王であるキリストの福音と勧めのことば
2020年11月22日 - サイト管理者信徒の皆さまへ
♰主の平和
「王であるキリスト」の祭日の福音と勧めのことばをお送りします。
■京都洛北ブロック「王であるキリスト」のミサが、YouTubeにアップされていますのでご覧ください。
司式はユン神父様です。
共同祈願は、各自の祈りをお捧げください。
■高野教会では、ホールでの地区別ミサが続いています。
ミサに参加される際には、新型コロナウイルス感染予防のため、
手指の消毒、マスク着用、自宅での検温を行った上で、氏名・連絡先を記入したメモをご持参ください。
また、ほとんどの教会でミサの人数制限がありますので、他の教会のミサに行かれることがないようにお願いします。
引き続き、大塚司教様より、主日のミサに与る義務が免除されています。
カトリック高野教会
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福音朗読 マタイによる福音書 25章31~46節
[そのとき、イエスは弟子たちに言われた。]
「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。
そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、
彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。
そこで、王は右側にいる人たちに言う。
『さあ、わたしの父に祝福された人たち、
天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。
お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、
のどが渇いていたときに飲ませ、
旅をしていたときに宿を貸し、
裸のときに着せ、
病気のときに見舞い、
牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
すると、正しい人たちが王に答える。
『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、
のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。
いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、
裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。
いつ、病気をなさったり、
牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
そこで、王は答える。
『はっきり言っておく。
わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、
わたしにしてくれたことなのである。』
それから、王は左側にいる人たちにも言う。
『呪われた者ども、
わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。
お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、
のどが渇いたときに飲ませず、
旅をしていたときに宿を貸さず、
裸のときに着せず、
病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』
すると、彼らも答える。
『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』
そこで、王は答える。
『はっきり言っておく。
この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』
こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」
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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 ユン・サンホ
教会は社会教説を通してそのように宣言します。「貧しい人々が福音を聞く時、それはキリストが現存される印となる」と…私たち一人ひとりはすべて関係がある。どれも私たちと無関心な人はありません。
万物の主である神が「栄光の座に着く」ことによって始まる、最終的な審判が描かれています。さばきの基準の方は「公平な裁き」です。もう少し優しく言えば、神のみ言葉を聴いて、神の愛と正義を実現したかどうかということです。すなわち、飢えている人に食べさせ、のどが渇いていている人に飲ませ、裸の人に着させたかどうかによって決まる裁きです。
来週、11月末、待降節が始まります。心も体も精神も尽くして、自分自身を空っぽにする時間です。そして真の王であるイエス・キリストの降誕をふさわしく準備する時期です。神から遣わされた真の王、救い主を迎えるためです。宮殿ではなく、馬小屋でお生まれになった小さくて貧しい方を迎えるためです。
神様が「最も小さい者」になり、御子に十字架を担わせ、和解の言葉を罪人に語りかけたのですから、わたしたちがその和解を受けているなら、「最も小さな一人」に対する配慮を行われるはずです。「この最も小さいものにしたのは、わたしにしてくれたこと」という王の言葉は、神ご自身が「最も小さい者」となられたことを示しています。
だから、そのような小さい人々に対して配慮の心、思いやり、愛を忘れないためにイエス・キリストを「王」として今日の祝日を祝うのです。「人の子は」仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」と(マタイ20,28)福音にも言われています。真の王の姿です。
栄光の座に座る「人の子」は、自らを無にしてわたしたちに「仕える」者となった王です。今日、この真の王の御心を忘れないようにわたしたちを招かれているのです。
その交わりが、わたしたち「仕える」者へと変える力となります。教会は、終末に向かって歩むキリストの体です。
教会の典礼暦で、新たに始まる年を迎え、心も体も改めて、イエス様が生涯を掛けて歩き続けた奉仕の道、愛の道、正義の道を私たちもイエスの生き方を通して、実践できるように願ってこのごミサを捧げましょう!
私たちの理想、希望、目的はことごとくキリストのうちにあります。なぜなら、キリストは、真の王であり、愛であり、神であらせられるからです。
裁きの日、天国に入れる人となりますように、つねに愛を実践する日々でありますように…。