年間第21主日の福音と勧めのことば
2020年08月23日 - サイト管理者信徒の皆様へ
♰主の平和
厳しい暑さの毎日ですが、お変わりなくお過ごしでしょうか。
年間第21主日の福音と勧めのことばを掲載します。
洛北ブロック司祭団の年間第21主日のミサが、YouTubeにアップされていますのでご覧ください。
司式はユン神父様です。
共同祈願は、各自の祈りをお捧げください。
京都洛北ブロック主日ミサ
京都教区時報9月号が、京都教区のホームページに掲載されています。
京都教区時報9月号
感染症にも熱中症にもくれぐれもご自愛ください。
祈りのうちに繋がりつつ。
カトリック高野教会
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福音朗読 マタイによる福音 (マタイ16章13~20節)
イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。 あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。 陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。
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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 ユン・サン・ホ
口で「イエスは神の子です」、「あなたを信じます」、と言っても不十分であることを、今日、イエス様は教えています。もちろん、口で自分の信仰を表わすのは大事なことです。しかし、私たちの信仰告白、約束は不完全で、危ない信仰です。
他の箇所でイエスは、「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである(7:21)」と言い、聖イグナチオも「愛は言葉よりも行動で示すべきことです」と言いました。
「かの日には、大勢の者がわたしに『主よ、私たちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう(7:22)」と言われています。唯一の信仰をさずかったとしても、そのような生き方をしないならば、何の得があるでしょうか。言葉と行いがひとつになるまで時間が必要です。全てに、時があります。
イエスは、ご自分がメシアであることを誰にも話さないようにと命じられました。なぜでしょう。福音宣教は、弟子たちの使命でもあるのに。
それには、最後の晩餐でのイエスとぺトロの話が、ヒントになると思います。
[イエスは弟子たちに言われた。「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう』と書いてあるからだ。しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」するとペトロが、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、私は決してつまずきません」と言った。イエスは言われた。「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」(26:31~35)]
それを聞いてペトロは、「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません(26:35)」と言います。弟子たちも皆、同じように相槌を打ったことでしょう。
イエスについていくことは、この世で考えられる幸せを手に入れることとは、相いれません。ペトロは鶏が鳴く前に「あんな人は知らない」と三度否定したことに「はっ」と気づき、泣きます。ペトロが、今日もらった鍵は、この世の幸せを手に入れるための鍵ではなく、難しいこの世の難問に答える鍵でもありません。
神様と人、人と人とをつなぐ鍵、人間を死から救う鍵です。これこそこの世の知恵を超える幸せです。人間が神になろうとして、善悪の知識の木の実を食べた時から、人は不幸になったと聖書は教えています。
今でも、人間の力を頼みとして、戦争や、原子力、ひとりの力ある人間、イデオロギーのようなものに頼り、やがて多くの命が脅かされるようになって、人間の力ではどうしようもなくなることを、私達は罪と呼んでいます。罪とは、神様以外のものに救いがあると信じることから始まります。
人が神に出会い、頂いた鍵を使い、罪によって離れ離れになった世界と人、神との関係を取り戻すために、「はっ」と気付き、私達もイエスに立ち戻ることができます。弟子たちは、自分自身がどれほど信頼できない存在であることを知らなかったのです。だから私たちは、自分の能力、力ではなく、神の御言葉に従って生きる恵みと、委ねる勇気と謙遜が要求されています。それが、キリスト教でいう救いであると言ったらいいでしょう。