年間第6主日の福音と勧めのことば
2021年02月14日 - サイト管理者信徒の皆さまへ
♰主の平和
春が待ち遠しい今日この頃です。
三寒四温の言葉通り、また寒い日が戻って来るようです。
気温の変化が大きい時期ですので、どうぞ体調管理にお気を付けになり、お元気でお過ごしください。
■京都洛北ブロック年間第6主日のミサが、YouTubeにアップされています。
司式は北村神父様です。
共同祈願は、各自の祈りをお捧げください。
■教会の典礼は、2月17日の灰の水曜日から四旬節に入ります。四旬節のはじめである灰の水曜日は、大斎・小斎の日です。
カトリック高野教会
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福音朗読 マルコによる福音(マルコ1章40~45節)
[そのとき、]重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。
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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日の箇所は、重い皮膚病を患っている人の癒しの場面が朗読されます。ギリシャ語でレプラといわれる言葉で、ハンセン氏病を指すように言われますが、必ずしもハンセン氏病だけを指す言葉ではないため、新しい聖書協会共同訳では、「規定の病を患っている人」と訳されています。今わたしたちが使っている、新共同訳聖書では、「重い皮膚病」と訳されています。「規定の病を患っている人」の記述は、レビ記13章にあり、詳細な病状や病気にまで及んでいます。こうした規定は、ユダヤ教の清浄規定といわれるものであり、衛生という概念がなかった時代、清浄と汚れを律法によって規定することで、結果的にはユダヤ人たちの健康を守ってきました。
今、日本では、コロナ禍の中での手洗い、うがい、マスクの着用、換気、清掃などが当たり前のこととして言われていますが、現代においてさえ、多くの国々では当たり前のことではないのです。しかし、そうした当たり前の基本的人権に関わることを、律法の名のもとに人間が規定したことが問題でした。被造物は神さまから、すべてよしとされています。にも関わらず、清浄規定そのものが、清いと汚れといういわゆる二言論で成り立っており、全てを分別し、汚れを避けるという忌避意識が根底に潜んでいます。このあり方そのものが大きな問題となります。こうした律法主義は、現代においても民族主義、排他主義、選民思想、優性思想から始まって、競争原理、結果主義、差別、偏見と名前を変えて、わたしたちの間に存在しています。だから、キリスト教の中にこの律法主義を持ち込まないことが非常に大切です。この律法主義こそ、イエスさまが問題視された人間の闇、無明、罪といっていいでしょう。
レビ記によれば、「この病を発症したものは衣服を裂き、髪を垂らし…『汚れている。汚れている』と叫ばなければならない。その患部があるかぎり、その人は汚れている。宿営の外で、一人離れて住まなければならない(45~46)」とあります。ここに出てくる重い皮膚病を患っている人は、規定の皮膚病のなかで、ハンセン氏病であったことはほぼ確実で、共同体から追放され、人々が自分に近づかないように大声で叫ばなければならず、律法によって汚れた者とされていました。だから、通常は人々のいるところには近寄ることは出来ず、この病人は決死の思いで、イエスさまに近づいたのだと思われます。家族から、地域共同体から、もちろんユダヤ教の礼拝の場からも排除されていたので、その苦しみは、病からくるものだけでなく、精神的苦しみの方がもっと大きなものがあったと思います。しかし、イエスさまは「深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ」て病を癒されます。この人は、病気にかかってから、人に触れられたのは初めてだったでしょう。いくら、親子、家族ですら、その人に触れることは、自分も汚れるとして、律法から厳しく禁じられていたからです。
しかし、イエスさまは、その人に手を差し伸べられます。この行為は、そのことによって自分も汚れるとされてきたユダヤ教の禁忌を破ることでした。その行為は、イエスさまのその人への「深い憐れみ」からであると描かれています。憐れみというと、何か上から目線的なものを感じてしまうかもしれませんが、「深い憐れみ」というのはその人の痛み、苦しみと同期と共鳴、同化してしまうような心の動きを現わしています。イエスさまはその病人の苦しみ、痛みを自分のものとして体験されたのでしょう。他の聖書の写本には、「怒って」とも書かれています。イエスさまの怒りは、もっとも助けを必要としている病人を、宗教の名において排除してしまうその宗教や社会のあり方に対する怒りであると言ったらよいでしょう。さらに、イエスさまは清くなった体を祭司に見せなさいと言われます。当時、清いか汚れているかを判断するのは、祭司の役割で、「清い」と宣言されることで、共同体の交わりに戻ることが出来ました。そこまで、律法が人間に対して権限を持っていました。
カトリック教会も旧約の律法を表面的な文言だけで捉え、詳細に分析し、それを信仰生活の詳細な規範としてしまった時代が、欧米の教会を中心に非常に長く続きました。そして、日本の教会にもそのような歪んだキリスト教が持ち込まれました。その影響は今日まで続き、福音の喜びよりも、掟を優先する歪んだ「罪への恐怖心」として、人々の間に残っています。そのように教育する方が、ある人たちにとっては都合がよく、聞く方も分かりやすかったのでしょう。それが、教会の中でさえ、上下関係、力関係、格差や偏見を生み出しました。これこそカトリック教会の抱えている律法主義です。この呪縛に縛られた人たちが何と多いことでしょうか。この人間や物事を分けて考えるという二元論的な歪んだ救い、聖性の理解こそが、わたしたちを苦しめている元凶です。
イエスさまは、その律法主義に正面から対決し、解放を告げ知らされました。第2バチカン公会議によって刷新されたとはいえ、まだまだ律法主義がわたしたちの中に潜んでいます。わたしたちの中にある闇、「頑張って、よい信者にならなければいけない」とか、「いろんな奉仕をしている人たちは偉い」とか、「あの人は長く信者をしていて、熱心で信仰が深い」とか、洗礼を受けていない人を「未信者」といったり、微妙な上下関係、格差、区別を作り出したり、それで教会に行くのが嫌になる人もいます。また、聖職者が絶対君主のようになって信徒を支配することもあります。わたしたちはイエスさまにおいてひとつで、そこに如何なる上下関係、格差はありません。教皇さまといえどもわたしたちと同じキリスト者であり、その役割上、カトリック教会の代表であるのです。
キリスト者の特徴は、教皇様もいわれるように、イエスさまと出会いによってもたらされた解放、救い、喜びであり、表面的ではなく心の深みにある平和、そこからにじみ出てくる喜びにあります。今日の癒された病人が体験した喜びこそが、その出来事を人々に言い広めずにはいられなかったように、わたしたちの福音宣教の原動力となるのです。わたしたちは、福音宣教と無関係であるとは言えません。もし、わたしたちがそう思っているのなら、わたしたちは未だ旧約の世界にいるのかもしれません。