復活節第2主日の聖書朗読と勧めのことば
2020年04月19日 - サイト管理者高野教会の信徒の皆様
ご復活から一週間がたち、明日は教皇ヨハネ・パウロ2世によって2000年に定められた「神のいつくしみの主日」です。神様のいつくしみを信じて、この危機を乗り越えていきましょう。
「主の祈り」を唱えながら(歌いながら)の手洗いの実行はいかがでしょうか。高野教会だけでなく、世界の教会と祈りのうちに繋がり、一日も早い終息をお祈りしたいと思います。
カトリック東京大司教区をはじめ、いくつかの教区では、ミサの動画配信が行われています。
中継のミサに与って、霊的聖体拝領をすることもできます。
https://tokyo.catholic.jp/
どうぞくれぐれもご健康に留意なさり、祈りのうちに復活節をお過ごしくださいませ。
高野教会役員会
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4月19日(日) 復活節第2主日(神のいつくしみの主日)
第1朗読 使徒たちの宣教 (使.徒言行録2章42~47節)
(信者たちは、)使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。
第2朗読 使徒ペトロの手紙 (1ペトロ 1章3~9節)
わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。
福音朗読 ヨハネによる福音 (ヨハネ20章19~31節)
その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。
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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日の福音はイエスさまが復活された日の夕方の出来事です。弟子たちはユダ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵を閉めて閉じこもっています。この時の弟子たちの気持ちはどのようなものだったのでしょうか。自分たちの活動のリーダーであったイエスさまが、十字架につけられてしまった。今度は自分たちに、追手が及ぶかもしれない。そのことを恐れていたのかもしれません。また、自分たちはイエスさまを最後の最後に裏切って、見捨てて逃げてしまった。そのことに対する後悔であったかもしれません。また、そのことを、もうイエスさまにゆるしを乞うことも出来ない、取り返しのつかないことをしてしまった。というどこへももっていくことの出来ない気持ち、あるいは、もはや誰も自分たちを、わたしをゆるすことも、心に受けた傷をいやすことも出来ないという諦めにも似た絶望感、そして混乱。とにかく、弟子たちは暗闇の淵に突き落とされ、心を固く閉ざして、自分のうちに閉じこもっています。それが、戸に鍵をかけていたという言葉に表されています。
しかし、イエスさまはその日の朝早く、まだ暗いうちに、もうすでに復活されていました。しかし、日が昇っても、弟子たちは相変わらず暗闇のうちにいて、心を閉ざしたままです。心に鍵をかけ、パンドラの箱に鍵をかけ閉じこもっています。わたしたちは確かに自分の人生の中で、どうすることも出来ない出来事や課題に直面することがあります。自分が抱えこむしかないか、死ぬまでお墓にもっていくしかないようなことがこの身に起こります。それで、わたしたちの心は押しつぶされ、心は折れてしまいます。また自分の犯してしまった罪に苦しみ、どのようにしても償えないという慚愧に心が安らぐことができないこともあるかもしれません。誰もわたしを解放してくれない、誰もわたしをゆるしてくれない、誰もわたしを安心させることは出来ない。そんなことをわたしたちは自分の長い人生の中で、幾つか体験することがあるかもしれません。
そのような暗闇の中に閉じこもっているわたしたちの心の真ん中に立ち、わたしたちのパンドラの箱の鍵を開け、イエスさまは、「あなたがたに平和があるように」と言われました。それは弟子たちにとってどれほど驚きの体験だったでしょう。もはや誰もどうすることも出来ないと思っていたわたしたちの闇の真っただ中にイエスさまが来て立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われたのです。これが弟子たちの復活されたイエスさまとの出会い、弟子たちの復活体験でした。今、世界は、わたしたちはコロナウイルスという目に見えない闇の真っただ中に投げ込まれています。わたしたち人間が積み重ねてきた科学技術や文明の力では、また教会の古色然とした制度やしきたり、わたしたちの信心業や誤った信仰心ではどうすることも出来ない状況を体験しています。人間は全く闇の力の前では、無力であることを体験しています。その闇の中で、無力さのただ中で、イエスさまがわたしたちの真ん中に来て、「あなたがたに平和があるように」と言われることをわたしたちがあえて信じられるかどうかが、今、問われているように思います。イエスさまは死を超えてすでに復活され、わたしたちはその復活の光の中に包まれています。その光はわたしたちを暖かく照らし、包み込んでくれています。
そして、その光はイエスさまの十字架の傷跡から、漏れてくる光だったのではないでしょうか。完全な愛の啓示であるイエスさまの十字架は、いかなる暴力も、死さえも、その愛を破壊することは出来なかったのだということをわたしたちに示しているのではないでしょうか。イエスさまだけが、わたしたちの闇の淵までやってきて、そこに立ち、わたしたちを抱きかかえ、わたしたちの地獄から、わたしたちを引き上げてくださいます。そのことを信じることだけがわたしたちを救い、解放し、自由にしてくれます。そのことをわたしは信じられますか。自分の中に闇を体験している人が、イエスさまの十字架の傷跡から漏れてくる光を見つけることができるのかもしれません。今日は、そのことをひとり一人に問われているように思います。「あなたはわたしを見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである」 この真っ暗な闇の中で、あなたは何を考えますか。