年間第3主日(神のことばの主日)の福音と勧めのことば
2022年01月23日 - サイト管理者♰主の平和
一昨日は、大寒でした。一年で一番寒い頃だといわれていますが、その通りに厳しい寒さが続いています。お変わりございませんか。
コロナの感染拡大が止まりません。あちこちでクラスターも発生しています。
ミサもお休みとなってしまいました。残念ですが仕方がありません。
主日のミサの「聖書と典礼」は、高野教会聖堂の後ろに置いてありますので、聖体訪問のついでにどうぞお持ち帰りください。
寒さとコロナ、どうぞくれぐれもご自愛ください。
■京都みんなで捧げるミサ 年間第3主日のミサはお休みです。
以下に2つご紹介しますが、日本中の教区や教会で主日ミサの配信がありますので、検索してオンラインミサにお与りください。
東京教区カテドラル関口教会のミサ 23日(日)10:00ライブ配信 その後は録画
東京教区麹町教会のミサ 23日(日)10:00ライブ配信 その後は録画
■新5年生・新6年生・新中学1年生・新中学2年生対象「ミサを学ぶ」
京都教区信仰教育委員会主催
日時:4月2日(土) 14:00~16:00
場所:聖ヴィアトール修道会聖堂(京都市北区北野上白梅町5)
対象のお子さんで、参加希望の方は教育部担当者までご連絡ください。
http://www.kyoto.catholic.jp/new/topnews/20220402.pdf
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福音朗読 ルカによる福音(ルカ1章1~4節、4章14~21節)
わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。
[さて、]イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
「主の霊がわたしの上におられる。
貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。
主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、
目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、
主の恵みの年を告げるためである。」
イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。
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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日の福音では「この聖書の言葉は、今日あなたがたが耳にしたとき、実現した」というイエスさまの言葉が語られます。
ルカ福音書においては「今日」という言葉が度々出てきます。その使い方は非常に印象的です。主の降誕の箇所では「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった(2:11)」、ザアカイとの出会いの箇所では「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日、是非あなたの家に泊まりたい…今日、救いがこの家を訪れた(19:5,9)」、そして今日の福音の「この聖書の言葉は、今日あなたがたが耳にしたとき、実現した」などの「今日」です。ここで使われている「今日」は、2千年前、ベトレヘムにイエスさまが生まれたとき、ナザレやエリコをイエスさまが訪れたときのことであるとわたしたちは考えます。わたしたちは聖書の記述を通して読むわけですから、それらの出来事を2千年前のこととして捉えます。確かに過去の出来事なのでしょう。それではわたしたちが聖書を読んで、それらの出来事を追憶する意義は何でしょうか。
わたしたちは、時間は過去から現在、そして現在から未来へと流れていると思っています。つまり世界全体、宇宙全体を支配する絶対時間のようなものがあるということが前提になっています。ですから、イエスさまの誕生やザアカイとの出会い、そしてイエスさまのナザレの会堂での説教などは過去の出来事で、現在のわたしたちにとっては遥か昔のことで、現在のわたしとの関係を見出だすことは難しいのも当然でしょう。しかし現在、宗教とまったく関係がないと思われていた物理の世界では、量子物理学によると宇宙全体を支配するような絶対時間というものはなく、時間は周期の等しい運動に従って人間が申し合わせた事項にすぎず、あるのは今というときであるということが通説となっています。時間は人間の申し合わせであるのであれば、それは人間の業ですから、人間の業で神さまの働きを量ることはできないということになります。わたしたちは、神さまは永遠で時間と空間を超えておられることを漠然と聞いています。宗教と関係ないと思われてきた物理の世界で、この世界は必ずしも時間と空間に左右されないということがより明確になってきたというのも面白いと思います。
それでは、ルカ福音で言われている今日というのは何なのでしょうか。
わたしたちが、実際に自分が生きていると確かめることができるのは今という瞬間だけです。しかし今という瞬間をわたしたちが意識した時点で、その意識は過去のものとなってしまいます。今という瞬間を人間はつかむことはできないことが分かります。ときをつかもうとしても、砂のようにわたしたちの指の隙間から流れ落ちてしまいます。しかしそれにも関わらずわたしにとって確かなのは、わたしが生きている今日、今このときだけなのだということだと思います。過去は過ぎ去ってしまい、わたしの記憶のなかにあるだけであり、未来は来ていませんから、わたしの漠然とした心のなかの期待でしかありません。わたしが生きているのは、今このときだけなのです。そしてその今は永遠と直結しています。ですからイエスさまが生まれられた今日、ザアカイと出会われた今日、ナザレの人々に話しかけられた今日というのは、2千年前の過去の出来事ではなく、わたしが生きている今日なのであるということが見えてきます。つまりイエスさまは今日わたしのために生まれ、イエスさまは今日わたしのうちに救いとして訪れ、イエスさまは今日わたしに語りかけられておられるということなのです。
イエスさまが訪れてくださるのは、2千年前のイスラエルの民にではなく、また昨日でも明日でもなく、今日、今このときを生きているわたし以外ではないのです。昨日のことはわたしたちの心に記憶として残り、明日のことはわたしたちの心に期待としてあるかもしれません。しかしわたしたちの心そのものは不確かなものであり、明日どのよう変わっていくか誰も分かりません。ですから、わたしたちがイエスさまと出会うのは今というときしかないのです。そのように捉えないときの聖書の出来事は過去の物語となってしまい、今わたしに関わってくださっているイエスさまをすり抜けて、イエスさまはいつまでも過去の人でわたしとの関わりがない方となってしまいます。
わたしたちは、主の祈りのなかで「日毎の糧を今日もお与えください」と祈っていますが、実はこれは正しい訳ではないのです。わたしたちは「日毎の糧を今日お与えください」と祈らなければならないのです。昨日与えてくださったように、明日も与えてくださるように、今日もお与えくださいではないのです。イエスさまがわたしたちに日毎の糧を与えてくださるのは、昨日でもなく、明日でもなく、今日このときなのです。それなのにわたしたちはどうして、昨日のように今日も、明日も与えてくださいというような条件を付けたり、駆け引きをするのでしょうか。イエスさまが見ておられるのは過去の頑張ったわたしでも、罪深いわたしでもなく、また将来頑張るであろうわたしでも、失敗するであろうわたしでもないのです。イエスさまが見て、わたしたちを訪れ、わたしに語りかけられるのは今日、今というときをおいてほかにはないのです。
「この聖書の言葉は、今日あなたがたが耳にしたとき、実現している」というイエスさまの言葉がわたしたちに届いている、聞こえているのは、今わたしの身に起こっている真実であるということなのです。わたしたちがイエスさまと出会い、イエスさまとか関わり、イエスさまに聞くのは、今というときをおいてはないのです。明日になったら、時間ができたら聞こうということではないのです。イエスさまに聞くのは今このときをおいてはないのです。そのことを改めて心に留めましょう。