年間第26主日の福音と勧めのことば
2020年09月27日 - サイト管理者信徒の皆様へ
♰主の平和
彼岸花が咲き、すっかり秋の景色になりました。
お変わりなくお過ごしでしょうか。
洛北ブロック司祭団の年間第26主日のミサが、YouTubeにアップされていますのでご覧ください。
司式はユン神父様です。
共同祈願は、各自の祈りをお捧げください。
京都洛北ブロック主日ミサ
昨日、京都教区より、「新型コロナウイルス感染症について ミサ等教会活動の再開に向けての措置(その7)」が発表されました。
それには、「これまで提示した『感染予防対策』を確実に実施することを条件に、10月1日(木)から、ミサ等の教会活動の再開をブロックの状況に応じて許可することにします。」と書かれています。
京都教区ホームページ
高野教会でのミサの再開につきまして、詳細が決まり次第、一斉メールでお知らせいたしますので、今しばらくお待ちください。
祈りのうちに繋がりつつ。
カトリック高野教会
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福音朗読 マタイによる福音(マタイ21章28~32節)
(そのとき、イエスは祭司長や民の長老たちに言われた。)「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」
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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 ユン・サン・ホ
今日の第一朗読では、預言者エゼキエルは主が公平と思われる人生の道を伝えます。正しい人と言われる人でも、正義から離れて悪を行うと死ぬようになり、悪人でも自分が行った罪から離れ、公正と正義を行うと命を救われるでしょう。第二朗読はフィリピ 2・1-11、または2・1-5です。使徒パウロは何事でも、利己心や虚栄心ではなく、謙遜な心で行うようにと命令します。これがまさしく、わたしたちが保つべき、イエス様がもっておられる御心であります。
今日の福音は、イエス様が「二人の息子」のたとえを通して、御父のみ旨を正しく実践する生き方は、どんなことなのかを悟らせてくださいます。そして、義の道について教えられたことを信じた徴税人や娼婦たちが、先に神の国に入るだろうとおっしゃいます。彼らの信仰と実践の方がより良かったからです。《イエス様が二人の息子のたとえ話を語ったとき、それを聞いていたのは「祭司長や民の長老」でした。お父さんが二人の息子に「今日、ぶどう園へ行って働きなさい」と言った時、兄弟の返答は、それぞれ従順と不従順の形で現れます。兄の不従順な反応は、お父さんに苦しみを与えたのですが、兄は後で考え直して出かけます。それを知ったお父さんの心は、喜びで満ち溢れたことでしょう! しかし、「承知しました」と答えただけで従わなかった弟の行いは、「はい」という答えを聞いたお父さんの喜びをひっくり返す結果になりました。「お父さんの思い」を果たすということは「いやです」「承知しました」という口だけのものではなく、実際にぶどう園の仕事に「出かけて行ったか」「行かなかったのか」と いうことで決まります。
ところで、イエス様が、「徴税人や 娼婦たちがあなたたちより先に神の国に入るだろう」といった理由はどんなところにあるのでしょうか?イエス様が来る前に、洗礼者ヨハネは人々に「義の道」(正しい道)を示し、「主の道を整え、その歩む道をまっすぐにせよ」(マタイ3・3-4)と述べ伝えました。徴税人や娼婦たちは、ヨハネの教えを受け入れ彼を信じ改心しました。しかし、ユダの指導者たちはヨハネが伝えた義の道から外れていきました。彼らはイエス様を排斥する前に、「正しい道を教えている」ヨハネをも拒否していました。また、彼らは徴税人や娼婦たちが回心する姿を目の当たりにしながらも、ヨハネを最後まで 信じなかったのです。マタイ福音書は、イエス様とヨハネを神様のみことばを伝える預言者、神様が望んでいる「すべての義を果たす方」であると紹介しています。そしてイエス様とヨハネは「神の国は近づいた」(マタイ3・1-3)と宣布して、宣教を成し遂げられたのです。
ヨハネに示したユダの指導者の態度は、イエス様に対しても同じものとなり、それは神様に対する態度となりました。「あなたには信仰があるが、わたしには行いがある。行いを伴わないあなたの信仰をわたしに見せなさい。そうすれば、わたしは行いをもって信仰をみせよう。」(ヤコブ2・18)という使徒ヤコブの言葉が浮かんできます。信仰は理念ではなく、実践的な行いを通して現れます。イエス様はたとえ話を通して、ユダの指導者たちの矛盾だらけの信仰の生活を非難すると同時に、わたしたちの信仰が生活の中でことばだけではなく、行いを伴うものとなることを促しています。神の国に入る資格を失わないように、信仰と実践をより高めていけるように。