待降節第3主日の福音と勧めのことば
2020年12月13日 - サイト管理者信徒の皆さまへ
♰主の平和
寒くなってきましたが、お変わりございませんか。
待降節第3主日、アドベントろうそくの3本目に灯がともりました。
例年なら、みんなで飾りつけをしたり、大掃除をしたりしてご降誕を迎える準備をしているころですね。今年はできませんが、心を合わせて祈りのうちに繋がれますように。
■ヨセフ年
教皇フランシスコは12月8日、聖ヨセフがカトリック教会の保護者として宣言されてから150年を迎えるにあたって、2020年12月8日から2021年12月8日を「ヨセフ年」とすることを宣言されました。
■京都洛北ブロック待降節第3主日のミサが、YouTubeにアップされています。
司式はユン神父様です。
共同祈願は、各自の祈りをお捧げください。
■教皇フランシスコ来日一周年記念ミサ(カトリック麹町聖イグナチオ教会にて)
■高野教会では、ホールでの地区別ミサが続いています。
ミサに行かれる際には、注意事項をお守りくださいますようお願いします。
また、ほとんどの教会でミサの人数制限がありますので、他の教会のミサに行かれることがないようにお願いします。
引き続き、大塚司教様より、主日のミサに与る義務が免除されています。
お願い
ミサに参加の際は、コロナ感染予防のため
①手指の消毒、マスク着用、自宅での検温
②氏名・連絡先を記入したメモをご持参ください。
カトリック高野教会
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福音朗読 ヨハネによる福音(ヨハネ1章6~8、19~28節)
神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。
光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。
彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。そこで、彼らは言った。
「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。
「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。
『主の道をまっすぐにせよ』と。」
遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」
これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。
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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 ユン・サンホ
「喜びの主日」と呼ばれる待降節第3主日にあって、イザヤの預言の言葉を聴く私たちは、試練のうちにあっても、神が必ず救いに来てくださるという希望を思い出すことができます。今日の第1朗読は自分の使命は「貧しい人に良い知らせを伝え解放を告げ知らせる」ことだと述べています。「時は満ち、神の国は近づいた」(マルコ1:15)という神の国が始まったということを言っているのです。
第2朗読は「皆さん、いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、どんなことにも感謝しなさい、霊の火をともし続けなさい」と。喜びというのは、人が神の前にあって大切な態度であるし、祈る人は感謝している人間の姿であります。
こういった生き方が可能なのは、神が私たちに望んでおられるからですが、この望みは、イエスがそのように生涯を通して生き抜き、神によって復活させられたことによって、私たちに確かなこととして知られるようになったからです。 そして、私たちがこのイエスの生き様と復活を「良い知らせ」として受け入れるとき、「まったく聖なる者」、「何一つ欠けたところのないもの」、「非のうちどころのない者」とされるのです。
今日の福音は先週に続いて、洗礼者ヨハネに注目しています。祭司やレビたちがヨハネに、「あなたは、どなたですか」と質問したとき、隠さず、「わたしはメシアではない」と、また、「では何ですか、あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言います。さらに、「あなたはあの預言者ですか」と尋ねると、「そうではない」とこたえます。
洗礼者ヨハネは、自分が誰であるかをよく理解していました。だからこそ自分に与えられた使命が、何であるかも知っていたのです。彼は光でもなければ、メシアでもなく、預言者ですらありませんでした。洗礼者ヨハネは、み言葉を告げる声であり、霊の炎(ほのお)を準備するための水にすぎませんでした。
福音宣教はそれ自体に目的をもつものではなく、常に「何かに到達できるため」になされるものです。だからこそ福音宣教者は、洗礼者ヨハネのように「み言葉」と「単なる声」を正しく区別することを知っているのです。
遣わされたものは、謙遜な心をもって「貧しい人に良い知らせを伝え、解放を告げ知らせる」こと、自分の生き方を通して「いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、どんなことにも感謝しなさい、霊の火をともし続けなさい。」と伝えることでしょう。