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教会からのお知らせ

年間第16主日の福音と勧めのことば

2020年07月19日 - サイト管理者

年間第16主日 福音朗読 マタイによる福音 (マタイ13章24~30節)

(そのとき、)イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。 「天の国は次のようにたとえられる。 ある人が良い種を畑に蒔いた。 人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。 芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。 僕たちが主人のところに来て言った。 『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。 どこから毒麦が入ったのでしょう。』 主人は、『敵の仕業だ』と言った。 そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、 主人は言った。 『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。 刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。 刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、 麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」

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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

 今日の福音は、共観福音書であるマルコ、ルカにはない「毒麦のたとえ」が語られています。最初に書かれたマルコ福音書にある「成長する種のたとえ(4:26~29)」をわざわざ省いて、毒麦のたとえを挿入しています。しかし、本来は神の国のたとえとして、「成長する種のたとえ」、「からし種のたとえ」、「パン種のたとえ」の3部で構成されていたと思われます。マタイがわざわざ他の福音書にはない「毒麦のたとえ」を挿入したのは、マタイなりの意図があり、イエスさまに由来しないものがあったと考えられます。そもそも、世の終わりに、善い麦と悪い麦を区別して、悪い麦は焼き払うという発想自体、イエスさまに由来するとは到底考えられません。そこには、マタイの教会の直面していた問題、おそらく、教会の中に分裂や対立があったのでしょう。

 基本、人間は、自分は正しいと思いますから、どうして間違っていることがまかり通るのか、という素朴な疑問をもちます。そのように感じることは、わたしたちの人生に数限りなくあることです。しかし、よいキリスト者として、それらを忍耐強く、寛容な心で受け止めなければならない。でも、やっぱり最後には懲らしめてほしいという復讐心にも似た、非常に人間的なものの見方に、たとえ話の論点がすり替えられています。それがやがて、後の教会の教えに色濃く影響を与え、善悪二元論的な発想から、天国、地獄、煉獄、裁きや最後の審判の教えが出てきます。

 己は善であるという立場に立った、二元論的は一見するともっともらしいのですが、非常に危険な考え方だと言わざるを得ません。所詮、有限な人間が「これは善、これは悪」と考えるとき、それが間違ったり、強化されると、「わたしは善、わたしの気に入らないものは悪」という暴力的な主張に変化していきます。その考え方が、様々な混乱や争いを引き起こしてきました。教会も二言論ではないと言いながらも、例外ではありませんでした。

 わたしたちは、そして教会は、つい善人面をしがちです。自分が善人という立場に立っている限り、世の中はけしからと言って、世の中を温かくみつめていくことが難しくなります。そういう、わたしたちも生きていくうえで、人や物事を善い悪いと決めつけて、何とか自分の気持ち落ち着かせてやっていこうとしているのが現実です。しかし、そのときに善い悪いを決めている基準は、どこまでいってもわたしというものが基準になっています。その一方で、わたしたちは、わたしという視点を離れて、人や物事を見ることができない存在であるという自覚がないこともしばしばです。だから、自分は至らないものだ、愚かな罪人であることに気づかされるとき、わたしたちの真実の目が開かれて、人々と心を通い合わせる道が開かれていくように思います。人間の善意を否定するのではありません。イエスさまは、わたしたちが人や物事を、善い悪いという自分の基準で判断してしまうところに、根本的に問題があることを指摘しておられるのです。親鸞は、「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」と言っています。わたしたち人間は誰であっても、状況が変われば、どのような酷いことでもする存在である、という自覚が必要なのでしょう。もち米はうるち米の花粉がつくと、すぐにうるち米に変わってしまうと言われます。人を殺めてしまうようなことは別にして、そもそも人間を、善人と悪人に単純に区別できるのでしょうか。

 わたしたちが己自身をしっかりと見つめていくとき、夫々の違いを超えて、根底において皆が同じいのちによって生かされていることに目が開かれていくように思います。全ての人間の中には、同じいのちが注がれていて、そのいのちは、無限の可能性を秘めています。その真実に目を開くようにという呼びかけが、マルコの「成長する種のたとえ」やからし種、パン種のたとえであると言えるでしょう。小さな、小さなからし種の中に、大きな木になる無限のいのちの可能性が宿っている。パン種は微小であっても、パン生地全体を発酵させ、パンをおいしくしていく力がある。まさにわたしたち人間、ひとり一人の中に神のいのちが宿っていて、見えないけれど、無限に成長していく可能性を秘めていることへの信頼、そこに主眼を置かなければならないのではないでしょうか。わたしたちは、内に宿っているいのちではなく、人間や教会が決めた善悪の基準に目を奪われがちです。今回の聖書の個所も間違って読むと、他者を区別し、断罪していくものとなってしまいます。よく「神さまは分かってくださっている」という言葉を聞ききますが、そこにあるのは、己をどこまでも善とし、他を悪として排除していく思いが隠れされているように思います。改めて、「耳のあるものは聞きなさい」と言われたイエスさまの真実のみことばに聞き入るとき、誰をも区別せず、嫌わず救い取って、決して見捨てることがないイエスの広大無辺な愛に触れされていただけるのではないでしょうか。わたしたちも、心の耳を傾けていきたいものです。

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