年間第30主日の福音と勧めのことば
2021年10月24日 - サイト管理者♰主の平和
急に寒くなり、季節が一気に進みました。お変わりございませんか。
どうぞ体調を崩されないようお気をつけください。
■今月のミサは以下の通りです。感染防止対策の上、ご自分の地区のミサに与ってください。
いずれも10時からです。
23日㊏ CD地区
24日㊐ AB地区
30日㊏ AB地区
31日㊐ CD地区
■11月のミサの予定
6日㊏ CD地区
7日㊐ AB地区
13日㊏、14日㊐ 第2週はミサはありません。
20日㊏ AB地区
21日㊐ CD地区
27日㊏ CD地区
28日㊐ AB地区
地区分け
A地区―下鴨、北区、左京区以外の京都市、京都市以外
B地区―高野、田中、北白川、聖護院、浄土寺、吉田、NDシスター
C地区―松ヶ崎、修学院、山端、一乗寺
D地区―岩倉、上高野、静市、鞍馬、八瀬、大原
■京都みんなで捧げるミサ 年間第30主日のミサの司式は大塚司教様です。
■教会は10月を「世界宣教月間」、10月の終わりから二つ目の日曜日を「世界宣教の日」と定めています。今年は24日が「世界宣教の日」です。お祈りと献金をお願いします。
2021年「世界宣教の日」教皇メッセージ
「わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」
■11月は死者の月です。死者の月のお祈りを依頼される方は、聖堂後ろの封筒に必要事項をお書きの上、献金とともに11月のミサの時にお持ちください。
■京都教区 2021年「いのち・平和・環境の日」の集い on ZOOM
~エコロジーから人権まで~
日時:2021年11月13日㊏午前10~11時
講話:奥村 豊 師(京都教区司祭)
対象:関心のある方どなたでもご参加いただけます
方式:オンライン(ZOOM)
申込み:Googleフォームからお申込みください。
申込み締切:11月10日
カトリック高野教会
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福音朗読 マルコによる福音(マルコ10章46~52節)
イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。
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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日の聖書の箇所は、エリコが舞台になっています。エリコは、ヨルダン川下流の町で、エルサレムまで20キロほどのところにあり、エルサレム巡礼の街道沿いの町です。この箇所はイエスさまのエルサレム入城の直前の出来事で、マルコ福音書のなかで、イエスさまが行われた最後の癒しの物語でもあります。マルコ福音書の前半を見ると、ほとんどが病人の癒しとその間に挿入されたイエスさまの教えによって構成されています。マルコの福音書では、多くの奇跡物語が報告されており、神の国の宣教はイエスさまの地上での働き、特にその業によって明らかにされていきます。
バルティマイは目が見えませんでした。目が見えないということはどういうことでしょう。目が見えないということは、この世界が光に満ちているのに、その光を見ることが出来ないということです。しかし考えてみると、わたしたちは普通太陽の光を見ていても、意識することはありません。太陽の光線は透明なガラスを通り過ぎるとき、窓から入って来て、知らないうちに反対側へと出て行きます。しかし、ガラスが汚れていたり、曇っていたりすれば、光によってガラスが汚れていることに気づかされます。イエスさまご自身が「わたしは世の光」であると言っておられますが、イエスさまは、この世界のありとあらゆるものに平等に注がれ、すべてのものさえ通す光のようなものではないでしょうか。その光は永遠の彼方からやって来て、常にわたしたちを照らし続けています。イエスさまとわたしたちが出会うというのも、同じようなことであると言えるのではないでしょうか。わたしたちが、光を意識するのは、光を遮る強烈な何かがあるときです。影ができることで光を意識する、また太陽の強い光が射すことで教会の壮麗なステンドガラスが美しく見えるのも同じ原理ではないでしょうか。とすれば、光であるイエスさま自身が意識されるのは、そこにイエスさまによって照らされ、癒され、浄められ、贖われなければならない、種々の病や誰も癒すことのできない傷、わたしたちが抱えている罪や闇があるということではないでしょうか。わたしたちは、普通そのような罪、傷や弱さ、貧しさや惨めさを、イエスさまと出会うための妨げ、障がいと考えてしまいます。また、そのように教えられてきたのではないでしょうか。
しかし、今日の福音に出てくるバルティマイは、目が見えませんでした。ですから、イエスさまを見ることが出来ません。しかし、幸い耳は聞こえましたから、ナザレのイエスのお通りだという声が耳に入ってきます。目が見えず、暗闇のうちにいても耳は聞こえていたのです。それは、遥か彼方から聞こえてくる、バルティマイを呼ぶ声だったのではないでしょうか。バルティマイは、ナザレのイエスのお通りであると聞くと、人々の制止もものともせず「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けます。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」と言われ、彼は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスさまのところへやって来ます。イエスさまは、「何をしてほしいのか」とお尋ねになります。彼は、改めて自分の目が見えないことを意識します。「先生、目が見えるようになりたいのです」。これは、彼の心からの叫びであり、これはわたしたちの魂の叫びではないでしょうか。この人は目が見えるようになったときに、一番先に見えてくるのはイエスさまです。わたしたちが探し求めているものは何でしょうか。それは、イエスさまではないでしょうか。そのイエスさまはどこにおられたのでしょうか。イエスさまは、天地創造の前から、わたしとともにおられました。そのことに気づかず、イエスさまに背を向け続けてきたのは、実はこのわたしなのです。イエスさまがおられなかったのではなく、わたしがイエスさまに背を向け続けていたのです。しかし、イエスさまは、そのようなわたしに声を掛けられたのです。「何をしてほしいのか」と。目が見えないということは、わたしが、わたしたちともにおられるイエスさまの現存に気づいていなかったということに他なりません。
このバルティマイの姿は、わたしたち自身であると言えるでしょう。実は、イエスさまはわたしたちともにおられるのに、わたしたちが目を閉じていたのだと言えばいいかもしれません。わたしたちが目を閉ざしていれば、光は見えません。光がないのではなく、わたしが目を瞑って光を見ないようにしていたのです。しかし、わたしたちが目を閉ざしていたとしても、光はわたしたちを絶え間なく照らし続けています。生まれつき目が見えないのであれば、自分が光によって照らされていても、それが闇であることさえ分からないのです。つまり、自分が闇のなかにいることさえ気がつかないほどの深い無明の闇に沈んでいる、これがわたしたち人間の姿であると言えるでしょう。そのようなわたしたちですが、耳は開いています。目の見えないバルティマイでしたが、ナザレのイエスさまが近づいて来られるのが聞こえます。わたしたちがどんなに拒もうとも、イエスさまのわたしへの呼びかけの声は聞こえてくるのです。イエスさまのわたしへの呼びかけの声は、実は絶え間なくわたしに届いていたるです。それにもかかわらず、その呼びかけの声に心の耳を閉ざしてきたこと、これがもっと深い闇であると言えるでしょう。“闇”という漢字が現わしている通り、まことの闇は、その呼びかけの声、“音”にも門戸を閉ざすことなのです。
バルティマイは目が見えないという現実を通して、エルサレムへと向かって歩まれるイエスさまと出会いました。イエスさまと出会うということは、病を治してもらうということではありません。イエスさまに出会うということは、イエスさまに聞き従うことに他なりません。イエスさまの弟子たちは、長年、イエスさまと一緒にいましたが、イエスさまに耳を傾けていませんでした。イエスさまを見ていたかもしれませんが、イエスさまに聞いていませんでした。マルコ福音書においては、弟子たちの無理解、不信仰という問題が一貫して取り上げられます。それは、弟子たちがイエスさまとともにありながら、イエスさまに聞いていない、実は見ていないまことの闇という問題を提起しています。一方で、目の見えなかったバルティマイは、イエスさまとの出会いを通して、「なお道を進まれるイエスさまに」聞き従っていきます。弟子たちは目が見えていましたが、イエスさまに聞き従ってはいなかったのです。正しく言えば、自分たちの思惑でイエスさまに従っているつもりになっていました。これをもって、本当に見えるということは何かということが問われます。イエスさまがともにおられるということなら、弟子たちもバルティマイも同じです。違うのは、イエスさまの呼びかけが聞こえたかどうかということです。信仰は、弟子たちのように、目に見える形でわたしたちが何かをするということではありません。わたしたちは、闇のなかにいて何もできないのですから、イエスさまの呼びかけが聞こえるという事実しかないわけです。このイエスさまの声を聞かせていただくということが、信仰に他なりません。信仰は、わたしが自分の努力や善意で作り出せるものではないのです。
弟子たちのイエスさまに従っているつもりの自作の信仰は、イエスさまの受難の前にしてあえなく崩れ去ってしまいました。それは、自分の心のあり方を頼りにしていたからです。大切なことは、わたしの心がどうかではなく、「何をしてほしいのか」とわたしに呼び掛けられるイエスさまに聞くこと、信頼することなのです。これをもって信仰というのです。信じることで、わたしの心が平和になったとか、安らかになったということではありません。信仰は、聞くこと(ロマ10:17)に尽きると言えます。わたしがどう聞いたとか、どう従ったということではありません。そうなると、わたしの心の問題になりってしまい、不安定なものとなってしまいます。イエスさまの呼びかけが聞こえるということだけが、真実であり、そこにまことの信仰があるのです。