいました。イエスさまのご遺体がなかったこと、墓が空になっていたという事実さえも、彼らに光を与えることはできなかったのです。「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、理解していなかったのである」。彼らはこの闇の中にとどまったままなのです。
イエスさまは復活され生きておられます。しかし、弟子たちの目は遮られていて、その光を見ることができません。イエスさまは復活され、すでに弟子たちはイエスさまの光の中に納め取られているのにもかかわらず、その光が見えません。イエスさまが復活されたということは、歴史的に証明できるような事実ではありません。むしろ、イエスさまの十字架の意味を理解することによってのみ、わたしたちの中にイエスさまの復活が現れ出ると言っていいでしょう。イエスさまは十字架にかかられることによって、人間として堕ちることのできる最も底まで堕ち、イエスさまは本当にわたしたちのひとりとなられました。イエスさまはわたしとなられたのです。闇の中でもがいているすべての者とひとつとなられたのです。だから誰も、今後「イエスさまはわたしのところには来てくださらない。わたしと出会うために、わたしのどん底まで降りてきてくださらなかった」とは言えないのです。なぜなら、誰もイエスさまが堕ちられたそのどん底まで、堕ちることはできないからです。これがイエスさまの十字架です。十字架はイエスさまの愛の完全な啓示、イエスさまがわたしとひとつになられたということなのです。イエスさまの復活とは、このイエスさまの完全な愛が、わたしたちに大接近し、光となってわたしたちをすっぽりと覆いつくしたということです。わたしたちに残されていることは、わたしたちがその光に目を開くということです。
しかし、わたしたちもイエスさまが十字架の上で体験されたように、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」としか言うことができないのが現実でしょう。すでにイエスさまの光の中に納め取られているといっても、わたしたちは目が遮られていて、そのことをまだ信じることができないでいます。今年のようにコロナウイルスが全世界を覆いつくしているときには、ましてそうでしょう。そして、その光を見ることができないことこそが、わたしたちの囚われ、弱さ、業(ごう)、罪と言ってもいいでしょう。しかし、にもかかわらず、そのようなわたしたちをイエスさまは復活の光で、倦むことなく絶えることなく、優しく、暖かく照らし続けておられるのです。そこに大きながギャップがあることも事実です。しかし、そのわたしのままで、そのことに感嘆し、感謝することが復活祭でしょう。だから、今、わたしたちができることは、「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています(Ⅰヨハネ4章16節)」と念じることなのではないでしょうか。

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毎週 10:30~

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