年間第27主日の福音と勧めのことば
2021年10月03日 - サイト管理者♰主の平和
10月、ロザリオの月に入りました。
緊急事態宣言がようやく解除され、今日からミサが再開されます。
地区別ミサですので、予定をご確認の上、ご自分の地区のミサにあずかってください。
感染防止の3つの基本:①身体的距離の確保、②マスクの着用、③手洗いと、「3密」の回避(密集、密接、密閉)を守りながら、ミサが再開されることを喜び合いたいと思います。
どうぞくれぐれもご自愛ください。祈りのうちに。
■9月1日~10月4日は、「すべてのいのちを守るための月間」です。
「すべてのいのちを守るためのキリスト者の祈り」を共に捧げましょう。
■京都みんなで捧げるミサ 年間第26主日のミサの配信はお休みです。
カトリック高野教会
************************************
福音朗読 マルコによる福音(マルコ10章2~16節)
[そのとき、]ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」
イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。
************************************
<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日の聖書の箇所は、しばしばカトリック教会における結婚の不解消性の根拠として述べられています。しかし、イエスさまがここで話された意図は、結婚の不解消性について述べるためではなく、当時の女性の権利を擁護するための発言であると言えます。離婚についての話は、その直後に来る、子どもを祝福するという箇所と密接に結ばれています。というのは、その当時、女性と子どもという存在は、社会的に権利が認められていないものの代表であったからです。その点から、今日の箇所をもう一度読み直していきましょう。
今日の箇所は、イエスさまがガリラヤを去って、エルサレムへ向かう途上での出来事です。そこには、イエスさまの教えを聞こうとして多くの人が集まってきていますが、同時にイエスさまに対して明らかに敵意を抱いているファリサイ派の人々も混じっていました。ファリサイ派の人々にとって、イエスさまは明らかに、律法の違反者として映っていたようです。すでに、モーセの律法において、夫が妻を離縁することが認められており(申命記24:1)、イエスさまの時代のユダヤ教においてもそれは自明のことでした。それにもかかわらず、ファリサイ派の人々が、「夫が妻を離縁することは、律法にかなっているでしょうか」と質問すること自体、イエスさまを試そうとしたのだということが分かります。おそらく、イエスさまは、離婚ということについて、モーセの律法と異なる考えをもっておられるということを彼らは知っていたのでしょう。ですから、このファリサイ派の人たちの問いは、真摯なものではなく、イエスを試み、陥れようとする悪意から出たものであることが分かります。イエスさまを律法に対する違反者として、告発するためです。
イエスさまは、ユダヤ教の律法を神さまの本来の意図によるのではなく、「人間の心が頑固なので」与えられた次善の策であると理解されていたということだと思います。ユダヤ人にとって教えの本質である律法を相対化し、律法を超えるものを目指していく発想は、エルサレムの陥落後にユダヤ教から独立していった後代の教会の理解ではなく、イエスさま自身に由来するものであると思われます。なぜなら、マルコ福音書は紀元70年のエルサレムの陥落以前に書かれたものであり、イエスさま自身の教えに由来するものが書き記されていると言えるからです。70年以降に書かれた他の3つの福音書は、ユダヤ教の一派であったナザレ派から、キリスト教になっていく過程で書かれたものであり、その時々の状況が色濃く反映されています。そのように見ても、このような律法に対する捉え方は、イエスさまに由来するものであり、当時のファリサイ派の人々にとっては受け入れがたいことだったと思われます。それゆえ、ファリサイ派の人々はイエスさまと激しく対立し、ファリサイ派の人々は、イエスさまを律法の違反者としてゆるすことは出来ないと考えたのでしょう。しかし、イエスさまは、男性にだけ離婚権を認め、女性にはその権利を一切認めない、女性を甚だしく弱い状況に追いやっている、当時の律法という名のもとに行われている男性中心主義的な恣意と暴力を批判されたのだということが出来るでしょう。ここで問題とされていることは、一部の権利や既得権をもったものによって行われる、しかも、宗教という名のもとに行われている弱者への抑圧、暴力ということが問題になっていると言えるでしょう。ですから、この箇所をもって結婚の不解消性を主張するのは無理があると言えるでしょう。
この後に続く、子どもたちとのやり取りも同じ視点であるということを理解すれば、なぜこの箇所の直後に、子どもの祝福の箇所が置かれているのかもよく理解することが出来ます。マルコにおいては、すでに「わたしの名のためにこのような子どものひとりを受け入れるものは…(10:37)」と話し、イエスさまの弟子としての心構えについて話しておられます。聖書のなかで、“子ども”ということばは、幼児から12歳までの年齢に対してもちいられています。この年齢の子どもたちは、律法を理解できず、また律法を守ることも出来ません。それゆえに神さまの前に何の価値もないものとして扱われていました。しかも、ユダヤ教は、律法の遵守によってのみ、神さまによって義とされると考えられていましたから、女性や子どもたちは人としての価値を認められていなかったという当時の状況があるわけです。そのような当時のユダヤ教の価値観に対して、イエスさまは、憤って、「はっきり言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と、あえて挑戦的な発言をされるのです。これは、当時のユダヤ教の主な宗教的指導者であった律法学者やファリサイ派の人々に反対することであり、彼らを徹底的に批判していかれます。
それでは、改めて「子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」ということばを考えてみたいと思います。神の国は、先ず天国でないことを指摘しておきたいと思います。そもそも、イエスさまは、人々を天国に導くために来られたのではありません。イエスさまは、わたしたちに神の国を宣言するために来られました。そして、神の国に入るために必要なことは「子どものように神の国を受け入れる」ことであると言われます。「子どものように神の国を受け入れる」とはどういうことでしょうか。まず神の国は、イエスさまとの関わりに基づく新しい神と人、人と人の関わりを現わしています。ですから、場所とかではなく、時間と空間を超えた状態を現わしています。そのことはヨハネの手紙のなかでは、次のように述べられています。「わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです…愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです(Ⅰヨハネ3:1~2)」。ヨハネは、わたしたち人間の現実を「神の子」ということばで表しています。呼び方が問題ではなく、その状態が大切です。わたしたちは、皆等しく、今既に神の恵みによって神の子どもである、そのことが先ずわたしに知らさます。御子をありのままに見るということが、そのことが全人類に知らされること、神の国の完成を意味しています。わたしたちは、その真実を知り、その真実に気づくことが出発点であると言えるでしょう。
しかし、子どもたちは、律法を守ったり、功徳を積むことも、犠牲を捧げることも出来ません。ですから、このような状態にわたしたちが入れられるのは、わたしたちの力によるのではなく、唯、神の無償の恵みに拠っています。それがまさに、貧しく無力なものでしかないわたしたちに注がれる神の愛に他なりません。神さまからの愛は無償ですが、子どもはまったく小さく無力なものとして親に信頼することしかできないように、わたしたちが神さまを信頼することが大切なこととなってきます。何でも自分で出来る大人、その大人の代表格が律法学者、ファリサイ人ですが、彼らは、かえって神さまからの愛を拒んでしまっていると言えます。なぜなら、彼らは自分の誤った信仰観で手柄、犠牲、功徳を立てて、それで、神さまと駆け引きをしようとしているからです。実は、これが現代の教会が気づかない、もっとも深刻な問題なのです。かといって、何もしないでただお委ねすることでいいと言っているのではありません。むしろその逆で、イエスさまを信頼して、イエスさまのみ旨をすべて行っていくことが必要になります。
そこで大切なのは、イエスさまのみ旨が何であるかを正しく知るということになります。イエスさまのみ旨、すなわち、イエスさまの望みをどのようにすれば知ることが出来るでしょうか。それは、わたしたちとイエスさまとの交わり、友情がどれほど真実なものであるかということと関係しています。イエスさまとの真実な交わりがない限り、わたしたちは自分の欲望をイエスさまの望みと勘違いし、善意でそれを実行しようとします。しかし、このイエスさまとの交わりをもつために、マニュアルはなく、わたしが一からイエスさまとの友情を築き、深めていく以外に方法がないからです。それをせず、表面的な形に頼るなら、それは人間的手柄に頼るのと同じで、現代社会においても人々に何も影響を与えることもなく、神の国の建設に寄与することもありません。そこには、生きられた喜び、信仰がないからです。わたし自身が、イエスさまとの交わりを深め、その関わりから出たものでなければ、何も伝わらないのです。それには、イエスさまとの出会い、祈りのなかで、わたし自身が小さなものであることを知らせてもらう以外に方法がないのです。